伴奏者

柊圭介

第1話 移民の息子

 音楽院の玄関ホールには、もうクリスマスツリーが飾られていた。

 レッスンを終えた生徒たちが楽器ケースを抱えて行き交っている。小学生の生徒たちは楽しげに見上げたり、飾りをつついたりしている。


「カリム!」


 名前を呼ばれて振り返ると、チェロを背負ったアントワーヌが階段を降りてくるところだった。


「久しぶり、元気?」

「まあ……そっちはリハーサル?」

「うん。明日七時からここでカルテットやるんだ」


 時間あったら来て、と言い残してアントワーヌは弦楽器の仲間に加わった。カリムはそれを横目に見ながら音楽院をあとにした。

 通りに出ると、建物から色々な楽器の旋律がこぼれ出すように聴こえてくる。まるで音楽の鳴るような歩き慣れた道。カリムは音の断片を耳で拾いながら足早にその角を曲がった。


  *


 パリを見下ろす丘の向こうには、ライトアップされたエッフェル塔が見える。夜に包まれた街並みの中で、オレンジに光る塔だけがマッチの炎のように浮かび上がっている。

 先端から放たれる青白い灯台の光は、冷たい空気のせいかいつもより鋭い。細く遠く、パリの空を射るようにぐるりと一周し、こちらへ向かって来てはまた遠ざかる。


 カリムはポケットに手を突っ込んでベンチの背もたれに体をあずけた。


 音楽院のあと、まっすぐ家へ帰りたくない時はこうして高台の公園へ来る。エッフェル塔を前に佇むわずかな時間は、カリムにとって唯一の休息だった。丘の上からパリを見下ろすと、懐に抱かれているような安心感を覚える。


 自分が生まれ育った街。それを象徴するオレンジの光。


 しばらくぼうっとしてから、カリムはふと現実に返った。そろそろ帰らないと母さんが心配する。弟と妹の宿題も見てやらなければ。

 楽譜の入ったリュックを肩に担ぐと、もと来た道を下り始めた。エッフェル塔はまだ見せつけるように華やかな光を放っている。


 だが、帰る場所はオレンジ色に輝きもせず、灯台の光も届かない。

 待っているのは、低所得者向けの公営住宅だ。



 陰気なコンクリートの建物に入ると切れかけの蛍光灯が点滅していた。リノリウムの廊下はくすんだベージュ色で、ちょうど黒人の母親がベビーカーを押してエレベーターに乗り込むところだった。

 洗剤や食べ物の匂いの入り混じった階段を一段飛ばしに昇りながら思う。


 光の差すところへ行きたい──

 


「遅かったね、どこ行ってたの?」


 母が台所から声をかけた。香辛料の匂いがアパート中に漂っている。鍋の中には鶏肉がオリーブと一緒に煮込まれている。

 別に、と曖昧な返事をしてカリムはコートを脱いだ。

 モロッコの匂い。母のモロッコ訛り。

 ハラル食にお祈り。

 家に帰ればもうそこはフランスではない。

 

 小学生の弟と妹は、夕食を済ませたのかテレビの前でリモコンの取り合いをしている。


「お前ら宿題は済んだのか?」

「すんだー」


 チャンネルを変えながら弟が答えた時、国営放送のニュースが映った。


 ──けが人はないとのことです。警察はイスラム過激派によるテロとみて捜査を進め──


 母が弟からリモコンを奪ってテレビを消した。

 

「ねえ、テロってなあに?」

 妹が尋ねる。

「あんたたちには関係ないよ。ほらもう寝なさい」

 カリムは黙って鶏にナイフを入れた。



 口数の少ない夕食のあと、カリムは逃げるように自室に引っ込んだ。兄と同室だが、二十歳を越えた兄は女とでも住んでいるのか滅多に帰って来ない。だからピアノの練習も遠慮なくできる。

 電子ピアノの電源を入れ、ヘッドホンを繋げてレッスンの復習をする。


 母は近所のスーパーで働いている。フルタイムの最低賃金に国からの手当で生活を賄っているが、余裕があるとは言えない暮らしだ。それなのに区立音楽院に行かせてもらっているのは、ひとえに父がそれを許してくれたから。

 

 幼い頃ピアノに魅せられて、父に音楽院の入学をねだった。ダメもとで応募したら抽選で入学が認められてしまった。

 父は大枚をはたいて電子ピアノを買ってくれた。それから十六歳の今までずっと、練習を欠かしたことがない。

 

 いつかプロの舞台に立ちたい。

 アラブ系の生徒が滅多にいない区立音楽院で、居心地が悪くてもやってこられたのは、この夢があったからこそ。

 だが最近その気持ちが揺らぎ始めていることを、カリムは誰にも言えなかった。


「カリム、明日は父さんのとこ行ってくるから、冷凍庫のもの、あの子たちに食べさせといて」


 ドア越しに母のアラブ語が聞こえた。病院でチューブに繋がれている父の姿が浮かぶ。


「分かった」


 低く答えながら、明日のカルテットは聴けそうにないな、と思った。


 悪いね、練習の邪魔して。

 母の小さな声がチクリと胸に刺さった。

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