『偽編北周書』─『周書』の皮をかぶった『北史』─

河東竹緒

文皇帝宇文泰-巻九周本紀上第九-


 周の太祖である文皇帝は、姓は宇文うぶん氏、いみなは泰、あざな黒獺こくだつといい、代郡だいぐん武川鎮ぶせんちんの人である。


[原文]

周太祖文皇帝姓宇文氏、諱泰、字黑獺、代郡武川人也。

周の太祖たる文皇帝、姓は宇文氏、諱は泰、字は黑獺*1、代郡武川*2の人なり。


[メモ]

1、文字面だけを読めば「黒いカワウソ」の意。隋末の群雄に劉黒闥りゅう・こくたつという人がいて黒獺=黒闥の可能性があり、たぶんカワウソではない。


2、代郡は太原がある并州の北の肆州のさらに北、山西省北部の山を越えた先にあって東西に連なる陰山の南麓、北魏の六鎮は柔然の南下に備えて陰山山脈南麓一帯に置かれたけど武川鎮だけは陰山を南北に貫く白道の北に置かれた最前線にあたる。ちなみに当時の鎮は州郡から外れていたので鎮が行政単位。


地名については東洋文庫水経注図データベースの該当URLを表示する。ご興味の向きはURLをブラウザにペーストすれば『水経注図』の該当箇所が表示される。なお、必ずしも一致しない場合には調査結果を先に記述している。

▼武川鎮

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 その先祖は炎帝えんてい神農氏しんのうしより出で、炎帝が黄帝こうてい軒轅氏けんえんしに滅ぼされると、その子孫は逃れて北方の原野に住んだ。

 それよりしばらく後にその一族から葛烏兔かつうとという者が現れた。葛烏兔は武略に秀でて計略が多く、周辺の鮮卑せんぴの者たちは主として仰ぐようになった。

 ついには十二の部落を統べて代々の大人たいじん、つまり君長となった。


[原文]

其先出自炎帝。

其の先は炎帝より出づ。


炎帝為黃帝所滅、子孫遁居朔野。

炎帝は黃帝の滅すところと為り*1、子孫は遁げて朔野*2に居す。


其後有葛烏兔者、雄武多算略、鮮卑奉以為主、

其の後に葛烏兔なる者あり、雄武にして算略多く、鮮卑は奉じて以て主と為す。


遂總十二部落、世為大人。

遂に十二部落を總べ、世々大人たり。


[メモ]

1、黄帝軒轅氏は、三皇、つまり、伏羲ふくぎ(狩猟の創始者)、神農しんのう(農耕の創始者)・燧人すいじん(調理の創始者)の後を受けて中原を支配したとされる五帝の一人。三皇五帝のメンバーと交替理由にはさまざまな説話があるが、ここでは黄帝が炎帝を打倒したという説話に依拠している。

 ちなみに、『魏書』序記には「昔、黃帝に子二十五人あり、或る者は內に諸華に列し、或る者は外に荒服に分かる。昌意は少子にして封を北土に受く。國に大鮮卑山あり、因りて以て號と為せり」とあって北魏の公式見解としては鮮卑族は黄帝の末子の昌意に発するとしているので宇文氏の由来とは異なる。


2、朔=北、「朔野」は北方の野原。




 葛烏兔の子孫の普回ふかいという者の時、狩猟の最中に三本の組み紐を結ばれた玉璽ぎょくじを手に入れた。その印文には「皇帝の璽」とあり、普回はそれを天より授かったものであると考え、周りには秘密にしていた。

 彼らの習俗では天子を「宇文」と呼んだため、自らの国を宇文と称し、さらに自らもそれを氏とした。


[原文]

及其裔孫曰普回、因狩得玉璽三紐。

其の裔孫の普回と曰うものに及び、狩りに因りて玉璽三紐を得る。


文曰皇帝璽、普回以為天授、己獨異之。

文に皇帝璽と曰い、普回は以て天の授くるところと為し、己れ獨り之を異とせり。


其俗謂天子曰「宇文」、故國號宇文、并以為氏。

其の俗に天子を謂いて「宇文」と曰うが故に國は宇文*1と號し、并せて以て氏と為す。


[メモ]

葛烏兔→普回


1、『周書』文帝紀では「其の俗に天を謂いて宇と曰い、君を謂いて文と曰い、因りて宇文國と號し、并せて以て氏と為せり」とする。『新唐書』宰相世系表では次のように記されている。

宇文氏は匈奴の南單于の裔より出ず。葛烏兔ありて鮮卑の君長たり、世々大人を襲い、普迴に至り、獵に因りて玉璽を得る。自ら以為えらく「天授なり」と。俗に天子を謂いて宇文と為す。因りて宇文氏を號せり。或いは云えらく、「神農氏は黃帝の滅すところと為り、子孫は遁げて北方に居む。鮮卑の俗に草を呼びて俟汾しふんと為し、神農の草を嘗むるの功あるを以て、因りて自ら俟汾氏と號し、其の後に音訛して遂に宇文氏と為れり」と。

 時期的にも遅いためマユツバ極まりないが俟汾説は神農氏の末裔という点を強調するものであり、それが重要視された時代が『新唐書』編纂までにあったのかも知れない。




 宇文普回の子の宇文莫那うぶん・ばくなは陰山から南に移住し、遼西りょうせいに住むようになった。宇文莫那は献侯けんこうと呼ばれ、拓跋部たくばつぶ北魏ほくぎと姻戚関係を結んでいた。


[原文]

普回子莫那、自陰山南徙、始居遼西。

普回の子の莫那は、陰山より南にうつり、始めて遼西りょうせい*1に居す。


是曰獻侯、為魏舅甥之國。

是れを獻侯けんこうと曰い、魏の舅甥きゅうせいの國たり。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那


1、北魏の遼西郡は平州に属し、肥如縣ひじょけんを治所とした。

▼平州遼西郡肥如縣

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宇文莫那からさらに九世代後の宇文侯歸豆うぶん・こうきとうの代になると、宇文氏の国は慕容晃ぼよう・こうに滅ぼされた。


[原文]

自莫那九世至侯歸豆、為慕容晃所滅。

莫那より九世して侯歸豆*1に至り、慕容晃*2の滅ぼすところとなる。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那─[八代]→宇文侯歸豆


1、『周書』は侯豆歸こうとうきとし、『晋書』慕容皝載記は逸豆歸いつとうき、『新唐書』宰相世系表も同じく佚豆歸とする。「~豆歸」が正しいと見られるが本文は『北史』に従う。


