孝閔帝宇文覺-巻九周本紀上第九-
一
九歲にして略陽郡公に封ぜられた。この時、人相見を得意とする
西魏の
四月、大将軍を拜命した。
十月乙亥、宇文泰が世を去った。
丙子、宇文泰の後を嗣いで太師、大冢宰となった。
[原文]
孝閔皇帝諱覺、字陁羅尼、文帝第三子也。母曰元皇后。
孝閔皇帝、諱は覺、字は陁羅尼、文帝の第三子なり。母は元皇后と曰う。
大統八年、生於同州。
七歲封略陽郡公。時善相者史元華見帝、退謂所親曰「此公子有至貴相、但恨不壽耳」。
大統八年、同州に生まる。
七歲にして略陽郡公*1に封ぜられる。時に相を善くする者たる史元華*2は帝を見て、退きて親しきところに謂いて曰わく、「此の公子は至貴の相あるも、但だ恨むらく壽ならざるのみ」*3と。
魏恭帝三年三月、命為安定公世子。四月、拜大將軍。
魏恭帝の三年の三月、命じて安定公世子たらしむ。四月、大將軍を拜す。
十月乙亥、太祖崩。丙子、嗣位太師、大冢宰。
十月乙亥、太祖は崩ず。丙子、嗣ぎて太師、大冢宰に位せり。
[メモ]
1、『周書』は「九歲にして略陽郡公に封ぜらる」とする。前段に明記されるとおり宇文覚の生年は大統八年(542)であるため、数え年であれば大統十五年(549)に七歳、大統十七年(551)に九歳となる。
宇文泰の諸子の封建された時期は以下のとおり。
大統十四年(548)春:宇文毓(534生)→寧都郡公
大統十六年(550)三月:宇文震→武邑公
恭帝元年(554)四月:宇文邕(543生)→輔城公、宇文憲(544生)→安城公
恭帝三年(556)七月:宇文直→秦郡公、宇文招→正平公
534年生まれの宇文毓とそれに次ぐ宇文震は他の諸子と歳がやや離れていると推測され、542年生まれの宇文覚はむしろ宇文邕、宇文憲と年齢が近いところから推して宇文毓と宇文震が封建される間の大統十五年に封建されたとは考えにくく、大統十七年に封建されたと考える方が自然と思われる。
2、史元華は『北史』芸術伝に「周の時、樂茂雅ありて陰陽を以て顯れ、史元華は相術を以て稱さるも、並びに闕くるところなり」とあり、西魏~北周の時期に相術で名を知られた人であったらしいが唐代には事績を失伝していたものと見られる。
3、『周書』は「此の公子は至貴の相あり。但し恨むらく其の壽の以て之に稱うに足らざるのみ」とする。訳文はこちらに従った。
二
十二月丁亥、恭帝は詔して
恭帝は次の詔を下した。
「予の聞くところ、天命は常ならず、ただ徳のある者に帰すという。それゆえ、
その詔を奉じた大宗伯の趙貴は節を携え
「嗚呼、汝、周公よ。帝王の位は常ならず、徳ある者が天命を受ける。これがつまり天道というものである。予は
魏帝は朝廷に臨み、
宇文覚は固辭したが公卿百官は勧進し、史官は瑞祥を報告し、ついに勧進に従った。この日、恭帝は宮城を出て大司馬府に退いた。
[原文]
十二月丁亥、魏帝詔以岐陽之地封帝為周公。庚子、禪位於帝。
十二月丁亥、魏帝は詔して岐陽の地を以て帝を封じて周公となす。庚子、位を帝に禪る。
<詔曰「予聞皇天之命不於常、惟歸於德。故堯授舜、舜授禹、時其宜也。天厭我魏邦、垂變以告、惟爾罔弗知。予雖不明、敢弗龔天命、格有德哉。今踵唐虞舊典、禪位於周、庸布告遐邇焉」。>
<詔して曰わく、「予は聞くならく、皇天の命は常ならず、惟だ德に歸す、と。故に堯は舜に授け、舜は禹に授くは、時れ其の宜しきなり。天は我が魏邦を厭い、變を垂れて以て告げ、惟れ爾るを知らざるなし。予は不明と雖も、敢えて天命を龔わず、有德に格さんか。今、唐虞の舊典を踵ぎ、位を周に禪らん。庸て遐邇に布告せん」と。>
