第14話 パスタの上に

 その次の瞬間、突然足から頭の先まで冷たい何かが駆け巡った。自分の髪の毛は逆立っているのではないのかと思うほどのもので、この悪寒が決して風邪を引いただとかそういうものではないことはわかっていた。


「ううん、特に何もないかなあ」


 スマホを覗き込みながらそう呟く星野さんの手首をすかさず握った。そして強く引き寄せ、クローゼットを写した画像を急いで覗き込んだ。


 よくある白い両開きのクローゼットだ。画像自体は決して変なものは写っておらず、ひっそりと扉が写っている。


「大山くん?」


 不思議そうに僕の顔を覗き込む彼女を無視して、僕はじっと目の前のクローゼットを見つめた。適温に調整されているはずの部屋で汗が頬を伝った。


 何だろう。


 何かがいる。


 視線を感じる。


「……写真はもうおしまい」


「ええ? せっかくなのに。ねえ、何かいるの?」


「分からない。嫌なものを感じるだけ」


 手短にそう答えた。キッチンからはいい匂いがこちらまで流れてきている。早く帰ってしまいたい気持ちを懸命に抑えた。とりあえず食事だけ済ませたらさっさと帰ろう。ここに住んでる原田さんがちょっと心配だけど、彼は何も感じないらしいし元気だから大丈夫と思いたい。


「お待たせー! 簡単なものだけど」


 ちょうどその時、原田さんがお皿をもって登場した。僕はとりあえず普通の顔を取り繕う。原田さんはここに住んでるんだし、下手なことは言わない方がいい。本人は何も信じてないんだから。


「うわあ、パスタですか?」


「うん、簡単だからね。食べよっか」

  

 原田さんは得意げに湯気のたつお皿をテーブルに置いた。さすが、キッチンで働くだけのことはあって見た目も完璧だし美味しそうだ。やや食欲を無くしているが、一人暮らしでこんな美味しい食事にありつけるのは素直にありがたい。僕はお礼を言った。


「僕までありがとうございます」


「いや、いいよいいようん。さて食べようか」


 三人分のフォークを渡してくれる。するとそれを受け取りながら、星野さんが原田さんに聞いた。


「原田さんのお部屋のクローゼットって、広いですよね」


 どきん、と胸が鳴った。バクバクとうるさくなる。よくある彼女の無茶振りだ。またしても星野美琴はこんなことをしだす。


 原田さんは笑顔で答えた。


「まあ、そうだねー結構使い勝手いいよね」


「どれくらい広さあるか見てみたんです、開けてもいいですか?」


 つい勢いよく隣を見た。この綺麗な顔した確信犯をどうすれば止められるのか。僕の強い視線に気づかないフリをして星野さんはこちらを見もしない。


 原田さんが笑いながらクローゼットまで近づいた。


「いーよいーよ、見られて困るもんないし」


「! ちょ、ま」


 慌てて声を上げるももう遅かった。彼は銀色の取っ手を掴み、勢いよく両手でクローゼットを開けたのだ。





 小さなプラスチックの箪笥に掛けられた多くの衣類、置かれた適当な紙袋。



 なんの変哲もない、普通のクローゼットだ。






「…………」


 汗をダラダラかいている僕の横顔を、星野さんはじっと見ていた。目の前に映る光景は特に変わったところはない、僕は止めていた息をゆっくりと再開した。


 何もない。物がたくさん置いてあるだけの、普通のクローゼットだ。


「こんな感じかなー。まあ結構広いよね、これなかったら部屋もっと散らかっちゃうし」


 笑いながら原田さんは白い扉をしめた。僕はそっと額の汗を手のひらで拭き取った。気のせい、なのか? これだけ感じるのに? 


