後編 野辺地戦争(のへじせんそう)

 ……とにもかくにも、南部信順なんぶのぶゆきの「のらりくらり」は図に当たった。

 少なくとも、明治元年九月二十三日に至るまでは、八戸藩は目立った戦いには巻き込まれることは無かった。


「久保田藩には、悪いことをした」


 一方で新政府につくことを鮮明にした久保田藩は、その結果、秋田戦争という戦争で藩内が戦場となった。しかも新政府軍とそれについた諸藩の軍費を賄うこととなり、久保田藩は散々なあり様だった。

 八戸藩としては、久保田藩と連絡は取り合ったが、小藩であることとを理由に、参戦はしなかった。

 何しろ、薩摩藩とのつながりがある八戸藩を巻き込んでは、久保田藩としても

 結果、八戸藩は戦いに巻き込まれなかった。


「久保田藩には、本当に悪いことをした……が、これで大勢は決した」


 詳細は措くが、秋田戦争それ自体は、新政府軍の勝利に終わった。その他の戦線でも敗れ、奥羽越列藩同盟もまた……。


「…………」


 それ以上は言わず、信順は鶴姫の仏壇に手を合わせた。

 これで新政府軍は迫る。

 かつての薩摩藩主・島津重豪しまづしげひでの子である信順は、薩摩とのつながりがある。

 だから、長の率いる新政府軍が近づけば近づくだけ、八戸藩は有利になる。


「……しかし、これで終わったのだろうか」


 奥羽越列藩同盟には家老を介してやり取りをした。

 信順自らが出て、下手に斬り合いを演じて、同盟と決裂しないように努めた。

 それでもいざという時は謹慎して、同盟に対する恭順を示そうとしていた。


「……そこまでは至らなかった。これは、物怪もっけの幸い」


 とにもかくにも、八戸藩は戦争に加わらずに済んだ。

 戦場にならずに済んだ。


「これでよし。これで……そなた鶴姫の願いもかなえられそうだ、の」


 信順はあいもかわらず、仏間にて亡き妻・鶴姫の仏壇に手を合わせていた。

 その鶴姫の最後の願いは、八戸藩を、八戸を保って欲しいという、大名家の一族の最後の生き残りとしての、真摯な願いだった。


「…………」


 他藩や戦火に巻き込まれた人々のことを思うと心が痛む。

 されど、信順としては八戸藩を守ることで精一杯だった。

 あと少しだ。

 あと少しで、新政府軍が──薩摩が。

 そう思う信順が、気を抜いたとしても、責めるにはあたらないと思われる。

 しかし──。


「と……殿! 殿!」


 家老が、主君の私的な空間である仏間へ飛び込む。

 それ自体で、急報だと知れる。

 そしてその急報とは。


「殿、一大事でございまする! ひ……弘前が! 弘前藩が、攻めてまいりました!」


「……何だと?」


 ──戊辰戦争の、東北最後の戦闘とされる、野辺地戦争のへじせんそう、開戦。

 それは──それまで直接的戦闘に加わらずに、これまでやって来た信順と八戸藩にとって、大いなる試練となる。



 野辺地戦争。

 それは、弘前藩とその支藩の黒石藩が、盛岡藩の野辺地へと攻め入ったことに端を発する。

 当時、弘前藩は奥羽越列藩同盟を抜け、新政府側である立場を表明したが、その新政府軍としての目立った戦果がなく、焦った結果、野辺地へ攻め入ったと言われる。

 なぜ、このように言われるかというと、前述のとおり奥羽越列藩同盟は瓦解しており、何より、盛岡藩はすでに新政府への降伏を九月二十日に申し入れており、そして九月二十二日に正式に受理されていた。


 ……そこへ、弘前藩と黒石藩が攻め入った訳である。

 九月二十三日に。


「盛岡藩の降伏を知り、切羽詰まったか」


 信順はひとりごちた。

 先述のとおり、弘前藩には官軍としての目立った戦果が無い。

 このままでは、弘前藩は日和見で奥羽越列藩同盟から脱し、功無くして勝者にならんと──新政府軍にすり寄ったと言われてしまう。


「……立藩以来の因縁が」


 そう家老は言うが、信順は聞き流した。津軽家と南部家、隣藩同士、それはいさかいもあろうし、積み重なっていよう。

 だが今、薩摩からやって来た信順にとっては、それは推し量れないものがあるだろうし、市井しせいに住む人々ですら、隣同士でいがみ合うこともある。

 きついものがあるだろうが、今はく。

 今は……。


「それで、戦況は?」


「いえ、野辺地よりは、『攻めて来た』……と、だけで」


 この混乱する中だ、それだけ伝えられただけで上等である。

 信順は立ち上がった。


「これより予は謹慎する」


 家老たちが唖然とする中、信順はさっさと歩を進め、城主の間を出る。


「と、殿」


「そして急ぎ官軍の総督に詫び状を出す」


「そ、それは」


「こういう時は早めに行動することだ。野辺地にて我が藩兵がどうするかは、現場に任せる。今、八戸にいる我らがすることは、その藩兵を罪に問われないようにし、ひいては八戸藩を守るために行動することだ」