使大宗伯趙貴持節奉冊書曰「咨爾周公、帝王之位弗有常、有德者受命、時乃天道。予式時庸、荒求於唐虞之彜踵。曰我魏德之終舊矣、我邦小大罔弗知、今其可久怫於天道而不歸有德歟。時用詢謀。僉曰公昭考文公、格勳德於天地、丕濟生民。洎公躬、又宣重光。故玄象徵見於上、謳訟奔走於下、天之歷數、用實在焉。予安敢弗若。是以欽祗聖典、遜位於公。公其享茲大命、保有萬國、可不慎歟」。
大宗伯たる趙貴をして節を持し冊書を奉ぜしめて曰わく「咨々爾周公、帝王の位は常あらず、德あらば命を受く、時れ乃ち天道なり。予は式にしたがって時れ庸い、荒に唐虞の彜踵を求む。曰わく、『我が魏德の終舊ならん。我が邦の小大に知らざるなく、今其れ久しく天道に怫りて有德に歸さざるべけんや』と。時れ詢謀を用てすなり。僉な曰わく、公昭たる考文公、勳德は天地に格り、生民を丕濟す。公の躬に洎り、又た重光を宣せり。故に玄象は上に徵見し、謳訟は下に奔走し、天の歷數、用て實にここに在り。予は安んぞ敢えて若せざらんや。是れ以て欽として聖典を祗しみ、位を公に遜らん。公は其れ茲の大命を享け、萬國を保有せよ。慎まざるべけんや」と。
魏帝臨朝、遣民部中大夫、濟北公元迪致皇帝璽紱。固辭。公卿百辟勸進、太史陳祥瑞、乃從之。
魏帝は朝に臨み、民部中大夫、濟北公たる元迪を遣りて皇帝の璽紱を致す。固辭するも公卿百辟は勸進し、太史は祥瑞を陳べ、乃ち之に從う。
是日、魏帝遜于大司馬府。
是の日、魏帝は大司馬府に遜く。
三
元年春正月、宇文覚は天王位に即き、
皇考たる文公(宇文泰)を追尊して文王とし、皇妣たる元皇太后を文后とし、天下に大赦した。西魏の恭帝を封じて宋公とした。
この日、
「帝王が勃興すれば正朔は改められ、これは明かに天の教えに従うものであり、万民の視聴を新たにするものである。孔子に及び、三正を陰陽と合わせ考え、『夏の時を行い、後の王は改めなかった』とした。今、魏の曆は終り、周室が天命を受けた。これは木徳によって水徳を承けるものであり、まさにその天命に従って夏の時を用い、聖道に沿うべきである。ただ、文王は黒気の祥瑞に触れて生まれ、黒水の讖緯があった。それゆえ、服色は黒を尚ぶべきである」と。
制して「そのようにせよ」と命じた。
大司徒、趙郡公の
壬寅、円丘を祀った。
詔して「予はもともと神農に発する。よって天を祀る円丘と地を祀る方丘の主とせよ。始祖の献侯は遼海に領地を拓き、初めて国の礎を固めた。南北の郊に
癸卯、方丘を祀った。
甲辰、太社を祭った。初めて市門の税を廃止した。
乙巳、太廟に酒食を捧げた。
丁未、
戊申、有司に詔して使者を任命し、各地の風俗を巡察し、人の得失を求め、高齢者に食物を支給し、
「上に天命がありて魏は周に革まり、予は一人でこの大号にあたらざるを得ぬ。古来の聖王を思うに、先ず風俗を視察して民の苦しみを求め、その後によく統治をおこなった。ましてや予は
辛亥、南郊を祀った。
壬子、天王后として元氏を冊立した。
辛酉、太廟に酒食を捧げた。
乙卯、詔して「思うに、天地草創の期には、国を建ててはじめて民は安寧となる。今、大いに諸国を封建し、周の藩屏となせ」と命じた。
これにより、太師の李弼を趙国公に封じ、太傅の趙貴を楚国公に封じ、太保の獨孤信を衛国公に封じ、大司寇の于謹を燕国公に封じ、大司空の侯莫陳崇を梁国公に封じ、大司馬、中山公の宇文護を晋国公に封じ、食邑は各々一万戸とした。