2、慕容晃は前燕を建国した慕容皝ぼよう・こう。宇文氏では宇文侯歸豆が嫡流の宇文乞得亀うぶん・きつとくきを追放して跡を継いだことによる混乱があり、慕容皝の侵攻を受けることとなる。慕容部においても慕容皝と庶兄にあたる慕容翰ぼよう・かん慕容仁ぼよう・じんとの対立があり、さらに慕容皝の母方の姻戚にあたる段氏までを巻き込んだ争乱に発展するが、344年に宇文氏は慕容氏に併呑される。




 宇文侯歸豆の子の宇文陵うぶん・りょうは慕容氏の燕国に仕え、公主を娶って駙馬都尉ふばといの官を与えられ、玄菟公げんとこうの爵位に封じられた。

 慕容垂ぼよう・すいの子の慕容寶ぼよう・ほうが北魏に敗れた際に降伏し、都牧主とぼくしゅの官位と安定侯あんていこうの爵位を与えられた。

 北魏の天興てんこう年間の初め頃、北魏の朝廷は豪傑を代都だいとに移住させ、宇文陵もその例に従って武川鎮ぶせんちんに移住し、本籍をその郡県に移した。


[原文]

其子陵仕燕、拜駙馬都尉、封玄菟公。

其の子の陵は燕に仕え、駙馬都尉*1を拜し、玄菟公に封ぜらる。


及慕容寶敗、歸魏、拜都牧主、賜爵安定侯。

慕容寶の敗るるに及び*2、魏に歸して都牧主を拜し、爵安定侯を賜わる。


天興初、魏遷豪傑於代都、陵隨例徙居武川、即為其郡縣人焉。

天興*3の初め、魏は豪傑を代都*4に遷し、陵は例に隨いて居を武川に徙し、即ち其の郡縣の人となれり。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那─[八代]→宇文侯歸豆→宇文陵


1、駙馬都尉は皇帝の娘である公主を娶った者に与えられる名誉職。


2、『周書』に「魏の道武は將に中山を攻めんとし、陵は慕容寶に從いて之を禦ぐ。寶は敗れ、陵は甲騎五百を率いて魏に歸し、都牧主を拜し、爵安定侯を賜わる」とあり、これに従えば『魏書』道武帝紀の皇始二年(397)二月に「丁丑、鉅鹿の栢肆塢に軍し、呼沱水に臨む。其の夜、寶は眾を悉くして營を犯し、燎は行宮に及び、兵人は駭き散る。帝は驚き起ち、衣冠に及ばず跣にて出でて鼓を擊つ。俄にして左右、及び、中軍の將士は稍稍來集す。帝は奇陳を設け、烽を營外に列べ、騎を縱ちて之を衝く。寶の眾は大いに敗れ、斬首すること萬餘級、其の將軍たる高長等四千餘人を擒う」と記述される栢肆はくしの役の捕虜に含まれていたと考えられる。

 栢肆は『晋書』には曲陽柏肆と記されており、『讀史方輿紀要』卷十四真定府靈壽縣の柏肆城の條に「本は漢の藁城縣の地なり。晉は下曲陽縣の地と爲し、趙國に屬せしむ。晉季の亂、塢を此に置き、柏肆塢と曰う」とあり、藁城縣の北、呼沱水沿岸に置かれたことが分かる。

▼定州鉅鹿郡藁城縣

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3、天興は北魏道武帝の年号、 398年- 404年。『魏書』道武帝紀の天興二年春正月に「山東六州の民吏、及び、徒何、高麗の雜夷三十六萬、百工伎巧十萬餘口を徙し、以て京師に充つ」とある記事が対応する。なお、武川鎮に移住させたという記事はない。


4、代都は北魏の国都、道武帝の頃は雲州盛楽郡、後に恒州代郡平城に移る。

▼雲州盛楽郡

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▼恒州代郡平城

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宇文陵の子が宇文系うぶん・けい、宇文系の子が宇文韜うぶん・とう、宇文韜の子が宇文泰の父の宇文肱うぶん・こうであり、それぞれ武略に優れていると称えられた。


[原文]

陵生系、系生韜、韜生皇考肱、並以武略稱。

陵はけいを生み、系はとうを生み、韜は皇考こうこう*1たるこうを生み、並びに武略を以て稱さる。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那─[八代]→宇文侯歸豆→宇文陵→宇文系→宇文韜→宇文肱


1、皇帝の亡父を皇考と称する。宇文肱が宇文泰の父であるために用いられている。




 宇文肱は任侠の人であり、才気があった。

 正光せいこう年間の末、沃野鎮よくやちんの人である破六韓拔陵はらくかん・ばつりょうが叛乱すると、賊王に任じられた衛可瓌えい・かかいの勢力がもっとも盛んであった。

 宇文肱は郷里の人々を糾合して衛可瓌を斬り、その軍勢を解散させた。

 後に鮮于修禮せんう・しゅうれいに捕らわれ、定州軍に破られて陣没した。

 北周の武成ぶせい年間の初め、德皇帝とくこうていと謚された。


[原文]

肱任俠有氣幹。

肱は任俠にして氣幹あり。


正光末、沃野鎮人破六韓拔陵作亂、其偽署王衞可瓌最盛。

正光*1の末、沃野鎮*2人たる破六韓拔陵は亂を作し、其の偽署するところの王たる衞可瓌*3は最も盛んなり。


肱乃糾合鄉里、斬瓌、其眾乃散。

肱は乃ち鄉里を糾合して瓌を斬り、其の眾は乃ち散ず。


後陷鮮于修禮、為定州軍所破、戰沒於陣。

後に鮮于修禮に陷り、定州軍の破るところと為り、戰いて陣に沒せり。


武成初、追諡曰德皇帝。

武成*4の初め、追諡して德皇帝と曰う。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那─[八代]→宇文侯歸豆→宇文陵→宇文系→宇文韜→宇文肱


宇文泰の父である宇文肱までの系図は以上のようになる。

なお、『新唐書』宰相世系表は以下の系譜とする。


葛烏兔→(宇文)普迴→宇文莫那→宇文可地汗→[不明]→宇文普撥→宇文丘不勤→宇文莫珪→宇文遜昵延→宇文佚豆歸→宇文拔拔陵陵→宇文系→宇文韜


これによると宇文侯歸豆(宇文佚豆歸)は宇文莫那の七世孫となり、『周書』『北史』の九世と一致しない。『新唐書』では宇文肱(宇文泰の父)、宇文顥(宇文泰の兄)、宇文泰をいずれも宇文韜の子とする誤りがあり、記録の精度は低いものと見られる。


