第4話 長すぎた夢

「ストップ、ストップ!」


 いらいらと演奏を止め、アントワーヌが険しい顔でカリムを振り返った。


「なんでズレるんだよ。ここはもっと早くって言ってるだろ」

「ごめん」


 二重奏の日が迫っていた。二人はできるだけ時間を合わせ、アントワーヌの家で練習を重ねていた。調律の行き届いたグランドピアノの感触は、電子ピアノとは無論比べものにならない。

 だが、何度やり直しても、二人の息は噛み合わなかった。


「カリム、頼むから本気で弾いてくれ。まるで上の空だ。僕まで足を引っ張られる。これじゃ練習の意味がない」


 アントワーヌはチェロにもたれかかってため息をついた。カリムはいたたまれずに窓辺へ目を逸らした。



 ──どうあがいても俺らはフランス人にはなれねえよ。


 兄の言葉が頭から離れない。本当はそんなこと分かっている。移民二世おれたちは俺たちの領域テリトリーの中で慎ましく生きていけばいいだけ。

 なのに。

 電子ピアノを与えられた日から、夢を見ることを覚えてしまった。


 入院中の父。働きづめの母。不在の兄。小さい弟たち。


 現実を見なければならない。もうすぐ十七になる今、現実の将来を見据えなければならない。

 だがそれは、音楽に見切りをつけるという一択だけを残すものだ。


 望みを口にするのが憚られるようになったのはいつからか。

 求めるものが叶わないと分かっていればこそ、迫ってくる現実にぎりぎりまで目を背けていたかった。いつまでもピアノの世界の中で夢を見ていたかった──だけど。

 それはきっと長すぎた夢。


 窓の外では、死にそびれた季節外れの蜂が苦しそうにもがいている。


 カリムは鍵盤に目を落とした。



「──俺、降りるよ」

「え?」

「お前に迷惑かけられない。本番は伴奏の先生に頼んでくれ」

「何言ってるの?」

「申し訳ないけど、やっぱり荷が重すぎた」

「ちょっと待って」

「俺みたいなのがお前と演奏しようなんてのが図々しかったんだ。こんな立派なピアノまで使わせてもらって、ごめん。俺には電子ピアノで充分なのに」


 アントワーヌは呆気に取られてカリムを見つめている。

 終わらせてしまった。自分から。

 これでいい。早い方が痛みが少なくて済む。



「──あのさ、前から言おうと思ってたんだけど」


 重たい沈黙のあと、ようやく口を開いたアントワーヌの声には怒りが滲んでいた。


「そういう卑屈なところ、直した方がいいよ」

「卑屈?」

「そうだよ。お前は自分を悲劇の主人公にして酔ってる。お前が何者かなんて音楽とは全然関係ないのに、自分を貶めて一人で憐れんでる。しまいにゃ僕との演奏まで降りるだなんて。そんなの勝手だよ」


 カリムは思わず眉を吊り上げた。


「お前に何が分かる。俺のことなんか何も知らないくせに」

「分かんないよ。分かんないけど、」

 

 アントワーヌは苦しげに眉間に皺を寄せた。


「なあ、僕がなんでこの演奏にお前を誘ったと思う?」

「俺への同情か」

「ふざけるな! それが卑屈だって言ってんだ」


 カリムを睨んだまま、悔しそうに吐き出した。


「……尊敬してるからだよ」


 カリムは虚を突かれた。彼の白い頬が紅潮している。


「ずっと思ってたんだ。こいつは本物だって。満足な楽器も時間もないのにめきめき上達して。敷かれたレールの上を走ってるだけの僕には敵わない。思い知らされたんだ。プロの道に行かなきゃいけないのは、僕じゃなくてこういう人間だって」


 あり余る宝を持ってるのはお前の方なのに。周りのせいにして逃げるなんて卑怯だ。悲劇の主人公もいい加減にしろ──


 アントワーヌはピアノの前の楽譜を取ると、カリムに突きつけた。


「これはお前じゃなきゃ駄目だ。僕との責任を果たせ」


 カリムは首を振った。


「──俺はやっぱりフランス人にはなれない」

「カリム!」


 カリムは楽譜を奪い取ると逃げるように部屋を飛び出した。


「勝手にしろ! お前に……お前に憧れて頑張ってきた奴が目の前にいるのに……! 人生台無しにするならしやがれ、くそったれ!」

 

 今まで聞いたこともない怒声が背中に突き刺さった。


  *


 病室のドアをそっと開けると、眠っている父の横顔が月明かりに照らし出されていた。シーツをかけた胸が規則正しく上下している。


 母と交代で見舞いに来るのも、もう生活の一部になっていた。いつまでこの状態が続くのかも分からない。


 父の傍らへ腰を下ろす。皺の刻まれた、こけた頬。黒く長い睫毛が閉じた瞳を縁取っている。

 目を開けてくれなくてもいい、聞こえなくてもいい。生きていてくれるだけで充分だ。

 ないものねだりは終わりにしよう。これ以上、何も望むまい。


 電子ピアノの包みを解いたときの父の笑顔。歓声を上げた自分の笑顔が窓に映って消えた。

 

 

 ため息をつき、胸のシーツをかけ直そうとした──

 その時。


 眠っている父の指が、かすかに動いた。

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