辛酉、太廟を祠った。
癸亥、
丙寅、剣南の
[原文]
元年春正月、天王即位、柴燎告天、朝百官于路門。追尊皇考文公為文王、皇妣為文后、大赦。封魏帝為宋公。
元年春正月、天王は位に即き、柴燎して天に告げ、百官を路門にて朝せり。皇考文公を追尊して文王と為し、皇妣を文后と為し、大赦す。魏帝を封じて宋公と為す。
是日、槐里獻赤雀<四>。
是の日、槐里*1は赤雀<四>を獻ず。
百官奏議曰「帝王之興、罔弗更正朔、明受之於天、革人視聽也。逮于尼甫、稽諸陰陽、云『行夏之時、後王所不易』。今魏曆告終、周室受命、以木承水、實當行錄、正用夏時、式遵聖道。惟文王誕玄氣之祥、有黑水之讖、服色宜尚烏」。制曰「可」。
百官は奏議して曰わく、「帝王の興るや、正朔を更めざるなく、明かに之を天に受く。人の視聽を革むるなり。尼甫に逮び、諸を陰陽に稽え、云えらく『行夏の時、後王の易めざるところ』と。今、魏曆は終りを告げ、周室は命を受く。木を以て水を承く、實に行錄し、正に夏時を用い、聖道に式遵すべし。惟だ文王は玄氣の祥に誕まれ、黑水の讖あり、服色は宜しく烏を尚ぶべし」と。制して曰わく「可し」と。
以大司徒、趙郡公李弼為太師、以大宗伯、南陽公趙貴為太傅、大冢宰、以大司馬、河內公獨孤信為太保、以大宗伯、中山公護為大司馬、以大將軍寧都公毓、高陽公達奚武、武陽公豆盧寧、小司寇陽平公李遠、小司馬博陵公賀蘭祥、小宗伯魏安公尉迥等並為柱國。
大司徒、趙郡公たる李弼を以て太師と為し、大宗伯、南陽公たる趙貴を以て太傅、大冢宰と為し、大司馬、河內公たる獨孤信を以て太保と為し、大宗伯、中山公たる護を以て大司馬と為し、大將軍、寧都公たる毓、高陽公たる達奚武、武陽公たる豆盧寧、小司寇、陽平公たる李遠、小司馬、博陵公たる賀蘭祥、小宗伯、魏安公たる尉迥等を以て並びに柱國と為す。
壬寅、祀圓丘。
壬寅、圓丘を祀る。
詔曰「予本自神農、其於二丘、宜作厥主。始祖獻侯、啟土遼海、<肇有國基、>配南北郊。文考德符五運、受天明命、祖于明堂、以配上帝<、廟為太祖>」。
詔して曰わく、「予は本と神農よりし、其れ二丘*2に宜しく厥の主と作すべし。始祖たる獻侯は土を遼海に啟き、<肇めて國基を有つ。>南北郊に配せよ。文考の德は五運に符し、天に明命を受く。明堂に祖し、以て上帝に配し<、廟を太祖と為せ>」と。
癸卯、祀方丘。
癸卯、方丘を祀る。
甲辰、遂祭太社。初除市門稅。
甲辰、遂に太社を祭る。初めて市門の稅を除く。
乙巳、享太廟。
乙巳、太廟に享せり。
丁未、會于乾安殿、班賞各有差。
丁未、乾安殿に會し、班賞すること各々差あり。
戊申、詔<曰「上天有命、革魏於周、致予一人、受茲大號。予惟古先聖王、罔弗先于省視風俗、以求民瘼、然後克治。矧予眇眇、又當草昧、若弗尚于達四聰、明四目之訓者、其有聞知哉。有司宜分命方別之使、所在巡撫。五教何者不宣、時政有何不便。得無脩身潔己、才堪佐世之人、而不為上所知。冤枉受罰、幽辱于下之徒、而不為上所理。孝義貞節、不為有司所申。鰥寡孤窮、不為有司所恤。暨黎庶衣食豐約、賦役繁省、災厲所興、水旱之處、並宜具聞。若有年八十已上。所在就加禮餼」。>。有司分命使者、巡察風俗、求人得失、禮餼高年、恤于鰥寡。