『新唐書』宰相世系表記載の宇文佚豆歸諸子の系図

宇文佚豆歸

├宇文拔拔陵陵─宇文系┬宇文韜─┬宇文肱(宇文泰の父)

│          │    ├宇文顥(宇文泰の兄)

│          │    └宇文泰

│          └宇文阿頭─宇文仲──宇文興─宇文洛(隋介公)

├宇文拔拔瓌

├宇文紇闍

├宇文目原───[子]─宇文跋──宇文直力勤─宇文賢─宇文瑋(北周壽張公)

├宇文紇闍俟直

└宇文目陳


1、正光は北魏孝明帝の年号、520年 - 525年。


2、沃野鎮

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3、衞可瓌が姓名なのか名だけなのか不明、同時期の柔然に阿那瓌などの名があるので衞姓で名が可瓌が妥当と思われる。衞可孤と書かれる場合もある。ちなみに高阿那肱を高阿那瓌と書く例もあり、瓌、孤、肱の三字が互通ごつう(表記上で交換可能の意)であった可能性が考えられる。


4、武成は北周の明帝の年号、559年 - 560年。




 宇文泰は宇文肱の末子であった。

 母は王氏といい、妊娠から五月が過ぎた頃、子を抱いて天に昇り、わずかに天に届かないところまで至る夢をみた。目覚めて宇文肱に告げると、宇文肱は「天に届かなかったとはいえ、それでも尊貴は極まっている」と喜んだ。


[原文]

帝、德皇帝之少子也。

帝は德皇帝の少子なり。


母曰王氏。

母を王氏*1と曰う。


初孕五月、夜夢抱子升天、纔不至而止。

初めて孕みて五月、夜に夢に子を抱きて天に升り、纔に至らずして止む。


寤以告德皇帝。

めて以て德皇帝に告ぐ。


德皇帝喜曰:「雖不至天、貴亦極矣。」

德皇帝は喜びて曰わく、「天に至らずと雖も貴は亦た極まれり」と。


[メモ]

葛烏兔→(宇文)普回→宇文莫那─[八代]→宇文侯歸豆→宇文陵→宇文系→宇文韜→宇文肱→宇文泰


1、楽浪らくろう王氏おうしの出身で王盟おう・めいの妹、なお、宇文肱の子はすべて同腹である。


宇文肱 ┌宇文顥うぶん・こう

 ┠──┼宇文連うぶん・れん

王氏  ├宇文洛生うぶん・らくせい

    ├宇文泰

    └昌楽大長公主しょうがくだいちょうこうしゅ(宇文泰の姉、尉遅迥うつち・けい尉遅綱うつち・こう兄弟の母)




 宇文泰が生まれる時、黒い気が蓋のように上方から下ってその身を覆った。

 成長すると身長は2m36cm、額は広く四角く、鬚髯は美しくして髪は地面に届くほど長く、手は下ろせば膝を過ぎるほど長かった。

 背の黒子は滑らかな曲線を描いて龍が蟠っているように見え、顔色は紫に光るかのごとく、人はその姿を見ると畏敬した。


[原文]

帝生而有黑氣如蓋、下覆其身。

帝の生れるに黑氣の蓋の如きあり、下りて其の身を覆う。


及長、身長八尺、方顙廣額、美鬚髯、髮長委地、垂手過膝。

長ずるに及び、身長八尺*1、方顙ほうそうにして廣額こうがく*2、鬚髯しゅぜんは美しく髮長きこと地に委ね、手を垂れれば膝を過ぐ。


背有黑子、宛轉若龍盤之形、面色紫光、人望而敬畏之。

背に黑子あり、宛轉えんてん*3として龍のわだかまる*4の形の若く、面色に紫光あり*5、人は望みて之を敬畏せり。



[メモ]

1、一尺を換算すると、北魏前尺は0.27868m、北魏中尺は0.2796036m、北魏後尺と後周市尺は0.2957656m、前二者を適用すると宇文泰の身長は2.23m、後者を適用すると2.36mとなる。デカい。


2、そうは頭または額、額は額を意味する。


3、宛轉えんてんは滑らかに続く様。


4、龍盤は「儀礼などに使われる龍を描いたお盆」の意味とも解せるが背中に龍の図柄のお盆は考えにくいので龍が蟠る形と読むのが穏当。


5、「面色紫光」とあるが、面色は「顔色」の意味で用いられる例が多く、文字通りに読めば顔色が紫に光ることになる。なお、『晋書』苻堅載記には「臂は垂れて膝を過ぎ、目に紫光あり」という表現があり、これも本来は目の話だったのかも知れない。



十一


 年少の頃から度量が大きく、家人の生業に務めず、財産を軽んじて他人に施すことを好み、賢明な士大夫と交遊を結ぶことを専らにした。

 宇文肱とともに山東で挙兵した鮮于修禮の叛乱軍にあり、葛榮かつ・えいが鮮于修禮を殺した。宇文泰はこの時十八歳であったが、葛榮の下で将帥に任じられたものの葛榮に大事は成せないと察し、諸兄とともにその下から離れようと企てた。

 その計画を行わないうちに葛榮は尒朱榮じしゅ・えいに滅ぼされ、宇文泰の一族も捕らわれて晋陽に連行された。尒朱榮は宇文泰兄弟が傑物であることを忌み、ついに余罪に託して宇文泰の第三兄である宇文洛生*2《うぶん・らくせい》を誅殺し、さらに宇文泰をも誅殺しようとした。

 宇文泰は冤罪であると抗弁してその言辞は慷慨の情に溢れていた。尒朱榮はその言葉に感じてその他の者たちの罪を免じ、敬意をもって遇するようになった。


[原文]

