第40話 オープンイベント(2)
英玲奈はゆっくりとステージに近づき、すれ違いざまにママの手を両手で握り、微笑みながら何度も頷いた。それから、黒いレースのジャンプスーツの裾をなびかせてステージに上がると、マイクを握りしめた。
「本日はライブバー『シャウト』のオープンイベントにお集まり頂き、ありがとうございます。先ほど、私が大変お世話になったソウルシンガーの
英玲奈が頭を下げると、客席から拍手が沸き起こり、沙羅はそれを自分が天井から眺めているような不思議な感覚になった。英玲奈の次は自分の出番だ。けれども、それがあまりにも現実とかけ離れた事のように思えて、浮遊感に包まれていた。
沙羅の右隣にはいつの間にか瑤子ママが立っていて、乱れた髪を片手で直しながらステージを見つめていた。目尻には幾重もの笑い皺が刻まれている。
「あん子は喉が酒焼けするとが嫌やけんってお酒に弱かっちゅうことにして、ホステスん時も少ししかお酒飲まんとよ。それなんに、博多でも人気やった」
前を見たまま瑤子ママはそう言うと、歓声をあげながら手を叩いた。
自分はお酒を少ししか飲まないのに、どうやってお客さんにたくさんお酒を飲んでもらうんだろう。
沙羅は歌い始めた英玲奈を見つめながらそんな疑問を抱いたが、その想いは英玲奈の雄叫びにかき消された。
あたしは愚かな女ね、女たらしのあんたなんて好きになっちゃったんだから。
だけど、忘れないで。あたしのこの弱さがあんたに力を与えてるの。
いつか、我慢の限界が来るその日まで。
満面の笑みで歌う姿とは対照的に、苦しい想いが鎖のように聴き手の心にとぐろを巻く。低音の厚みは足りないが、その分クリアに響く英玲奈の美声に客は痺れていた。
沙羅はバーカウンターに視線を移した。藤沢はステージに背を向けて、何やら熱心に二人組の男性と話し込んでいた。傍らのありすはきまり悪そうに英玲奈のステージを見ている。
何が実力で勝負する、なんだか。使えるものなら何でも使うって感じじゃない。
レッスン帰りに彼女から言われた言葉を思い出し、沙羅は心の中でそう毒づいた。
『
沙羅は迫りくる出番に不安を感じながら、何度も入り口を見た。翔太がまだ来ない。自信がないまま翔太の前で歌うのは嫌だったが、彼が来ないまま歌うのは更に心許なかった。
曲が終わると拍手が場内を包み、しばらくしてピアニストがイントロを弾き始め、田嶋がドラムを叩いた。照明が明るさを増し、英玲奈の金色のベルトが煌めいた。
「『
そう呟いた瑤子ママは、瞳に慈愛を浮かべながら口角を上げた。
英玲奈の張りのある歌声が壁にぶつかり、あちらこちらから跳ね返ってくる。
あんたがあたしに何をしようとしてるのか知ってる。あたしだってばかじゃないのよ。
いつだって自由になれるんだから。
だけど、あたしが必要なんでしょ? あたしだってあんたが好きなのよ。
『
英玲奈の軽やかで伸びやかな声が響き渡り、沙羅の隣で瑤子ママがバックコーラスを大声で叫んだ。二人の声が掛け合いのように交互に響く。立見席のシンガーと観客がリズムに合わせて大きく体を揺らした。シンガーと観客が一体となり、室内全体に熱気が立ち込める。
沙羅の視界の端にいた藤沢も振り返り、眩しそうにステージを眺めた。ありすはさすがにきまりが悪いのか、その場を離れ、沙羅の方に歩み寄った。
瑤子ママが近づくありすを上から下まで舐めまわすように見てから、鼻を鳴らして視線をステージに戻した。左手を突き上げて歌い上げた英玲奈を割れんばかりの拍手が包む。
沙羅の出番が迫る。沙羅は入り口を振り返り、息を切らしながら入ってきた翔太の姿を見た。沙羅が手招きをすると、翔太は詫びるように両手を合わせて頭を軽く下げた。
沙羅はステージから降りる英玲奈と翔太を交互に見てから、ステージへと歩き出した。瑤子ママと英玲奈の歌声が沙羅の体に残り、共鳴しているようだった。いつしか観客の拍手の音が消え去り、沙羅の耳には自分の鼓動だけが鳴り響いていた。
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