戊申、詔して<曰わく、「上天に命あり、魏を周に革め、予一人を致して、茲の大號を受けしむ。予は古先の聖王を惟うに、先ず風俗を省視して以て民の瘼を求め、然る後に克く治めざるなし。矧や予の眇眇たりて又た草昧に當る、若し四聰に達し、四目を明らかなるの訓く者を尚ばずんば、其れ聞知するあらんや。有司は宜しく方別の使に分命し、所在に巡撫せよ。五教の何れか宣せず、時政の何ぞ不便あらん。身を脩めて己を潔くし、才の世を佐くるに堪うるの人にして上の知るところと為らず、冤枉にして罰を受け、下に幽辱さるるの徒にして上の理むるところと為らず、孝義貞節にして有司の申すところと為らず、鰥寡孤窮にして有司の恤うるところと為らざるなきを得よ。暨に黎庶の衣食の豐約、賦役の繁省、災厲の興るところ、水旱の處、並びに宜しく具に聞せよ。若し年八十已上あらば所在に就きて禮餼を加えよ」と。>。有司は使者を分命し、風俗を巡察し、人の得失を求め、高年に禮餼し、鰥寡を恤せり。
辛亥、祀南郊。
辛亥、南郊を祀る。
壬子、立王后元氏。
壬子、王后たる元氏を立つる。
辛酉、享太廟。
辛酉、太廟に享せり。
<乙卯、詔曰「惟天地草昧、建邦以寧。今可大啟諸國、為周藩屏」。
於是封太師李弼為趙國公、太傅趙貴為楚國公、太保獨孤信為衞國公、大司寇于謹為燕國公、大司空侯莫陳崇為梁國公、大司馬、中山公護為晉國公、邑各萬戶。
辛酉、祠太廟。>
<乙卯、詔して曰わく「惟うに天地は草昧たりて、邦を建て以て寧し。今、大いに諸國を啟き、周の藩屏と為すべし」と。
是に太師たる李弼を封じて趙國公と為し、太傅たる趙貴を楚國公と為し、太保たる獨孤信を衞國公と為し、大司寇たる于謹を燕國公と為し、大司空たる侯莫陳崇を梁國公と為し、大司馬、中山公たる護を晉國公と為し、邑は各々萬戶たり。
辛酉、太廟を祠る。>
癸亥、親耕籍田。
癸亥、親ら籍田を耕す。
<丙寅、於劍南陵井置陵州、武康郡置資州、遂寧郡置遂州。>
<丙寅、劍南なる陵井*3に陵州を置き、武康郡*4に資州を置き、遂寧郡*5に遂州を置く。>
[メモ]
1、槐里は『魏書』地形志によると雍州扶風郡槐里縣。
▼雍州扶風郡槐里縣
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2、二丘は皇帝の祭祀のうち、天を祀る円丘と地を祀る方丘と解した。一般に中国古代の宇宙観は「天円地方」とされ、天壇は円丘、地壇は方丘で祀られる。
3、陵井
『旧唐書』地理志の陵州に「仁壽 漢の武陽縣の東境、犍為郡に屬す。晉は西城戍を置き、以て井防と為す。後魏は蜀を平げ、改めて普寧縣と為す。後周は陵州を置き、州南の陵井を以て名と為す」とあり、武陽縣の南の仁壽あたりかと見られる。
▼武陽縣
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4、武康郡
『隋書』地理志の梁州蜀郡に「陽安は舊と牛鞞と曰い、西魏は名を改め、并せて武康郡を置く」とあり、蜀郡牛鞞縣にあたる。
▼蜀郡牛鞞縣
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5、遂寧郡
『旧唐書』地理志の遂州に「方義 漢の廣漢縣、廣漢郡に屬す。宋は遂寧郡を置き、齊、梁は「東」字を加う。後周は東遂寧を改めて遂州と為す。後魏は廣漢を改めて方義と為す」とある。遂寧は清代まで残っており北周の遂州にあたると考えられる。
▼遂寧
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四
二月癸酉、東郊にて日に朝した。
乙亥、
戊寅、太社を祭った。
丁亥、柱国、楚国公の趙貴が謀反し、誅殺された。
詔して百官には次のように報せられた