少有大度、不事家人生業、輕財好施、以交結賢士大夫為務。

少くして大度あり、家人の生業を事とせず、財を輕んじて施を好み、賢士大夫と結を交わすを以て務めと為す。


隨德皇帝在鮮于修禮軍、及葛榮殺修禮、帝時年十八、榮下任將帥、察其無成、謀與諸兄去之。

德皇帝に隨いて鮮于修禮の軍にあり、葛榮*1の修禮を殺すに及び、帝は時に年十八、榮の下に將帥を任じられるも其の成すなきを察し、諸兄と之を去らんと謀る。


計未行、會榮滅、因隨尒朱榮遷晉陽。

計の未だ行わざるに會々榮は滅び、因りて尒朱榮*2の晉陽*3に遷るに隨う。


榮忌帝兄弟雄傑、遂託以他罪誅帝第三兄洛生。

榮は帝の兄弟の雄傑なるを忌み、遂に託するに他罪を以て帝の第三兄たる洛生を誅せり。


<復欲害太祖。>

<復た太祖を害さんと欲せり。>

<>内は『周書』より補填した文章を示す。以降同じ。


帝以家寃自理、辭旨慷慨。

帝は家の寃なるを以て自ら理め、辭旨は慷慨たり。


榮感而免之、益加敬待。

榮は感じて之を免じ、益々敬待を加う。


[メモ]

ここまで宇文泰の兄弟とその子をまとめると以下のようになる。(人名の後の数字は死没順)


 宇文肱②唐河における定州軍との戦で陣没

  ├宇文顥①武川鎮における衛可瓌との戦で陣没

  │ ├宇文什肥うぶん・じゅうひ

  │ ├宇文導うぶん・どう

  │ └宇文護うぶん・ご

  ├宇文連②唐河における定州軍との戦で陣没

  ├宇文洛生③爾朱栄が殺害

  │ └宇文菩提うぶん・ぼだい

  └宇文泰


1、葛榮は懐朔鎮将の就任を経ており、鮮于修禮よりも六鎮民には名が通っていたものと見られる。この時、宇文泰の兄の宇文洛生は漁陽王に任じられており、宇文肱に従っていた兵を率いて人々に「洛生王」と呼ばれるほどの活躍を見せている。よって、宇文泰を含めた宇文氏は積極的に葛榮に協力していた可能性が高い。


2、尒朱榮は爾朱榮とも書かれる。後段で『北史』の列伝を翻訳予定、列伝は『魏書』と『北史』に収められている。


3、晋陽

▼并州太原郡晋陽縣

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十二


 尒朱榮の下では統軍とうぐんとしてその征討に従い、後にりょうの兵を借りて洛陽を占領した北海王ほっかいおう元顥げん・こうを討つ賀拔岳がばつ・がく別将べつしょうとして従った。

 孝莊帝こうそうていが洛陽に戻ると、軍功によって寧都子ねいとしの爵を与えられ、食邑しょくゆうとして三百戸を授けられ、新たに鎮遠将軍ちんえんしょうぐん步兵校尉ほへいこういに任じられた。

 その後、賀拔岳に従って関中かんちゅうに入り、万俟醜奴ぼくき・しゅうどを平らげて隴西が安定すると宇文泰は軍功が多かったことを認められ、新たに征西将軍せいせいしょうぐん金紫光祿大夫きんしこうろくたいふに任じられ、食邑三百戸を加えられ、直閣将軍ちょっこうしょうぐんの号を加えられ、原州げんしゅうの統治を委ねられた。


[原文]

始以統軍從榮征討、後以別將從賀拔岳討北海王顥於洛陽。

始め統軍*1を以て榮の征討に從い、後に別將*1を以て賀拔岳の北海王顥*2を洛陽に討つに從う。


孝莊反正、以功封寧都子、<邑三百戶、遷鎮遠將軍、步兵校尉。>

孝莊*3の反正するに、功を以て寧都子に封ぜられ、<邑三百戸、鎮遠將軍、步兵校尉に遷れり。>


後從岳入關、平万俟醜奴、<定隴右、太祖功居多、遷征西將軍、金紫光祿大夫、增邑三百戶、加直閣將軍、>行原州事。

後に岳に從いて關に入り、万俟醜奴*4を平げ、<隴右を定むるに太祖の功は多に居り、征西將軍、金紫光祿大夫に遷り、邑三百戶を增し、直閣將軍を加えられ、>行原州事*5たり。


[メモ]

1、『周書』の記事によると、宇文泰が統軍として出征した戦は永安二年(529)二月に燕州の民である王慶祖おう・けいそ上黨じょうとうで起こした叛乱であったと推測される。

なお、『周書』盧辯伝には

 軍主:四命

  ↓三段階上

 統軍:正五命

  ↓二段階上

 別将:正六命

とあり、武人の昇進は軍主⇒統軍⇒別将という段階を踏んでいたと考えられる。

 九命きゅうめいはそれまでの官品に相当し、正九命を頂点とする各命二段階十八の官位制度であると考えればよい。上から三番目にあたる正八命に大州の刺史があり、北魏の官品と比べて州刺史など地方官の官品が高くなっている点に特徴がある。

 九命に対応する主な官職は以下のとおり。


正九命

柱国大将軍、大将軍


九命

驃騎・車騎等の大将軍、開府、儀同三司、雍州牧


正八命

驃騎・車騎等の将軍、左右光祿大夫、三万戸以上の州の刺史


八命

四征・中軍・鎮軍・撫軍等の将軍、左右金紫光祿大夫、大都督、二万戸以上の州の刺史、京兆尹


正七命

四平・前後左右等の将軍、左右銀青光祿大夫,帥都督、一万戸以上の州の刺史


七命

冠軍・輔國等の将軍、太中・中散等の大夫、都督、一万戸以上の州の刺史、一万五千戸以上の郡の太守


正六命

鎮遠・建忠等の将軍、諫議・誠議等大夫、別將、五千戸以下の州の刺史、一万戸以上の郡の太守、大呼藥


六命

中堅・寧朔等の将軍、左右中郎將、五千戸以上の郡の太守、小呼藥


正五命

寧遠・揚烈・伏波等の将軍、左右員外常侍、統軍、千戸以上の郡の太守、長安・萬年県令


五命

軽車等の将軍、奉車・奉騎等の都尉、五千戸未満の郡の太守、七千戸以上の県の県令、三万戸以上の州の呼藥


正四命

宣威・明威等の将軍、武賁・冗從等の給事、四千戸以上の県の県令、二万戸以上の州の呼藥


四命

襄威・厲威等の将軍、給事中、奉朝請、軍主、二千戸以上の県の県令、一万戸以上の州の呼藥


正三命

威烈・討寇等の将軍、左右員外侍郎、幢主、五百戸以上の県の縣令,一万戸以上の州の呼藥


三命

蕩寇・蕩難等の将軍、武騎常侍・侍郎、五百戸未満の県の県令、戍主、五千戸以下の州の呼藥


正二命

殄寇・殄難等の将軍


二命

掃寇・掃難等の将軍、戍副


正一命

曠野・橫野等の将軍


一命

武威・武牙等の将軍、淮海・山林の二都尉


ちなみに、「呼藥こやく」という官名はここでしか現れず、職掌は不明。

 『周書』にはより詳しく、「魏の孝莊帝は出でて河內に居して以て之を避く。榮は賀拔岳を遣りて顥を討ち、仍りて孝莊帝を迎えしむ。太祖は岳と舊あり、乃ち別將を以て岳に從う」と宇文泰と賀拔岳が旧知であったためにその別将に任じられた旨が述べられている。


