第43話 説得
外来などはいろんな人がごった返しているが、病室が並ぶ病棟となれば関係者しかいないので人も少なくなる。さすがにそこを見て回るのは気が引けたのだが、星野さんはお構いなしに進んでいくからすごい度胸だ。
「ほ、星野さん! こっちは入るのよくないよ!」
「どうして?」
「入院してる人たちと無関係な僕らはだめだよ!」
「病室に入ったりはしないよ、ナースステーションを見るだけだから」
これを非常識と呼ばずになんと呼ぶ! やっぱり彼女はとんでもなくズレていると再確認した。
なんとか止めようと思っている時だ。少し離れた場所にあるナースステーショから、なんだか大きな音が突然響いたのだ。
それはどこか焦りを煽るような、嫌な音に聞こえた。そしてその音を聞いた途端、ナースステーショにいる看護師たちが一堂に顔を上げたのだ。
「どこ!」
「802です!」
彼らは瞬時にその場からいなくなった。耳にしたことのあるナースコールの対応とは違って見える。厳しい顔をして走っていく看護師さんたちは、少し先にある部屋に入り込んだ。
そして何を言っているかはわからないが、中から緊迫した様子の会話が聞こえてくる。星野さんも僕も、黙ってその場に立ち尽くす。
僕は小声で呟いた。
「……緊急事態、みたいだよ」
「そうだね……」
素人目でもわかるこの空気。さすがの星野さんも現場を覗きにいくような不謹慎な行動は取らず、ただ黙って看護師たちが入っていった部屋の方を見つめた。
病院は人の命を救い、その分看取ることもある。
例えば今、あの部屋で誰かがその命の灯が消えようとしているのだろうか。死というものはばあちゃんが亡くなった時以来触れることはなく、なんだか現実味がわかない。
「星野さん、やっぱりここは」
彼女にそう声をかけた時、視界の端に何かが映った。
あの看護師たちが集まっている部屋から何かが飛び出てくる。それは長い黒髪で、僕の背の半分ほどしかない身長。白いパジャマに何かを腕に抱え、パタパタと廊下を走り去っていく様子がわかった。
たった一瞬その光景が目に入っただけで、僕の体は突然固まったように動けなくなってしまった。
四肢を拘束されているような、麻酔を打たれたような、とにかくまるで自分の体が言うことを聞いてくれない。時間が止まったのかと思った。
目の前で星野さんがどうしたの、とばかりにキョトンとしている。僕は彼女から視線を逸らすこともできず、ただ茫然と立っていた。
周りの音は全て消失したように感じる。無音の世界に、ただ一人僕だけが意識を放り投げられたような感覚だった。
固まって動けない哀れな僕のすぐそばに、気配を感じる。それは自分の肘にかすかな息遣いを感じるほどの距離だった。何かが隣にいる。何かがじっと僕を見ている。生ぬるい風がゾワゾワと寒気を呼ぶ。
これまで体験したことのない危機感を覚えた。
命令しないのに首が動く。カクカクとゆっくりとした速度で、見たくもないあれの方を向けられる。僕のすぐ右にいるものと初めて目が合った。
少女だった。小さな顔に小さな鼻、目元は窪んで眼球が落ちそうなほど飛び出ていた。肌は黒ずんで少し緑がかっているように見えた。
同時に印象深いのはその口元だ。口角をこれでもかと言うほど広げ笑っていた。歯は何本も抜け落ち、残っている物も黄色く黒く変色してまともな形はひとつもない。唇の上下に唾液の糸が引いていた。
手に持っているのは人形だった。髪の毛もほとんど抜かれて薄く汚れた女の子の人形。
少女は笑った。声をあげて面白そうに笑った。
ケラケラと、子供とは思えぬ不気味すぎる声が響き渡り耳を塞ぎたくなる。それでも未だ体は動かなかった。
この子……ともや君のベッドにいた子だ。
後ろ姿しか見えてなかったが確信している。こんな嫌な気を醸し出す者を間違えるはずがない。
とてつもなくやばいものだ。とてつもなく。
子供はしばらく僕を見て笑ったあと、突然前を向いて走り去った。病棟から出ていくようだった。その瞬間ようやく自分の体が自由を取り戻し、動けた瞬間呼吸を乱して酸素を吸った。
「大山くん? どうしたの?」
星野さんが不思議そうに尋ねてくるのを無視し、僕は言った。
「……もし」
「え?」
「もし、星野さんが言ってたことが本当にあるなら」
向こうの病室からは相変わらず忙しく動く看護師たちの様子が聞こえる。その部屋から嬉しそうに出てきたあの子。
退院が決まっても何回も急変し長引くともや君。
あんな恐ろしい気を持った子供の霊が関係してないと考える方が難しい。
「あ! ちょっと大山くん?」
僕は気がつけば走り出していた。普段の僕なら関わりたくないほどの相手だというのに、さっきのともやくんの笑顔を見るといてもたってもいられなくなった。
星野さんの呼びかけも無視して少女を追いかける。パタパタと小さな足音がたまに耳に届くのでわかる、少女は階段を駆け降りているようだった。僕は一目さんにそっちに向かって足を動かしていく。
エレベーターを使うことがほとんどの病院の階段は誰もいなかった。そこを駆け降りて少女を追っていくと、踊り場にしゃがみ込んでいるのを発見する。
心臓が肉体を突き破りそうなほど大きく鳴っていた。
僕は少女の後ろ姿にそうっと近寄る。足がガクガク震えるのを必死に誤魔化した。
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