「朕の父王はかつて群公とともに列将衆官となり、同心協力して共に天下を治めた。その始めから終わりまで二十三年、たがいに助け合って上下に怨みはなかった。それゆえに群公は余を天王位に昇らせたのである。朕は不德ではあるが、そうしてそのことを知らないでいよう。これにより朕と群公の間柄は、同姓であれば兄弟、異姓であっても舅甥のようなものである。この一心で天下を平定し、各々の百世に渡る子孫の祭祀を受けられるよう願うのである。しかし、朕は不明にして群公を睦まじからしめられず、楚公の趙貴は朕を悦ばず、
太保の獨孤信は罪ありとされて官を免じられた。
甲午、大司空、梁国公の侯莫陳崇を太保とし、大司馬、晋国公たる宇文護を大冢宰とし、柱国、博陵公の賀蘭祥を大司馬とし、高陽公の達奚武を大司寇とし、大将軍、化政公の
己亥、秦州と涇州は各々木連理を献上した。歲星は少微を守り、六十日間に渡って留まった。
三月庚子、文武の百官と宴会し、賞賜には各々差があった。
己酉、衛国公の獨孤信が死を賜わった。
壬子、詔して曰わく、「淅州は去歲不作であり、その民は飢饉に苦しんでいる。朕はこれを哀れみ、その州の租輸のいまだ納められていないものは、ことごとく免じよ。また、兼ねて使者を遣わして巡検させ、窮乏する者がいれば官庫の食糧を供給せよ」と命じた。
癸亥、六府の士員の三分の一を省いた。
夏四月己巳、少師、平原公の
壬申、死罪以下の囚の罪一等を減じた。
壬午、成陵に謁見した。乙酉、宮に還った。
丁亥、太廟に酒食を捧げた。
[原文]
二月癸酉、朝日于東郊。
二月癸酉、日に東郊にて朝す。
<乙亥、改封永昌郡公廣為天水郡公。>
<乙亥、永昌郡公たる廣*1を改封して天水郡公と為す。>
戊寅、祭太社。
戊寅、太社を祭る。
丁亥、柱國、楚國公趙貴謀反、伏誅。
丁亥、柱國、楚國公たる趙貴は謀反し、誅に伏す。
<詔曰「朕文考昔與羣公洎列將眾官、同心戮力、共治天下。自始及終、二十三載、迭相匡弼、上下無怨。是以羣公等用升余於大位。朕雖不德、豈不識此。是以朕於羣公、同姓者如弟兄、異姓者如甥舅。冀此一心、平定宇內、各令子孫、享祀百世。而朕不明、不能輯睦、致使楚公貴不悅于朕、與万俟幾通、叱奴興、王龍仁、長孫僧衍等陰相假署、圖危社稷。事不克行、為開府宇文盛等所告。及其推究、咸伏厥辜。興言及此、心焉如痗。但法者天下之法、朕既為天下守法、安敢以私情廢之。書曰『善善及後世、惡惡止其身』。其貴、通、興、龍仁罪止一家、僧衍止一房、餘皆不問。惟爾文武、咸知時事」。>
<詔して曰わく、「朕の文考は昔て羣公と列將眾官に洎び、同心戮力、共に天下を治む。始めより終わりに及ぶまで二十三載、迭いに相い匡弼し、上下に怨みなし。是れ以て羣公等は用て余を大位に升らしむ。朕は不德と雖も、豈に此れを識らざらんや。是れ以て朕の羣公に於いては、同姓の者は弟兄の如く、異姓の者は甥舅の如し。此の一心、宇內を平定し、各々の子孫をして祀を百世に享けしめんことを冀えり。而して朕は不明にして輯睦するあたわず、致して楚公たる貴をして朕を悅ばず、万俟幾通、叱奴興、王龍仁、長孫僧衍等と陰に相い假署し、社稷を危うくせんと圖らしむ。事は克く行われず、開府たる宇文盛等の告ぐるところとなり、其れ推究して咸な厥の辜に伏すに及ぶ。興言の此に及び、心は焉に痗むが如し。但だ法は天下の法たり、朕は既に天下の為に法を守る。安んぞ敢えて私情を以て之を廢さん。書に曰わく『善を善として後世に及ぼし、惡を惡として其の身に止む』と。其れ貴、通、興、龍仁の罪は一家に止め、僧衍は一房に止め、餘は皆な不問とす。惟だ爾ら文武は咸な時事を知れ」と。>