2、北海王の元顥は洛陽遷都をおこなった孝文帝(元宏げん・こう)の甥にあたる。爾朱氏の支配下の北魏で色々とやらかして528年に南朝のりょうに亡命し、蕭衍しょう・えん陳慶之ちん・けいしに七千の軍勢を与えて元顥を擁しての北伐をおこなった。陳慶之は破竹の勢で洛陽をも占領したが、元顥の無能などもあって爾朱栄を中心とした大軍の逆撃により敗北、陳慶之は梁に逃れ、元顥は逃げる途中で臨潁りんえい県卒けんそつ江豊こう・ほうという者に斬られた。

 孝文帝の兄弟とその子で帝位に即いた人物をまとめると以下のとおり。


⑥孝文帝 元宏げん・こう─⑦宣武帝 元恪げん・かく─⑧孝明帝 元詡げん・く

 咸陽王 元禧げん・き

 趙郡王 元幹げん・かん

 広陵王 元羽げん・う─節閔帝(前廃帝)元恭げん・きょう

 高陽王 元雍げん・よう

 北海王 元詳げん・しょう─北海王 元顥げん・こう

 彭城王 元勰げん・きょう─⑨孝荘帝 元子攸げん・しゆう


3、孝荘帝、姓名は元子攸げん・しゆう、528年に爾朱氏を滅ぼした高歓によって擁立された皇帝。洛陽遷都をおこなった孝文帝の甥にあたり北魏宗室としては傍流となる。上の系図を参照。


4、万俟醜奴の万俟姓は「ばんし」ではなく「ぼくき」と読む。誤字ではない。


5、行原州事とは、刺史より格下の官にあるものが刺史の任をおこなう場合に行●州事として任じられる。原州はもともと安定郡に属していた高平こうへいに設置された新しい州である。安定の西、天水郡てんすいぐんの北にあたる。

▼原州高平郡高平縣

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十三


 この時、関中と隴西ろうせいは叛乱によって乱れ、宇文泰は人々を恩信によって宥めた。人々は喜び、「もっと早く宇文使君うぶんしくんに出会っていれば、我らが叛乱に従うことはなかった」と言った。

 宇文泰がかつて数騎を従えて野を進んでいた時、忽然と簫鼓しょうこの楽が聞こえてきた。従う者たちに訊いても誰もその音を聞いておらず、不思議に思った。


[原文]

時關隴寇亂、帝撫以恩信、百姓皆喜曰、「早遇宇文使君、吾等豈從逆亂」。

時に關隴は寇亂し、帝は撫するに恩信を以てし、百姓は皆な喜びて曰わく、「早く宇文使君*1に遇わば吾等は豈に逆亂に從わんや」と。


帝嘗從數騎於野、忽聞簫鼓之音。

帝は嘗て數騎を野に從うるに忽として簫鼓*2の音を聞く。


以問從者、皆莫之聞、意獨異之。

以て從者に問うも皆な之を聞くなく、意に獨り之を異とす。


[メモ]

1、使君は州刺史への敬称と思えばよい。


2、簫は木竹製のフルート様、あるいは、バグパイプ様の笛を言う。鼓は獣皮を張った打楽器、太鼓を想像するとよい。



十四


 普泰二年(532)、賀拔岳が従っていた尒朱天光じしゅ・てんこうは山東の高歓こうかんを攻めようとし、その弟の尒朱顯壽じしゅ・けんじゅに長安の留守を任せ、秦州刺史の侯莫陳悅こうばくちん・えつに長安に向かうよう命じた。

 賀拔岳は尒朱天光が必ず敗れると知り、侯莫陳悅を隴西に留めてともに尒朱顯壽から長安を奪おうと考えたが、計略を思いつかなかった。


[原文]

普泰二年、尒朱天光東拒齊神武、留弟顯壽鎮長安、召秦州刺史侯莫陳悅東下。

普泰*1二年、尒朱天光は東のかた齊神武*2を拒み、弟の顯壽を留めて長安に鎮ぜしめ、秦州刺史*3たる侯莫陳悅を召して東のかた下らしむ。


岳知天光必敗、欲留悅共圖顯壽、計無所出。

岳は天光の必敗を知り、悅を留めて共に顯壽を圖らんと欲するも計の出づるところなし。


[メモ]

1、普泰は爾朱氏が擁立した節閔帝元恭の年号、531年2月~532年4月。


2、齊神武は東魏を建国して北斉の基礎を固めた高歓を言う。北斉では最終的に高歓の廟号を高祖、諡号を神武皇帝としたため、ここでは諡号で呼ばれている。


3、秦州は天水郡てんすいぐん上邽じょうけいを州治とし、関中から涼州方面に向かう道上にある。ちなみに上邽の邽は北魏太武帝の諱であるけいと同音であったらしく、『魏書』にはそれを避けて上邽を改めて上封じょうふうとしている例が散見される。

▼秦州天水郡上邽縣(地図上の表記は上封)

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十五


 宇文泰は侯莫陳悅の取り込みに苦慮する賀拔岳に言った。

「まだ尒朱天光は長安にあり、侯莫陳悅には尒朱氏に背くつもりはございません。もし、この計画を告げればおそらくは驚倒しましょう。しかし、侯莫陳悅は主将であっても部下を統制できておらず、先にその軍勢の主な者たちにこの計略を説けば、必ずや隴西に留まることを望みましょう。そうなれば長安に向かったところで尒朱天光との約束に間に合わず、留まっても諸将の望みを叶えられないことを恐れて身動きできますまい。もしもこの機に乗じて侯莫陳悅に長安の奪取を持ちかければ、必ずや大事は果たせましょう」

