第41話 オープンイベント(3)

 沙羅の耳の中を鼓動が鳴り響き、頭全体が振動していた。ステージへの短い階段を上がりながら、沙羅は逃げ出したいという衝動に駆られた。

 私は今、ここで歌えるレベルじゃない。

 漠然と感じていた不安が確信に変わる。青ざめた顔でステージに上がる沙羅をドラムの田嶋をはじめ、バンドのメンバーが心配そうに見守るが、沙羅には彼らの表情を見る余裕はなかった。

 沙羅はステージ中央に辿り着き、客席を振り返った。隣の客と話し込む者や、好奇心と期待に満ちた表情を向ける者、斜に構えてじろじろと眺める者、一人一人の顔が沙羅の目に入る。

 沙羅は縋りつくように立見席の翔太を目で探した。隣のありすが携帯電話片手に親しげに翔太に話しかけている。それを見た瞬間、沙羅は頭が真っ白になった。青いドレスの中で脚の震えが強まり、立っているのもやっとであった。


 どのくらいそうして立っていたのだろうか。

 沙羅は自分の前にありすが立ち、沙羅の肩を優しく叩きながら舞台袖の二階へと続く階段を指し、何かを言っているのに気づいた。状況が飲み込めずにとっさに振り返った沙羅は、震えるシンバルと田嶋の困惑した表情を見た。

 あぁ。私、歌えなかったんだ……。イントロも聴こえなかったんだ。

 ぼんやりとした頭でその事実を推測すると、沙羅はありすを虚ろな目で見つめた。

「良かったね。私が練習しといて」

 ありすは微笑みながらそう言うと、沙羅の手からマイクを取り、バンドのメンバーに合図をした。聴き慣れたピアノのイントロを背にしながら、沙羅は舞台袖へと下がった。


 逃げるように舞台袖の階段を上がる。ありすの伸びやかな『Feeling Goodフィーリング・グッド』が沙羅の背中を追いかけ、心臓まで突き刺すかのようだった。階段を上り切ると、欄干の間からありすの歌に聴き入る観客の様子が目に入った。沙羅は足早に楽屋に向かい、中に入ると小上がりの畳に倒れこむように腰を下ろした。

 張り替えられた畳の目地に沿って触っていると、田嶋とこの部屋を片付けた日のことが想い出された。あの日、田嶋の悲しい過去を聞き、Andra Dayアンドラ・デイの『Rise ライズ・Upアップ』を歌ったこと。そして、田嶋の拳に落ちた一滴の涙。

 沙羅は正面に備え付けられた化粧台の鏡に映る自分をぼんやりと眺めた。煌びやかなブルーの衣装とは対照的にその瞳は光を失い、そこには目を背けたくなるような哀れな顔があった。沙羅はただじっとその顔を見つめた。


 扉から漏れる音楽が止み、しばらくしてピアノが鳴った。『Summertimeサマータイム』を囁くように歌うありすの声が聞こえる。沙羅は意を決したように立ち上がり、階段の上からありすの姿を見ようと扉を開けた。

「やっと出てきたの」

 欄干にもたれるようにしてステージを見下ろしていた英玲奈が、振り返って沙羅を見た。

「ごめんなさい」

 沙羅は震える声でそう言うと、英玲奈に頭を下げた。


「沙羅ちゃん、はじめてだったのね。お客さんの前でステージで歌うこと。ここで歌ったことあるんでしょう? その時とは全然違った?」

「全然、違いました。その時は亮先生と田嶋さんしかいなかったですし……それに……」

「それに?」

「皆さんの歌を聴いて自分とのレベルの差に気づいて、歌うのが怖くなったんです。ステージに立ったら音が聴こえなくなってしまって……」

「そう」

「でも、今、楽屋で休んでいたらやっぱり歌いたいって思ったんです。下手ですけど、歌いたいって。あの、自分のことそんなに下手だって思ってなくて、でも、それが分かった今でもやっぱり歌いたいって思ったんです」

 沙羅は田嶋の涙を想い出しながら、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。


 階下ではありすが心地良さそうに、歌声を響かせている。

 翔太はどんな顔で聴いているのだろう。

 沙羅は恐る恐る立見席の方に視線をずらし、心配そうにこちらを見上げている翔太と目が合った。沙羅の心に温かいものが流れ込み、泣きたいような申し訳ないような感情が襲った。

「いろいろ自信がないのね。でも、恋も歌も投げやりになってはだめよ」

 英玲奈は沙羅の表情を見ながらそう言うと、咳ばらいをひとつした。

「とにかく。上手に歌おうなんて思わないこと。そんな想いで歌って誰かの心に響くわけないじゃない。沙羅ちゃん、歌える? それならもう一度、チャンスをあげるわ。瑤子ママが最後の一曲をあなたにあげるって。Aretha アレサ・Franklinフランクリンの『A Natural Womanナチュラル・ウーマン』。歌える?」

 沙羅は目を見開きながら頷いた。とっさに階下の瑤子ママを見ると、こちらを見上げて「早く早く」とでも言うようにステージを指差していた。


「あの、ご迷惑をかけてしまい本当にごめんなさい。でも、やっぱり歌いたいです。だから歌わせて頂きたいです。ありがとうございます!!」

 手を合わせて頭を下げる沙羅の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいる。

「本当よ。あのね、この曲は瑤子ママの十八番おはこでこの曲を歌うために東京に出てきてくれたんだからね。大切に歌わなきゃだめよ。分かったら早く行きなさい」

 英玲奈は真剣な眼差しで沙羅の肩を軽くはたくと、早く降りるように促した。

 

 

 



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