太保獨孤信<有>罪免。
太保たる獨孤信は罪<ありて>免ぜらる。
甲午、以大司空、梁國公侯莫陳崇為太保、大司馬、晉國公護為大冢宰、柱國、博陵公賀蘭祥為大司馬、高陽公達奚武為大司寇、大將軍、化政公宇文貴為柱國。
甲午、大司空、梁國公たる侯莫陳崇を以て太保と為し、大司馬、晉國公たる護を大冢宰と為し、柱國、博陵公たる賀蘭祥を大司馬と為し、高陽公たる達奚武を大司寇と為し、大將軍、化政公たる宇文貴を柱國と為す。
己亥、秦州、涇州各獻木連理。歲星守少微、經六十日。
己亥、秦州、涇州は各々木連理を獻ず。歲星は少微を守り、經ること六十日なり。
<三月>庚子、會文武百官、班賜各有差。
<三月>庚子,文武の百官を會し、班賜すること各々差あり。
己酉、衞國公獨孤信賜死。
己酉、衞國公たる獨孤信は死を賜わる。
<壬子、詔曰「浙州去歲不登、厥民饑饉、朕用慜焉。其當州租輸未畢者、悉宜免之。兼遣使巡檢、有窮餒者並加賑給」。>
<壬子、詔して曰わく、「淅州*2は去歲登らず、厥の民は饑饉たり。朕は用てこれを慜む。其の當州の租輸の未だ畢らざるは、悉く宜しく之を免ぜよ。兼ねて使を遣りて巡檢し、窮餒する者あらば並びに賑給を加えよ」と。>
癸亥、省六府士員三分之一。
癸亥、六府の士員の三分之一を省く。
<夏四月己巳、以少師、平原公侯莫陳順為柱國。>
<夏四月己巳、少師、平原公たる侯莫陳順を以て柱國と為す。>
壬申、降死罪已下囚。<壬申、詔死罪以下、各降一等。>
壬申、死罪已下の囚を降す。<壬申、詔死罪以下、各降一等。>
壬午、謁成陵。<乙酉、還宮。>
壬午、成陵に謁す。<乙酉、宮に還る。>
丁亥、享太廟。
丁亥、太廟に享す。
[メモ]
1、廣は宇文広、宇文導の子。
2、淅州は『隋書』地理志の豫州淅陽郡に「淅陽郡 西魏は淅州を置く」とあり、南鄉郡南鄉を治所とする。
▼南鄉郡南鄉
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五
五月癸卯、歲星は太微上将を犯し、太白は軒轅を犯す。
己酉、槐里は白い燕を献じた。宇文覚は昆明池で漁を見物しようとしたが、博士の
秋七月壬寅、宇文覚は右寢で裁判を行い、赦免される者が多かった。
甲辰、月が心後星を掩った。
辛亥、太廟に酒食を捧げた。熒惑が東井北端の第二星を犯した。
八月戊辰、太社を祭った。
辛未、詔して「朕は初めて天王の位に臨み、政教はいまだ行き渡らず、我が農民たちの多くを刑網に罹らせた。今、秋に刑罰をおこなう常例に従い、まさに処刑をおこなうべきところであるが、群民を思えばその責は朕にあるものと思わざるを得ぬ。刑罰は寛容に従い、これまでの常例に従ってはならぬ。死罪を犯す者はその罪を降して流罪とし、流罪以下も各々罪一等を減ぜよ。赦免の対象ではない者は、これより除け」と命じ、死罪以下の囚人の罪を減じた。
甲午、詔して「帝王が天下を治めるには、広く才人を求めてその民を治めたものである。今、二十四軍より賢良にして民を治むるに堪える者を推挙し、軍ごとに九人を上奏せよ。推挙された人が後にその任に適わないようであれば、推挙した官司はみなその罪に従うものとする」と命じ、二十四軍から賢良を推挙させた。
九月庚申、詔して「朕の聞くところ、君主が天下に臨むに際してはただ一人であたるのではなく、上下の官吏将帥が同心してあたるものであるという。今、文武の官、及び、諸軍人の爵封の恩恵を受けていない者には、各々両大階を授けよ」と命じた。