 この計略を聞いて賀拔岳は大喜びし、宇文泰を遣わして侯莫陳悅の軍中に計略を説かせた。その計略のとおり、侯莫陳悅はついに賀拔岳と長安を襲うことを決め、宇文泰は軽騎兵を率いて前鋒となり、長安を捨てて東に逃れた尒朱顯壽を華陰で捕らえた。


[原文]

帝謂岳曰、「今天光尚近、悅未必貳心。若以此事告之、恐其驚懼。然悅雖為主將、不能制物、若先說其眾、必人有留心。進失尒朱之期、退恐人情變動、若乘此說悅、事無不遂」。

帝は岳に謂いて曰わく、「今、天光は尚お近く、悅は未だ必ずしも貳心*1あらず。若し此の事を以て之に告ぐれば恐らくは其れ驚懼せん。然るに悅は主將たりと雖も物を制するあたわず、若し先に其の眾に說かば、必ず人に留まる心あらん*2。進めば尒朱の期を失い、退かば人情の變動を恐る*3。若し此れに乘じて悅に說かば、事の遂げざるなし」と。


岳大喜、即令帝入悅軍說之。

岳は大いに喜び、即ち帝をして悅の軍に入りて之を說かしむ。


悅遂與岳襲長安、帝輕騎為前鋒、追至華陰、禽顯壽。

悅は遂に岳と長安を襲い、帝は輕騎にて前鋒と為り、追いて華陰*4に至り、顯壽を禽う。


[メモ]

1、貳心は二心ふたごころ、ここでは爾朱氏を裏切る心を指す。


2、留心は「心に留める」とも読めるがむしろここでは侯莫陳悦の将士を唆して動揺させることを企てていることから、爾朱氏の討伐を説くことにより将士に長安に向かわず上邽に留まる気持ちを起こさせることが肝要であるため、「留まる心」と読む方が妥当であろう。


3、「進めば尒朱の期を失い、退かば人情の變動を恐る」は、長安に向かおうとすれば将士の反発によって軍期に遅れ、上邽に留まろうとすれば進退に意見紛々として統制できなくなることを懸念したものと解釈した。


4、華陰は華山の北の意、潼関の西にある華山郡華陰県あたりを指す。ちなみに河の場合は南を陰とし、北を陽とする。

▼華州華山郡華陰県

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十六


 賀拔岳が関西かんせい大行臺だいこうだいとなると、宇文泰はその大行臺の左丞さじょうとなってその軍府の司馬も兼ね、賀拔岳は事の大小を問わず、すべて宇文泰に裁決を委ねた。


[原文]

及岳為關西大行臺、以帝為左丞、領岳府司馬、事無巨細、皆委決焉。

岳の關西大行臺*1となるに及び、帝を以て左丞*2となして岳の府の司馬*3を領ぜしめ、事の巨細なく皆な委ねてこれを決す。


[メモ]

1、關西大行臺は関中に置かれた行台府の長。行台は行台こうだい尚書省しょうしょしょうの略称とされ、本来は国都に置かれる尚書省の出張機関にあたる。北魏においてはおおむね叛乱や異民族の侵攻があった際に中央から派遣された高官が複数の州を束ねて指揮を執る必要性から設置される事例が多い。この場合、賀拔岳が関中から隴西の諸州を統率する権限の根拠として叙任されている。


2、関西大行台の尚書左丞の意、左丞は尚書の副長官にあたり、北魏の官品では上から八番目の第従四品の上位に相当する。ちなみに右丞は従四品の下位にあたる。

『魏書』官氏志より尚書の各官職の官品をまとめると以下のようになる。


第二品 尚書令

従第二品 尚書僕射(尚書左僕射と尚書右僕射が置かれ、左僕射が上位となる)

第三品 吏部尚書、列曹尚書(尚書各部の長官)

第四品上階 尚書吏部郎中(吏部省の次官)

従第四品上階 尚書左丞

従第四品 尚書右丞

第六品 尚書郎中(吏部省を除く尚書各部の次官)

従第八品上階 尚書都令史(書記官)


上階は品内の官職が上階とそれ以外に分かれているものに付している。上階は同じ官品であってもそれ以外の官職より上位にあたる。


3、司馬は軍府の次官、長官にあたるのが長史。この時、賀拔岳の軍号は従一品に相当する驃騎大将軍であったと見られるため軍府の司馬は「従第一品将軍開府司馬」となり官品は四品に相当する。なお、『周書』によるとこの時に散騎常侍も加えられている。

『魏書』官氏志より從第一品将軍府の各官職の官品をまとめると以下のようになる。


第四品上階 長史

第四品 司馬

従第四品 諮議參軍事

第六品上階 錄事參軍

第六品 功曹

従第六品 主簿、列曹參軍事

第七品 列曹行參軍

従第八品 長兼行參軍

第九品 參軍督護


それぞれの官職は通常「驃騎大将軍府長史」のように軍府名を前に付して呼ばれる。



十七


 高歓はすでに尒朱氏を滅ぼし、遂に朝政を我が物とした。

 宇文泰は高歓の本拠地で情勢を窺いたいと願い出て并州へいしゅうに到着した。高歓が賀拔岳の軍事行動の状況を問うと、宇文泰の応対は雄弁なものであった。

 高歓は宇文泰が非常の人であると感じ、「この若僧の眼光は常人ではない」と周囲の者に語り、宇文泰を拘束しようと考えた。

 宇文泰は本心を偽って高歓への忠誠と賀拔岳が従うよう説き伏せると高歓の近臣たちに申し出て、賀拔岳に使命を終えたことを報告したいと強く求めて許され、追跡されにくいよう一行をいくつかに分けて関中を目指した。

 宇文泰が并州を発った翌日、高歓はそのことを後悔し、自らその後を追って宿場を経ること千里、宇文泰が関中に入るのを阻もうとしたがついに及ばず引き返した。

 宇文泰は関中に帰って賀拔岳に次のように告げた。

「高歡がどうして人の臣下で終わりましょうか。帝位に即く陰謀を行わないのはただ公の兄弟を憚っているに過ぎません。侯莫陳悅はそもそも凡人に過ぎず、機会を得て重任を受けてはいるものの憂国の心などなく、決して高歓が憚るような偉材ではありません。侯莫陳悅の裏切りに備えて軍勢を奪うことは何ら難しくございません。今や費也頭ひやとうの騎兵は一万を下らず、夏州刺史の解拔彌俄突かいばつ・びがとつは戦勝を重ねた三千餘の軍勢を擁し、靈州刺史の曹泥そう・でいとともに関中から遠いと侮って常に裏切る機会を窺っております。河西かせいの流人である紇豆陵伊利こつとうりょう・いりたちは多くの遊牧民を支配しながらいまだに公への臣従を誓っておりません。今、もしも軍勢を隴山の近くに移し、その要害を占拠して彼らに我が武威を示し、その一方で恩德によって投降を許せば、すぐさまその軍勢を我らの兵力に組み込み、兵威を輝かせられましょう。西方の氐族ていぞく羌族きょうぞくを取り込み、北漠の遊牧民を懐かせ、長安を拠点として皇室を補佐すれば、それはせい桓公かんこうしん文公ぶんこうの行いに比肩するものとなります」

