第3話 日陰の者
日曜日は音楽院のピアノが使えない。父が買ってくれた電子ピアノはもうだいぶ傷んでいるが、母と弟たちが外出した今ならヘッドホンを外して弾くことができる。久しぶりにのびのびと音量を上げて演奏するのは気分がいい。
先週のコーラスの伴奏はまずまずだった、いや、むしろ上出来だったと言ってもいいと思う。
学期末の
だが、そんな不安がばかばかしく思えるほどに、本番はエネルギー溢れるものだった。
体全体で生徒を鼓舞する合唱の先生の指揮。それに呼応する生徒の歌声は、小学生だということを忘れるほど表現力があり、こちらまで乗せられて思わず演奏に力が入る。
気持ちのよい緊張感の中、最後の「モルダウ」の大合唱で最高潮を迎えると、小さな会場は保護者たちのあたたかな拍手に包まれた。
しかし。
祭りのあとのような余韻の中で満足そうに帰っていく生徒と親は、先生には挨拶しても、カリムに声をかける者は誰一人いなかった。
楽譜を片づけながら一抹の寂しさを感じ、カリムは自嘲した。馬鹿だな。自分は何を期待してたんだろう、少しでも褒められたい、感謝されたいと思っていたなんて。
「みんな我が子しか目に入らないのよ」
気づくと合唱の先生がそばに立っていた。
「どんなに一生懸命弾いても、聴こえない人には聴こえないの」
伴奏者をねぎらう人は少ない。陰で支える者がいるから日なたが明るいのに、と先生が呟く。
日陰の者。
まるで社会の中の自分たちみたいだ。ふいに建設現場で事故に遭った父を思った。
「ドミニクに言っとくね。君、とても良かったよ。ありがとう」
そう言って先生はカリムに微笑みかけた。
*
──伴奏にやり甲斐なんてあるんだろうか。
思い出して少し沈みそうになったので、気分を変えるように楽譜を取り替える。
譜面台には「ロンド」の二重奏。
あの時は勝手に押し切られたようなものだが、やはりアントワーヌとの演奏を思うと心が浮き立ってくるのを抑えられない。カリムはまだ一度もあのステージで弾いたことがない。彼と一緒に舞台に立てるならこんな嬉しいことはない。
余計なことを考えずに、それだけを楽しみに弾こう。同じ主題を繰り返しながら色んな顔を見せる
チェロの音色を想像しながら夢中で弾いていた時、
「ひとが帰ってきたのに気がつかねえのかよ!」
いきなり怒鳴られて椅子から飛び上がった。振り返ると部屋のドアに兄が立っていた。
「ああびっくりした。驚かすなよ」
「音がでけえよ。建物じゅうに響き渡ってるぞ」
カリムはムッとして顔を背けた。せっかくの日曜日が台無しだ。兄はいつもこうやって気が向いた時にふらりと現れる。冷蔵庫のものを漁り、カリムに嫌味を浴びせ、荷物を持ってまたどこかへ消えてしまう。
昔からろくでもないことをしでかしては母を泣かすのが兄の特技だった。いつかはバルベス辺りで白い粉を売っているなんて噂を聞いて耳を塞ぎたくなった。
「兄貴のせいで俺らが肩身の狭い思いをするんだ」
一度そう言って殴られたことがある。
街に出ればどこにでもレッテルが追いかけてくる。税金泥棒、厄介者。犯罪者予備軍。
カリムはできるだけの予防線を張っている。スウェットやフード付きのパーカは着ない。スラングは使わない。目立たぬように、礼儀正しく。それでどんなに兄に皮肉を言われようと、仲間から気取っていると思われようと。
それでも路上の車を見ているだけで職務質問される。
つまり、そういうことだ。
自分が生まれた国に唾を吐きかける同胞がいる限り、自分も同じような目で見られる。
「母さんどこ行った?」
「病院だよ、チビたち連れて」
「で、お前は一人でピアノか。優雅なもんだな」
「うるさい」
「贅沢な趣味だ。それでフランス人に混じれるとでも思ってんのか」
「黙れ」
「分かってるよな、自分が
「出ていけ」
「さっさと諦めて肉屋にでもなれ」
「出ていけ!」
鍵盤を力任せに両手で叩きつけると、耳障りな不協和音が響いた。
「……どうあがいても俺らはフランス人にはなれねえよ」
ぼそりと言い捨てて兄は出ていった。
カリムは唇を噛んだ。
さっきまで踊っているように見えた音符は、力を失って無機質に並んでいる。
ただの記号と化した音の羅列をぼんやりと眺めているうち、苦いものがせり上がってきた。
黄ばんだ鍵盤を人差し指で押さえたら、涙のこぼれる音がした。
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