太守を改めて郡守とした。
[原文]
<五月癸卯、歲星犯太微上將、太白犯軒轅。>
<五月癸卯、歲星は太微上將を犯し、太白は軒轅を犯す。>
五月己酉、<槐里獻白鷰。>帝將觀漁於昆明池、博士姜頃諫、乃止。
五月己酉、<槐里は白鷰を獻ず。>帝は將に漁を昆明池に觀んとするも、博士たる姜頃は諫め、乃ち止む。
秋七月壬寅、帝聽訟於右寢、多所哀宥。
秋七月壬寅、帝は訟を右寢に聽き、哀宥するところ多し。
甲辰、月掩心後星。
甲辰、月は心後星を掩う。
辛亥、享太廟。<熒惑犯東井北端第二星。>
辛亥、太廟に享す。<熒惑は東井北端なる第二星を犯す。>
八月戊辰、祭太社。
八月戊辰、太社を祭る。
辛未、<詔曰「朕甫臨大位、政教未孚、使我民農、多陷刑網。今秋律已應、將行大戮、言念羣生、責在於朕。宜從肆眚、與其更新。其犯死者宜降從流、流以下各降一等。不在赦限者、不從此降」。>降死罪已下囚。
辛未、<詔して曰わく、「朕は甫めて大位に臨み、政教は未だ孚らず、我が民農をして、多く刑網に陷らしむ。今、秋律は已に應じ、將に大戮を行わんとするも、言いて羣生を念わば、責は朕にあり。宜しく肆眚に從い、與に其れ更新せよ。其の死を犯す者は宜しく降して流に從い、流以下は各々一等を降せ。赦限にあらざる者は此の降に從わず」と。>死罪已下の囚を降す。
甲午、詔<曰「帝王之治天下、罔弗博求眾才、以乂厥民。今二十四軍宜舉賢良堪治民者、軍列九人。被舉之人、於後不稱厥任者、所舉官司、皆治其罪」。>二十四軍舉賢良。
甲午、詔して<曰わく「帝王の天下を治むるに、博く眾才を求めざるなく、以て厥の民を乂む。今、二十四軍は宜しく賢良にして民を治むるに堪う者を舉げ、軍ごとに九人を列せよ。舉を被るの人の、後に厥の任に稱わざれば、舉ぐるところの官司は皆な其の罪を治せよ」と。>二十四軍をして賢良を舉げしむ。
九月庚申、<詔曰「朕聞君臨天下者、非由一人、時乃上下同心所致。今文武之官及諸軍人不霑爵封者、宜各授兩大階」。>改太守為郡守。
九月庚申、<詔して曰わく、「朕は聞くならく、君の天下に臨むは一人に由るにあらず、時に乃ち上下同心の致すところなり、と。今、文武の官、及び、諸軍人の爵封に霑らざる者は宜しく各々兩大階を授けよ」と。>太守を改めて郡守と為す。
六
宇文覚は剛毅果断な性格であり、晋公の宇文護の専権を嫌っていた。
また宮伯の
長安に残る乙弗鳳たちは不安になり、改めて宇文覚に願い、群臣を宮中に召し出す際に宇文護を誅殺しようとした。張光洛は再びそのことを宇文護に報告した。
この時、小司馬の尉遅綱は宿衞の兵を統率しており、宇文護は尉遅綱を殿中に召し入れると、時事を議論すると詐って乙弗鳳たちを呼びこみ、順に捕らえて宇文護の私邸に送り、一党をすべて誅殺した。
尉遅綱は禁兵を宮中から退かせ、宇文覚がそのことを悟る頃にはすでに左右に兵はおらず、独り內殿にいる有様であり、宮人たちに武器を持って自衛させた。宇文護は大司馬の賀蘭祥を遣わして宇文覚に天王位を退くよう迫り、略陽公に降格してついに旧邸に幽閉した。
一月余り後、弒されて宇文覚は世を去った。この時、十六歳であった。李植、孫恒たちもまた殺害された。
[原文]
帝性剛果、忌晉公護之專。司會李植、軍司馬孫恒以先朝佐命、入侍左右、亦疾護權重、乃與宮伯乙鳳、賀拔提等潛請帝誅護、帝許之。