 賀拔岳はその提言を大いに悅び、ふたたび宇文泰を遣わして洛陽にある孝武帝の許しを得ようと、密かにこの献策を奏上した。孝武帝はその意見を納れ、宇文泰に武衛将軍の号を加え、関中の賀拔岳に復命するよう命じた。

 賀拔岳はついに軍勢を率いて西の平涼に拠点を移した。


[原文]

齊神武既除尒朱氏、遂專朝政。

齊神武は既に尒朱氏を除き、遂に朝政を專らにす。


帝請往觀之、至并州。

帝は往きて之を觀んと請い、并州*1に至る。


<齊神武問岳軍事,太祖口對雄辯。>

<齊神武は岳の軍事を問うに、太祖の口對は雄辯たり。>


神武以帝非常人、曰「此小兒眼目異」、將留之。

神武は帝の非常の人なるを以て曰わく、「此の小兒の眼目は異なり」と、將に之を留めんとす。


帝詭陳忠款、具託左右、苦求復命、倍道而行。

帝は詭きて忠款を陳べ、具に左右に託し、苦めて復命せんことを求め、倍道*2して行く。


行一日而神武乃悔、發上驛千里、追帝至關、不及而反。

行くこと一日にして神武は乃ち悔い、發して驛に上ること千里、帝を追いて關に至るも及ばずして反れり。


帝還、謂岳曰「高歡豈人臣邪、逆謀未發者、憚公兄弟耳。<然凡欲立大功,匡社稷,未有不因地勢,總英雄,而能克成者也。>侯莫陳悅本實庸材、<遭逢際會、遂叨任委、既無憂國之心、>亦不為歡忌、但為之備、圖之不難。

帝は還りて岳に謂いて曰わく「高歡は豈に人臣たらんや、逆謀の未だ發せざるは公の兄弟*3を憚るのみ。<然れど凡そ大功を立て社稷を匡さんと欲し、未だ地勢に因りて英雄を總べず、而して能く克成する者はあらざるなり。>侯莫陳悅は本と實に庸材、<遭逢際會し、遂に任委を叨くるも既に憂國の心なく、>亦た歡の忌むところとならず、但だ之が為に備えて之を圖るは難からず。


今費也頭控弦之騎、不下一萬、夏州刺史解拔彌俄突、勝兵三千餘人、及靈州刺史曹泥、並恃僻遠、常懷異望。

今、費也頭*4控弦の騎は一萬を下らず、夏州*5刺史たる解拔彌俄突*6の勝兵は三千餘人、靈州*7刺史たる曹泥に及びては並びに僻遠を恃みて常に異望を懷く。


河西流人紇豆陵伊利等、戶口富實、未奉朝風。

河西*8の流人の紇豆陵伊利*9等は戶口富實なるも未だ朝風を奉ぜず。


今若移軍近隴、扼其要害、示之以威、懷之以德、即可收其士馬、以資吾軍。

今、若し軍を移して隴に近づけ、其の要害を扼して之に示すに威を以てし、之を懷くに德を以てせば即ち其の士馬を收め、以て吾が軍を資けしむべし。


西輯氐羌、北撫沙塞、還軍長安、匡輔魏室、此桓文之舉也」。

西のかた氐・羌を輯め、北のかた沙塞を撫で、軍を長安に還して魏室を匡輔せば、此れ桓文の舉*10なり」と。


岳大悅。

岳は大いに悅ぶ。


復遣帝詣闕請事、密陳其狀。

復た帝を遣りて闕に詣りて事を請わしめ、密かに其の狀を陳べしむ。


魏帝納之、加帝武衞將軍、還令報岳。

魏帝*11は之を納れ、帝に武衞將軍を加え、還して岳に報ぜしむ。


岳遂引軍西次平涼。

岳は遂に軍を引きて西のかた平涼*12に次す。


[メモ]

1、并州は山西省の太原を中心とする一帯、高歓はここに六鎮兵を住まわせて軍事拠点としていた。


2、倍道は道を増やすの意、通常は大軍の進軍にあたって複数路から進むことを意味するが、この場合は少人数であったため追跡をまくために一行の道を分けたものと考えられる。「倍道兼行」と熟することが多いがこの場合の兼行は昼夜兼行の意。


3、公の兄弟とは賀拔岳の兄弟を指す。賀拔岳には賀拔允がばつ・いん賀拔勝がばつ・しょうという二人の兄がいた。


4、費也頭は匈奴の支族、史料によると解拔彌俄突、紇豆陵伊利、万俟受洛干ぼくき・じゅらくかんは費也頭であるとされる。


5、夏州は黄河に囲まれる河套地方オルドス北部の統万城とうまんじょうを治所とする。

▼統万城

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6、解拔彌俄突は斛拔彌俄突と書く例もあるがいずれとも定めがたく、原書に従う。費也頭の酋長であるとされる。彌俄突の名は高車族にも散見されるため、漢化が薄い匈奴の一部族であったと推測される。


7、靈州は唐の霊武郡れいぶぐん、北魏では永らく薄骨律鎮はくこつりつちんが置かれていた地にあたる。

▼薄骨律鎮

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8、河西はいわゆる河西回廊ではなく黄河に囲まれる河套地方の意。


9、紇豆陵伊利は費也頭の紇豆陵部の人、単なる流民ではなくもともと部族を率いていたところに六鎮の乱で発生した流民を受け入れて巨大な勢力になったものと見られる。


10、桓文の舉の「桓文」は「斉の桓公、晋の文公」を併称したものであり、春秋時代に尊王攘夷をおこなったとされることから「皇室復興を目指す義挙」をそのように称する。


11、魏帝は北魏の孝武帝(元脩げん・しゅう)を指す。


12、平涼は長安の北、隴西から関中に至る涇水けいすい沿岸の要衝。行政としては涇州けいしゅう平涼郡へいりょうぐん鶉陰縣じゅんいんけんが郡の治所。ちなみに涇州の治所は安定郡あんていぐん臨涇りんけいにある。

