第42話 オープンイベント(4)
階段を降りる沙羅の心は、ふらつきながらここを上がった時とは別人のように晴れ渡っていた。自分は未熟でお金を払ってまで聴いてもらえるような歌手ではない。けれども、今日は生徒としてその機会に恵まれた。それなら一人でも多くのお客さんの心に届くように歌いたい。沙羅の心に芽生えたその意識は、心地よい緊張を沙羅に与えていた。
ありすは客席に向かってお辞儀をし、マイクをスタンドに戻していたが、舞台袖から近寄る沙羅に驚き、言葉を失った。
「私の分まで歌ってくれてありがとう。もう大丈夫」
沙羅は毅然とした笑顔でありすに軽く頭を下げると、訳が分からないといった顔でステージから降りるありすを見送った。それから、後ろを振り返り、バンドのメンバーに一礼した。
バンドはBGMじゃないの。一緒にステージを作る仲間。お互いが引き立つように音を良く聴かなきゃダメ。
『ピアノバー ヴューカレ』の奈緒美に言われた言葉が蘇る。田嶋は安堵したように沙羅を見つめると、ドラムスティックを持った両手を振り上げた。
沙羅は客席に向き直ると深々とお辞儀をした。先ほどの失態を詫びるように。
ピアニストがあの有名な旋律を奏でると、客席はざわめいた。沙羅は翔太をまっすぐに見つめ、微笑んだ。
翔太と付き合う前、女としての自分に自信がなかった。大抵の日本人が思う美人からは、かけ離れた自分の顔。私の体に興味を持つ男はいても、内面を見ようとしてくれた男はいなかった。
沙羅の身体のラインを際立たせるドレスは、シルバーの飾りを光に反射させながら観客を歌の世界に
でも、あなたに会ってから私は変わった。
私はずっと寂しかった。そんなことないって、ずっとごまかして強がっていたけれど。あなたに会ってやっと素直な自分になれたの。
このままの自分でいいと思えた。みんなに認められるような女になれなくても。
だから今度は、私があなたを幸せにしたいの。
沙羅の深くまっすぐな声は輝きを増しながら翔太に届き、それから観客の心に入り込んだ。歓談していた客も話すのを止め、ステージの沙羅を見つめた。
『(You
沙羅は高校を卒業して以来、出会った人々の顔を思い浮かべた。翔太、パルマの料理長の田村、亮、英玲奈、田嶋、ありす、奈緒美、瑤子ママ。どの一人が欠けても、今の自分はいない。そして、歌手になることを諸手を挙げて賛成せずとも、陰で支えてくれる母親の京子。
ありすの隣に立つ翔太はステージをまっすぐに見ている。その表情は沙羅からはよく見えないが、その目には煌めくものがあった。
沙羅は
パパ。あなたが愛してくれたから、私は翔くんの愛に気づけた。彼は想い出させてくれたの。あなたから愛されていたこと。
あなたがそうしてくれたように彼も私を愛してくれる。一人の人間として。
沙羅は天を仰ぎ、頭上からルイスが微笑みながら見守っているような感覚に包まれた。その切なくも温かいシャウトは、田嶋がシンバルやタムを叩き割るように響かせた音に負けじと反響し、観客の心に染み渡った。
沙羅が微笑みながら歌い終えた時、右目から一滴の温かい涙が流れ落ちた。ステージ前の観客は一斉に立ち上がり、割れんばかりの拍手を沙羅に浴びせた。沙羅はその反響に目を見開き、口を少し開いたまま立ち尽くし、その喝采に包まれていた。言葉に表せない喜びが足元から立ち上がり、全身を駆け巡る。自分の歌に感動し、立ち上がってそれを伝えてくれる人がいる。
振り返ると、田嶋が満足そうな笑みを浮かべながら、右手に持ったドラムスティックを持ち上げて振った。沙羅は田嶋やバンドのメンバーに頭を下げてから、正面に向き直り、深々とお辞儀をした。
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