帝は性剛果、晉公護の專を忌む。司會たる李植、軍司馬たる孫恒は先朝の佐命なるを以て、入りて左右に侍し、亦た護の權の重きを疾み、乃ち宮伯たる乙鳳、賀拔提等と潛かに帝に護を誅さんことを請い、帝は之を許せり。
又引宮伯張先洛。先洛以白護、護乃出植為梁州刺史、恒為潼州刺史。
又た宮伯たる張先洛*1を引くも、先洛は以て護に白し、護は乃ち植を出して梁州刺史と為し、恒を潼州刺史と為す。
鳳等<遂不自安、>更奏帝、將召羣臣入、因此誅護。先洛又白之。
鳳等は<遂に自ら安んぜず、>更めて帝に奏し、將に羣臣を召して入り、此に因りて護を誅さんとす。先洛は又た之を白せり。
時小司馬尉綱總統宿衞兵、護乃召綱入殿中、詐呼鳳等論事、以次執送護第、並誅之。
時に小司馬たる尉綱は宿衞兵を總統し、護は乃ち綱を召して殿中に入らしめ*2、鳳等を呼びて事を論んぜんと詐り、次を以て執えて護の第に送り、並びに之を誅せり。
綱仍罷禁兵、帝<方悟、>無左右、獨在內殿、令宮人執兵自守。護遣大司馬賀蘭祥逼帝遜位、貶為略陽公、遂幽於舊邸。
綱は仍りて禁兵を罷らしめ、帝は<方に悟るも、>左右なく、獨り內殿にあり、宮人をして兵を執ちて自ら守らしむ。護は大司馬たる賀蘭祥を遣りて帝に遜位を逼り、貶して略陽公と為し、遂に舊邸に幽う。
月餘日、以弒崩、時年十六。植、恒等亦遇害。
月餘日、弒を以て崩ず。時に年十六なり。植、恒等も亦た害に遇う。
[メモ]
1、張先洛は『周書』では張光洛とする。同じく『周書』于翼伝には北周武帝期に「大將軍たる張光洛」がその指揮に従っていたとの記述があり、張光洛が正しいものと見られ、訳文は『周書』に従う。
2、『周書』では「護は乃ち綱を召して共に廢立を謀る」とする。
七
史臣は次のように評する。
「孝閔帝宇文覚は宇文泰の事業を引き継ぎ、周囲の推戴の機に乗じ、天に柴を焼いて天に告げ、臣民を手厚く労って、天王位に即位し、近くに異論なく、遠くに異望を抱く者はいなかった。黄初に始まった曹魏は司馬氏の西晋建国により終わりを迎え、これは人々が王朝を尊ばないがゆえであった。さらに春秋時代の衛国のように政治は権臣に握られ、君主は茨のような猜疑を抱き、祭事だけが君主に委ねられ、臣下には復辟を願う者もいない。この情勢で権臣を除こうとしてわが身に禍の至るまでが速まったことは、当然であろう」
[原文]
<史臣曰「孝閔承既安之業、應樂推之運、柴天竺物、正位君臨、邇無異言、遠無異望。雖黃初代德、太始受終、不之尚也。然政由寧氏、主懷芒刺之疑。祭則寡人、臣無復子之請。以之速禍、宜哉。>
<史臣は曰わく、「孝閔は既安の業を承け、樂推の運に應じ、天に柴して物に竺くし、正位に君臨し、邇きは異言なく、遠きは異望なし。黃初に德を代うると雖も、太始*1に終わりを受く、之れ尚ばざればなり。然るに政は寧氏に由り、主は芒刺の疑を懷けり。祭は則ち寡人にあり、臣に復子の請なし*2。之を以て禍を速めるは、宜なるかな」と。>
[メモ]
1、太始とあるが年号としては前漢武帝期に用いられたものであり、曹丕が魏を建国した際に用いた黃初とは対応しない。司馬炎が西晋を建国した際に用いた泰始の誤記と見て改めた。
2、「政は寧氏に由り~臣に復子の請なし」までは『春秋左氏伝』襄公二十六年の衛における献公放逐の記事を下敷きとしている。「復子の請」は復子明辟からの造語であろう。
-了-
『偽編北周書』─『周書』の皮をかぶった『北史』─ 河東竹緒 @takeo_kawahigashi
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