第四章
第38話 餅
翔太の家のキッチンに立ちながら、沙羅はIHコンロに並ぶ二つの小さな鍋を見つめていた。左側の鍋の中ではこしあんがふつふつと煮立ち、無数の穴が口を開けている。右側の鍋では
「翔くん。餅、何個食べる?」
ゆっくりと小松菜を切りながら翔太に話しかけるが、返事はない。沙羅は手に包丁を持ったまま首を九十度右へ回した。
ローテーブルの下に足を投げ出した格好で、翔太は横になっていた。沙羅は小さくため息をつくと、コンロを消して翔太の方に歩み寄る。沙羅が近づいても起きる気配はなく、右手にスマホを握りしめたまま寝息を立てている。傾きかけた夕陽がこの部屋に柔らかい光を差し込んでいたが、沙羅は窓辺に近づくと濃紺の遮光カーテンを閉めた。
二か月前に翔太と二人で買った調理器具や食器、遮光カーテン。一つずつ迷いながら選んだあの日が、沙羅には遠く感じられた。
沙羅は翔太の隣に座ると、その寝顔をまじまじと見た。深く刻まれた目の下の
「んん……」
ゆっくりと開いた翔太の目が、自分を覗き込む沙羅の像を結ぶ。
「ごめん。寝ちゃってて……」
翔太は沙羅の膝や手を触ってから、誘うように自分の横の床を叩いた。
沙羅は口を結んで首を横に振ると、キッチンに視線を移す。つられて翔太もキッチンを見るが、沙羅に視線を戻すと甘えたように手を引っ張った。
「やめて」
「何で? 怒らなくてもよくね?」
「怒ってない」
「怒ってるし。何? 俺が寝ちゃったから? ごめんって言ったじゃん」
沙羅は黙ったまま翔太から視線を逸らし、立ち上がると、キッチンへ向かった。
「沙羅。黙ってないでなんか言えよ」
翔太は上体を起こすと、沙羅の背中を言葉で追った。
「別に。ねぇ、餅、二個でいい? 電子レンジで温めるよ?」
切り餅を取り出して確認する沙羅に、翔太はおうと返事した。
「トースター買いに行ったらって言ったのに。食パン焼けないでしょ」
「食パン食わねぇし。まぁ、行こうとは思ってんだけど。いつも仕事終わる頃には店、閉まってるから」
沙羅は電子レンジから溶けた雪だるまのような餅を取り出すと、右の鍋に入れた。
「ねぇ。お雑煮できたから持って行って」
翔太は立ち上がってキッチンに近づき、椀の中を見ると口笛を吹いた。
「すげぇ。正月って感じする」
「鶏肉と人参と小松菜しか入ってないけどね。これ食べたらお汁粉もあるから」
鼻歌を歌いながら翔太はローテーブルに二人分の椀を運び、沙羅を手招きした。
潰れた餅は、翔太と沙羅の歯に絡みついてなかなか取れない。舌でそれを絡め取り、外す互いの姿を見て、二人は顔を見合わせて笑った。
「沙羅、ごめん。実はあと少ししたら仕事行く」
翔太の言葉に沙羅は驚き、むせ返る。
「なんで? 今日はゆっくりできるんじゃないの?」
「悪い。イベントに呼ばれちゃって。そんな顔すんなよ。俺、悪人じゃん」
おどけて沙羅の機嫌を取ろうとする翔太を、沙羅は静かに睨んだ。
「ねぇ、なんで前もって言ってくれないの? そしたら、もっと少ない荷物で来たのに」
沙羅は苛立ちを隠さずにそう言うと、雑煮に視線を落として黙り込んだ。
翔太は椀と箸を置き、真剣な眼差しで沙羅を見つめた。
「沙羅、ごめん。付き合ったばっかなのに、そばにいてやれなくて。クリスマスもイベントで会えなかったしな。だけど、今はインストラクターの仕事もイベントの依頼もできるだけ断りたくないんだ。このチャンスを逃したくない。だから、分かってほしい」
沙羅は胸の中に幾つもの言葉や感情が溢れ出すのを感じながらも、口にできずに俯いていた。
「沙羅。言いたいことあったら言って。俺が好きになったのは、思った事口にして周りをハラハラさせる女の子なんだけど?」
翔太の半分からかうような声が優しく沙羅の耳を撫で、沙羅は泣きそうになるのを必死に堪えていた。
「私、翔くんのこと応援したいと思ってる。でも、翔くんが一人で先に行ってしまう気がして……そんな自分がすごく嫌なの」
翔太ははっとしたように沙羅の表情を窺った。
「その感情はよく知ってる。俺が大会に出られなかった頃、知ってる奴が入賞する度に同じこと思ったから。置いて行かれた気がするんだよな?」
沙羅は黙ったまま頷いた。
「それと……」
私なんかが彼女でいいのかなって……。沙羅は続きを言おうとしてその言葉を飲み込んだ。口にしたらこの関係が崩れてしまう気がしたのだ。
陽は沈み、遮光カーテンを閉めた部屋に薄闇が忍び寄った。沙羅はその濃紺のカーテンを眺めながら、翔太と自分が海に投げ出され、自分だけが底に沈むような感覚に囚われた。
翔太は黙ったままの沙羅の頭を撫でると、立ち上がって電気をつけ、キッチンの方へと歩き出した。
「明後日の沙羅のイベントには顔出すから。途中からだけど、絶対に行く。だから、沙羅も頑張れよ」
お汁粉を椀によそう翔太をぼんやりと眺めながら、沙羅は小さく頷いた。
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