第2話 幼なじみ
「テンポが悪い! 初見でこれぐらい弾けなくてどうするの」
ドミニク先生の叱責が飛ぶ。目の前の楽譜には上段にフルートの旋律、下段にピアノ伴奏の音符が並んでいる。
「あなたフルートの音が聴こえてる? 一人で弾いてるんじゃないの、相手の演奏をちゃんと聴いて」
青い目でカリムをひたと睨む。堪らずに目を逸らすと、譜面台の向こうでフルートの学生が気の毒そうにカリムを見ていた。
ドミニク先生はカリムの担当教師である。十年来の付き合いであり、家庭環境を考えてピアノ室を特別に使わせてくれる面倒見のよい人柄である。
その先生に「伴奏レッスンを受けろ」と言われたのは、九月の新学期のことだった。
──いい、あなたがソロに向いてないなんて言ってないのよ。伴奏は技術がないとできないの。私はあなたを買ってるから勧めてるのよ。
褒められているようで内心は複雑だった。ここまでソロを続けてきたのに、どうして今になって伴奏なのか。
カリムはやんわりと自分を否定されるような、モヤモヤしたものを感じていた。知らぬ間に隅の方へ、光の当たらないところへ追いやられるような気持ち。そしてそれはどうしても己れの出目に繋がってしまう。
それでも受けたのは、少しでもピアノと繋がっていたい一心だ。
伴奏に求められることは厳しい。初見で完璧に弾く技術、楽譜の解読力、柔軟性。
本来なら壁にぶつかるほど燃えるたちなのに、心のどこかで萎えている自分がいる。何かが堂々巡りしている。
「カリム君はどうも乗らないみたいね。いいわ、今日はおしまい」
フルートの学生を帰しながら先生はカリムを振り返った。
「来週の合唱でこんなナメた伴奏したら承知しないからね」
また青い目に射すくめられた。
*
疲れ果てて階段を降りてくると、一階のステージから弦楽カルテットの演奏が聴こえてきた。この音楽院は二階が吹き抜けで、一階の中央にステージがある。ここでは生徒が練習の成果を発表するため、時々ミニコンサートをしている。
カリムはステージに目を向けた。高校生のカルテット。昨日言っていた通り、チェロを弾いているのはアントワーヌだ。
夕飯の支度があるから帰らなければならない。でも少しだけ。
ガーシュインの「
アントワーヌは安定した低音で控えめにメロディ楽器を支えている。自分もあんな風に楽しそうに弾けたら。
アントワーヌとは
はじめて家に遊びに行ったときの衝撃は忘れられない。当然のようにグランドピアノのある家。
こんな家庭に生まれたら、どれほど幸せだろう。
「聴いてくれたんだ、ありがとう」
演奏が終わるとアントワーヌが駆け寄ってきた。
「よかったよ。でももう行かなきゃ。弟たちの晩飯係なんだ」
「じゃ、そこまで一緒に帰ろう」
並んで歩く道すがら、アントワーヌがふいに尋ねた。
「伴奏レッスン、どう?」
「……まあまあ。なんで?」
「うん、実はさ」
そう言って足を止め、
「年明けなんだけど、またあのステージで演奏するんだ。自分の好きな曲をやっていいって先生が。それで……よかったらこれ、お前に伴奏してもらえないかと思って」
おずおずと楽譜を差し出した。
そこには「
「──ドヴォルザーク」
「チェロとピアノの二重奏。第三課程の修了試験に出るような曲だから、ちょっと早いかも知れないんだけど。でも僕、これをお前とやりたいんだ」
カリムはひるんだ。
「二重奏? そんなのピアノの先生に弾いてもらえばいいじゃない」
「ダメか?」
「いや、そうじゃなくて。俺なんかでいいのかって……」
「生徒同士でやった方が面白いじゃん。恥かくんなら一緒にかこうぜ」
「ふざけんな」
「じゃあ決まりね!」
満面の笑みで楽譜を押しつけられた。
またな、と言って去っていく背中を見つめる。昔は小型のチェロでも楽器が歩いているように見えたその背中は、今ではすっかり大人の演奏者のそれだ。
恵まれた環境でどんどん自信をつけていく幼なじみと、少しずつ後ずさりしているような自分。
それで伴奏なんかできるというのか。
楽譜に目を落とすと、並んだ音符が手招きしているように見えた。
──俺でもいいのか?
喜びよりも戸惑いの方が勝っている。それでもオレンジの街燈の下、カリムの瞳はもうチェロの旋律を追い始めていた。
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