 いや、それならそれでいいんだ。僕の思い過ごしならそれでいい。


「さ、食べよー!」


 原田さんがドスンと腰掛けた。隣の星野さんは素直に両手を合わせた。普段タバスコや唐辛子を本体が見えなくなるまで掛ける辛党の彼女だが、流石に人が作ったものはそのまま食すらしい。


 僕も見習って両手を合わせた。何もいないことが分かったんだ、落ち着いて美味しい昼食を……


 そう見下ろした時だった。




 真っ赤なパスタの中に一本、白い指が立っていた。





 時が止まる。フォークに伸ばしていた手はピタリと停止した。


 血の気のない指だ。爪はやや長めで形が整っている。関節の皺や肌の質感が、作り物とは思えないものだった。まるで飾りかのようにパスタの中に埋もれていた。

 

 そしてその周りにある真っ赤な麺たちも、決してトマトやケチャップの色ではなく、どう見ても血液の赤みで染められていることに気づく。


「え…………な、こ…………」


 言葉にならない声が漏れた。あまりの驚きで日本語を失ってしまったようだ。


 例えば原田さんの手の込んだ悪戯だとか。そう、僕が目を離した隙に取り替えられてた、だなんて。それが一番最高の結末だと思った。僕は言葉が出せないままカクカクと小刻みに隣にいる星野さんをみた。


 彼女は何も反応していなかった。


 普通ににこやかな表情でいる。上品な動きでフォークで目の前の物をくるくると巻いていた。だがそれはパスタの麺などではなかった。真っ黒な長い髪の毛を、楽しそうに巻いているのだ。


 唖然とその光景を見る。彼女のお皿に視線を落としてみれば、山盛りになった髪の毛と真っ赤な血液、指の先、爪などが盛られていた。


 そして彼女は仕上げとばかりに、巻き終えた黒い髪の毛の上に耳を乗せた。


 そう、耳。人間の、耳だ。


「………………ほし、のさ」


 耳のせ黒髪を、彼女は口を開けて迎え入れた。躊躇いなどなにもなく、本当に美味しい食事を食べる明るい表情で。


「星野さん!!」


 ようやく自分の体が動いた。僕は必死に手を伸ばし、彼女が咥えようとしたフォークを思い切り払った。油断していた星野さんはそのままフォークを手放した。黒髪たちが地面へと落ちる。


 だが床へ落ちた瞬間、黒髪は真っ白な麺へと姿を変えた。クリームが絡んでいるであろうそれは美味しそうなただのパスタだった。


「……大山くん?」


 彼女が首を傾げて僕を見る。自分は肩で息をするように上下させていた。星野さんの腕を払った手は震えてぶるぶるしている。


「はあ? 何してんのお前」


 原田さんの怒りの声が聞こえてきてはっとする。テーブルの上をあらためてみれば、そこには美味しそうなクリームのパスタが置いてあった。なんて変哲もない料理だ。


 ……変わった。一瞬で。間違いなく、人の体のパーツだったのに。


 震える手を隠すように慌てて握り拳を作った。やはりというか僕にしかみえていないようだ。


「何なの? 嫌がらせ?」


 せっかく振る舞った料理を邪険に扱われ怒った原田さんが声を荒げた。彼が怒るのも尤もな反応をしてしまった僕が悪い。素直に謝った。


「す、すみませ」


「あ、ごめんなさい原田さん。よく見たら上に虫がいたみたいです」


 落ちたパスタたちを取り出したポケットティッシュで素早く片付けながら星野さんが口を挟んだ。はっとして彼女の顔を見る。何とも涼しげな表情でにっこりと笑っていた。原田さんは一気に慌てる。


「え、ま、まじ? ごめん虫!?」


「あ、でも中身に混ざってたっていうわけじゃなくて、上に乗ってたみたいです。虫にソースはついてないから。私が食べようとしたタイミングでフォークの上に乗ったんじゃないかしら。多分外から入ってきた私の体についてたんですよ」


「そ、そうなの?」


「ね、大山くん?」


 首を傾げて僕に問いかける星野さんの言葉に頷くしか出来なかった。ここをおさめるために一番納得のいく答えだったからだ。


「そ、そうなんです。すみません体が勝手に動いちゃって……お、美味しそう! 食べましょう!」


 わざとらしくそう言った僕は姿勢を正した。正直なところ、今は美味しそうなクリームパスタだが先程の映像が蘇って食欲なんて地に落ちている。それでも流石に食べないわけにはいかない、食べ物を粗末にするなと死んだばあちゃんも言ってたんだ。


 泣きそうな気持ちになりながらパスタを頬張った。うまい。うまいのにどこからか鉄の匂いがする気がするのは何故なんだろう。生臭さが部屋を充満している気がするのは何故なんだろう。


 必死に頬張る僕の横で、星野さんは意味深な表情でこちらを見ていた。それはとても楽しそうで嬉しそうな、最高に薄気味悪い美少女の顔だった。

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