 この戦いは、負けても、、八戸藩にとって利はない。

 負ければ当然さらに攻められようし、勝てば新政府に降った弘前藩への攻撃ととらえられて──新政府軍から処断されかねない。


「それゆえの、この折りでの詫び状であり、謹慎よ」


 こういう時、最初に詫びてしまえば、相手は罰を唱えにくくなる。

 さらに、謹慎。

 こうすることにより、薩摩藩主の一族に連なる者を謹慎させてはという、官軍の総督の躊躇を招く。

 つまり、信順は機先を制すために動く。

 この戦いの「軍事上の衝突」は、どの藩にも不利益しかもたらさない戦いだ。

 だが、その後の対応という「政治上の衝突」は、信順のこの判断により、八戸藩に利をもたらすであろう。


「しかし」


 これは家老の言葉だ。

 彼は、奥羽越列藩同盟へ藩の代表として参加している。新政府軍の攻めようも肌で感じている。


「そううまく、新政府軍は八戸を許しましょうか」


 いかに恭順を示し、藩主の薩摩とのつながりを強調したとはいえ、そんなものは「知るか」と言われればそれまでである。

 実際、恭順なり伝手なりを主張して、それでいて攻められた藩もある。

 家老としては、八戸藩という小藩なら一罰百戒の意味で潰し、けして一枚岩ではない新政府内の、反薩摩の勢力の鬱憤晴らしという意味で潰すことを憂いているのだ。


「そのほうの言、もっともである」


 信順は家老の諫言が有効であると認めた。

 認めた上で、それでも八戸藩が見逃される可能性があることを明言した。


「殿、それは」


 いつの間にやら、上士だけでなく、下士も、そして庶民も──その妻子らと共に、八戸の城に群がっていた。

 見上げれば降るかもしれない、灰色の空。

 太平洋上、親潮に乗って東北を吹き抜ける、

 そののせいか、空は今、低層雲に覆われている。

 どんよりとした空の下。

 信順は、ただ風の来る方をし示した。


「その方らに問う」


 信順は城の庭に降りた。


「……この曇天の雲を運ぶ風は,どこから来るのか」


 家老らはその問いに、はてと首を傾げ、沈黙した。

 だが、ある漁師の子が「海じゃねが?」と無邪気に言った。

 その子の母親が「これっ」と口を塞ごうとしたが、信順は「そうだ!」と嬉しそうに叫んだ。


「……あっ」


 家老もまた叫んだ。

 海。

 海には。


「……たしか、榎本釜次郎えのもとかまじろう榎本武揚えのもとたけあきのこと)だったか、幕府の黒船を率いて、海にいるようじゃの」


 榎本武揚。

 当時は幕府軍艦・開陽らの艦船を率いて仙台のあたりにいたと言われている。

 奥羽越列藩同盟の瓦解を受けて、やがて彼らは仙台を脱し、北を目指す。

 その北の果て──蝦夷地えぞち(北海道)にて、五稜郭にって、戊辰戦争最後の戦い、箱館戦争を演じることになるが、それはまた別の話である。

 今この時、信順が言いたいことは──


「海にそのような脅威があるということは、きっと東北諸藩の合力ごうりきを求められる。であるのに、反感を招くような真似はしたくないはず」


 その時、曇天が晴れて、日の光が見えた。



 結局──。

 野辺地戦争は、軍事的には盛岡藩と八戸藩の反撃により、両藩の勝利に終わる。

 官軍としては、この「戦争」の処理に苦慮したが、八戸藩主・南部信順の早期の「詫び」が功を奏したのか、「私闘」と扱うこととされ、盛岡、八戸、弘前、黒石ら諸藩はお咎めなしという結果に終わった。

 ただ弘前と黒石の両藩は、その立地のゆえか、「ある戦争」へと駆り出されることになる──箱館戦争へと。



「これにて八戸藩も廃藩じゃ……が、ここまで保てれば満足か、鶴姫よ」


 明治四年。

 新政府の廃藩置県を受け、八戸藩・南部信順はその職を辞した。

 全国規模のこの改革は、各地の大名家──藩を廃したため、八戸藩も八戸県となり、ここに大名家としての八戸南部家は終焉を迎えた。


「それは、どの大名家も同じ運命よ。そしてここまで八戸藩を保てたのは、鶴姫、汝の願いあればこそだ」


 信順は仏壇に手を合わせる。

 そして思う。

 信順が八戸南部家に養子に来た理由は、父・島津重豪しまづしげひでの北方への興味・関心そして昆布をはじめとする物産や経済的なつながりを作ろうといったところであろう。


「最初は、見上げれば降るかもしれない雲に覆われている地と思った。だが」


 親子ほどもちがう年齢差──たった二歳の妻は成長し、大名家最後の裔として、務めを果たした。

 まっとうしたのだ。


「子は──できなかったが、この雲の空を、嵐を、八戸を襲う嵐から、守ったのだから」


 そして信順もまた自らの役割を終えたかというように、翌明治五年、没した。

 享年五十九歳。

 南国から来た風変わりな藩主であったが、この時代の東北において、八戸藩を守り切ったという、卓越した君主であり、妻女との縁を大事にした君主であったろうことを思いつつ、この話を終えたい。


【了】

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