第39話 オープンイベント(1)
ライブバー『シャウト』は開店と同時に客席が埋め尽くされ、オーナーである田嶋の儀礼的な挨拶が終わると、店内は再びざわめきに包まれた。
ボップミュージック中心の第一部はインディーズアーティストがその美声を響かせ、それに続いて藤沢の生徒達が練習の成果を披露した。
沙羅は入り口近くの立見席で英玲奈の隣に立ち、彼らのパフォーマンスをぼんやりと眺めていた。田嶋とこの場所で過ごした日々が脳裏をよぎる。少ない予算での改修工事とはいえ、外壁も内装も様変わりし、藤沢のこだわりとその手腕が随所に光っていた。
入り口にあった水槽の魚たちはどこへ行ってしまったのだろう。ロッキーは田嶋さんの家で吠えていないかしら。
沙羅は手足の感覚がなくなったような気がしてぎゅっと腕を組んだ。視線を下に落とすと、薄明りでわずかに震えている自分の両脚が目に入る。代わる代わるステージで歌う生徒達は、喜びに満ちていた。
素人とは思えない。私だけ場違いだ。
自認しないようにしていたその思いが沙羅の体を貫く。そうなると人前で歌声を披露するのが怖くて堪らなくなった。沙羅は逃げるように視線を左側にずらし、バーカウンターで寄り添う藤沢とありすに目を留めた。
藤沢はありすの背中に手を回しながら、二人組の男性と話をしている。眼鏡をかけた男性の隣に立っている茶髪の中年男性は、音楽プロデューサーだろうか。ありすの顔に張り付いた純真さは沙羅の心を波立たせた。藤沢がありすの背中や肩をべたべたと触るさまを見ると、沙羅は何か薄汚れたものを目にしたような気分になった。
沙羅は自分の右に立つ英玲奈の顔をそっと窺った。彼女もステージを見ながらちらちらとバーカウンターを気にしているようであった。先生と女の顔が交互に入れ替わり、その横顔に影が差すのを見て、沙羅はより一層心が重くなった。
「あげん男のなにがよかばい」
突然、背後からしわがれた声がして沙羅が振り返ると、胸元の大きく空いたドレスに身を包んだふくよかな女性が立っていた。母親の京子よりも十は上に見えるその女性は、バーカウンターを蔑んだように見やると、沙羅と同時に振り向いた英玲奈を見据えた。
「ママ!!」
その女性の顔を見た瞬間、英玲奈は輝くような喜びを顔から全身に広げた。
「ぎりぎりセーフやったわ。もう二部始まるっちゃろ」
ママと呼ばれたその女性は、英玲奈を包み込むような眼差しで見つめ、ため息をつくと挨拶もそこそこにステージの方へと立ち去った。
「私、九州でホステスやりながらシンガーしてたって言ったじゃない。そこのバーのママ。ママ自身もシンガーなのよ。だから……私の事、ずっと応援してくれたんね」
英玲奈はその女性の後ろ姿を見つめたまま、呟くようにそう言った。
照明が落ちていたステージが再びカッと照らし出され、田嶋がドラムを叩き、ベーシストがイントロを奏で始めた。その瞬間、客席が沸き上がり、前列ではコーラスを歌う者まで現れた。
「『
目を輝かせながら沙羅が隣の英玲奈にそう言うと、英玲奈は黙って頷いた。
『
もうちょっとでいいから、家でも女性に敬意を払って。
ステージ上で男性客をひとりひとり指差しながら愛嬌たっぷりにメッセージを伝えるママの体からは、エネルギーがほとばしっている。その肉や魂が今にも飛び散りそうな迫力だ。
女性が男性に支配される生活なんておかしい。私達も同じ人間なのよ。
彼女の歌声は不平等な扱いに苦しむ当時の女性達の心奥に届き、光となったのだ。
サックス奏者が頬を膨らませながら間奏を鳴り響かせると、ママはバーカウンターを指差し、また歌い始めた。
観客の目が一斉にバーカウンターに集まる。彼女はそれをものともせずに藤沢を凝視した。藤沢はママとは既知の間柄なのだろう。ありすから体を離した後、大げさに拍手をしてみせた。
沙羅はその様子を滑稽に感じながら英玲奈の横顔を盗み見ると、その目は薄く濡れていた。見てはいけないものを目にしたように感じ、沙羅は急いでステージに視線を戻した。
喝采に包まれながらステージを降りるママの姿を沙羅は目で追いかけ、ふっと現実に戻される。
いくら生徒という立場でも、こんなに上手な人の後で歌うなんて私には無理。ステージに立って観客の前で歌ったことすらないんだから。
英玲奈がステージに向かって歩き出すのを眺めながら、沙羅は足の震えが強くなるのを感じていた。
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