第5話 光の差す方へ
冷たい風の中を息を切らして走る。道行く人にぶつかりそうになりながら、音楽院へ。開始まであと少し。まだ間に合う──
久しぶりに見た父の微笑み。痩せた手を握り、嬉し泣きにむせぶ母。足元に寄りすがる弟と妹。
あの夜、長い旅から帰ったように父は
自分が音楽を諦めた日、父は家族の元へ戻ってきてくれた。
そして今日。
父の傍らに座っていると、病室に入ってきた母が驚いて声を上げた。
「カリム、あんた何やってるの。もう行かなきゃ駄目でしょ」
「え?」
「さっきドミニク先生から電話があったんだよ。今日は本番だって。お友達が待ってるって」
カリムの眉間が曇った。
「……それは降りたって言ったろ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。じゃあなんでお友達が待ってるの」
「だけど、俺はもうピアノは──」
母はそれ以上言わせずカリムに詰め寄った。
「辞めるなんて母さん認めないよ。そんな簡単に宝物を捨てられるっていうの」
「え……」
「お前に窮屈な思いをさせてるのは分かってる。でもね、お前から大事なものを取り上げるほど、母さんくたびれちゃいないよ。自分の親を見損なわないでおくれ」
スカーフの下の厳しい目が光っている。
「カリム……もう私たちを気遣うのはよしなさい。自分のやるべきことをやりなさい」
「でも」
「いいから、さあ早く」
……行ってこい。
その時、ベッドで寝ている父の口からかすかな声が聞こえた。口をきいたのは目を覚ましてから初めてだ。
母は一瞬ぽかんと口を開けた。しかしすぐに驚きを隠してカリムに向き直った。
「ほら、父さんもこう言ってるよ。さっさと行っといで!」
カリムは何も言えないまま弾かれたように病室を出た。
音楽院へ飛び込むと、舞台袖でアントワーヌがチェロを抱きかかえて座っていた。
「遅くなってごめん」
肩で息をしながら声をかけると、アントワーヌは目を見開いて立ち上がった。
「俺が悪かった。謝る。これが最後のチャンスだ。頼む、お前の伴奏を弾かせてくれ」
「カリム──」
「それから……待っててくれてありがとう」
アントワーヌは大きな目でこちらを見つめていた。が、急に力が抜けたように眉を下げ、泣き出しそうな顔で笑った。
「畜生……ぶっつけ本番だな。しょうがない、恥かくんなら一緒にかこうぜ」
二人は舞台に上がった。生徒たちが早足で通り過ぎるいつもの風景が、今日は違って見える。
短い調弦が緊張を高め、二人の視線が気配で絡み合う。アントワーヌが静かに弓を構えると、カリムは鍵盤にそっと手を乗せた。
一瞬の呼吸のあと、音が滑り出した。
哀愁のあるト短調の旋律。アントワーヌのチェロは繰り返される
カリムのピアノは力強い音でそれを支えた。ある時は優しく促し、またある時は鼓舞するかのように。
二つの楽器が互いに呼びかけ合い、共鳴し、ひとつに融けあいながら
自由だ。
がんじがらめになっていたものを全て解き放って、ただチェロの音色にだけ耳を傾ける。今この時だけでいい。今、俺はこの上なく幸せだ。
ここにはフランス人もアラブ人もいなかった。そこにいたのは、舞台でひとつの音楽を作り上げる二人の若い奏者だった。
怒涛のようなフレーズをいくつも越え、最後にチェロが地の底から唸るような低音を響かせると、二つの音は加速し、ろうそくの炎を吹き消すように止んだ。
八分間の演奏が終わった。
水を打ったような静寂の、その刹那。
割れるような拍手が巻き起こった。
音楽院のホールはいつの間にか立ち止まった聴衆でいっぱいであった。最前列にいたドミニク先生が、カリムに向かって力強く親指を上げている。
アントワーヌがこちらに視線を向けた。照明のせいか、目が光って見えた。
二人は立ち上がると、聴衆に向かって深々と頭を下げた。
*
「──それで、体調をみながらリハビリしていこうって、主治医の先生が。きっと少しずつ動けるようになるって」
「よかったな」
高台の公園からはオレンジ色に灯ったエッフェル塔が見える。灯台の光線が鋭く回ってはまた遠ざかる。カリムの隣にはチェロを横に抱いたアントワーヌが座っている。
「まだ生活が落ち着くわけじゃないけど、それだけでも安心した」
「ドミニク先生まで見舞いに来てくれたんだろ。すごいなあの人」
「ああ、本当に感謝してる」
奨学金の話を持ってドミニク先生が病室を訪れたのは、二重奏からしばらくあとのことだ。
このままこの子に音楽を諦めさせてはいけない。彼が目指すべきは、国立高等音楽院。フランス最高峰の音楽院──そのピアノ科の受験である、と。
話を聞いて父は深く頷いた。母は口をあんぐりと開け、何度もまばたきを繰り返した。
カリムは涙をこらえることができなかった。先生はやはり自分のことを誰よりも分かってくれていた。隅に追いやられるなどと、少しでも疑った己れを恥じた。
伴奏科を、受けてみたいです──
恐る恐るそう言ったら、先生はカリムの頭をくしゃくしゃにして笑った。
アントワーヌは黙って夜景を眺めている。
「……こうしてると、この街が自分の
ふとそう漏らすと、アントワーヌがくすりと笑った。
「だって故郷じゃない」
「……うん」
「今までもこれからも、ここはお前の──あっ!」
アントワーヌが声を上げた。オレンジ色だった塔が色を変え、光を纏うように輝き始めたのだ。シャンパンのような光が塔をまばゆく包み込んでいる。
見つめる二人の口元に笑みが広がった。
一年後、十年後、自分がどうしているか分からない。それでもカリムが願うことはひとつだけ。
光の差す方へ行きたい。
目を輝かせて見とれているアントワーヌのわきを小さく突つき、こう尋ねた。
「で、さっき何を言おうとした?」
「……何でもないよ」
アントワーヌは笑って親友の肩に手を回した。
二人の前には、燈火に彩られた空が、どこまでも高く広がっていた。
了
伴奏者 柊圭介 @labelleforet
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