▼平涼

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十八


 賀拔岳は敵対勢力と隣接する夏州の刺史に相応しい人物に鎮守を命じたいと考えていたが、衆人はみな宇文泰が適任であると推挙した。

 賀拔岳は「宇文左丞は我が左右の手である。どうして夏州に赴任させられようか」と言った。

 それでも人選に沉吟すること数日、ついに衆人の意見に従い、朝廷に上奏して宇文泰を夏州刺史とした。宇文泰が夏州に赴任すると、紇豆陵伊利は風を望んで投降したが、それでも曹泥はなお高歓に使者を通じて従わなかった。


[原文]

岳以夏州隣接寇賊、欲求良刺史以鎮之、眾皆舉帝。

岳の夏州の寇賊に隣接せるを以て良刺史を求めて以て之に鎮ぜしめんと欲するに、眾は皆な帝を舉ぐ。


岳曰「宇文左丞、吾左右手、何可廢也」。

岳は曰わく「宇文左丞は吾れの左右の手なり。何ぞ廢すべけんや」と。


沉吟累日、乃從眾議、表帝為夏州刺史。

沉吟すること累日、乃ち眾議に從い、帝を表して夏州刺史となす。


帝至州、伊利望風款附、而曹泥猶通使於齊神武。

帝の州に至るに、伊利は風を望んで款附するも、而して曹泥は猶お使を齊神武に通ず。



十九


 永熙えいき三年(534)の正月、賀拔岳は曹泥を討つべく、都督ととく趙貴ちょう・きを夏州に遣わして宇文泰と相談させた。

 宇文泰は「曹泥は孤城に拠って遠く離れており、いまだ憂うるに足りません。侯莫陳悅は貪欲で信を置けず、この者を先に図るべきです」と言った。

 賀拔岳は宇文泰の意見を納れず、遂に侯莫陳悅と兵を合わせて曹泥を討つこととした。二月、賀拔岳は河曲かきょくで侯莫陳悅と合流し、果たして暗殺された。その軍勢は散り散りに平涼に還り、ただ大都督の趙貴だけが軍勢を率い、賀拔岳の屍を收めて帰還した。


[原文]

魏永熙三年正月、賀拔岳欲討曹泥、遣都督趙貴至夏州與帝謀。

魏の永熙*1三年正月、賀拔岳は曹泥を討たんと欲し、都督たる趙貴を遣りて夏州に至りて帝と謀らしむ。


帝曰「曹泥孤城阻遠、未足為憂。侯莫陳悅貪而無信、是宜先圖也」。

帝は曰わく「曹泥は孤城にして阻遠、未だ憂と為すに足らず。侯莫陳悅は貪にして信なく、是れ宜しく先に圖るべし」と。


岳不聽、遂與悅俱討泥。

岳は聽かず、遂に悅と俱に泥を討つ。


二月、至河曲、果為悅所害。

二月、河曲*2に至り、果たして悅の害するところとなる。


眾散還平涼、唯大都督趙貴率部曲收岳屍還營。

眾は散じて平涼に還り、唯だ大都督たる趙貴は部曲を率い、岳の屍を收めて營に還る。


[メモ]

1、永熙は北魏孝武帝の年号、532~534年。


2、河曲は黄河の屈曲部の意。平涼郡にいた賀拔岳と天水郡にいた侯莫陳悦は北流する黄河の西岸にある霊州(薄骨律鎮)を攻めるにあたって原州から高平川水を黄河まで下ったものと推測される。

▼高平川水

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二十


 賀拔岳に従っていた軍勢はいまだ誰を擁立すべきかを知らず、諸将は最年長にあたる都督の寇洛こう・らくに従うこととした。寇洛はもともと雄略を欠いたため、その命令は遵守されず、ついに余人をもって代えるよう自らみなに請うた。

 この時、趙貴は「宇文左丞は英姿雄略、もし賀拔公の遭難を報せれば必ずここに来て危難に立ち向かうはず。それゆえ、この人を我らの上に奉じてこそ大事は成る」と諸将に宇文泰を推薦した。

 諸将はみなその意見に賛同し、すぐさま赫連達かくれん・たつを夏州に馳せ向かわせ、宇文泰にこの間の消息を報せた。

 夏州の士大夫や官吏はその報せを聞くとみな泣き、留まって情勢の変化を観望するよう願った。

 宇文泰は「侯莫陳悅はすでに元帥を害した以上、その勢に乗じて直ちに平涼に拠る軍勢を取り込まなくてはならぬ。それにも関わらず進軍を躊躇して水洛に軍勢を駐屯させている。このことより侯莫陳悅の無能は火を見るより明らかである。かつ、得がたくして失いやすきは時、一日も人を待たないのが機である。今、すみやかに赴かねば人々の心は離れて戻らぬ虞がある」とその願いを振りきった。

 宇文泰に従う都督の彌姐元進びしゃ・げんしんは侯莫陳悅に内応しようと図り、密かに宇文泰の暗殺を企てたが、そのことが露見して斬られた。


[原文]

三軍未知所屬、諸將以都督寇洛年最長、推總兵事。

三軍は未だ屬するところを知らず、諸將は都督たる寇洛の年の最長なるを以て、推して兵事を總べしむ。


洛素無雄略、威令不行、乃請避位。

洛は素と雄略なく、威令は行われず、乃ち位を避けんことを請う。


於是趙貴言於眾、稱帝英姿雄略、若告喪、必來赴難、因而奉之、大事濟矣。

是において趙貴は眾に言えらく、「帝は英姿雄略にして若し喪を告ぐれば必ず來りて難に赴き、因りて之を奉ずれば大事は濟らん」と稱せり。


諸將皆稱善、乃令赫連達馳至夏州告帝。

諸將は皆な善しと稱し、乃ち赫連達をして馳せて夏州に至りて帝に告げしむ。


士吏咸泣、請留以觀其變。

士吏は咸な泣き、留まりて以て其の變を觀んことを請う。


帝曰「<悅既害元帥、自應乘勢直據平涼、而反趑趄、屯兵水洛。吾知其無能為也。且>難得而易失者時也、不俟終日者機也。今不早赴、將恐眾心自離」。

帝は曰わく、「<悅は既に元帥を害し、自ら應に勢に乘じて直ちに平涼に據るべく、而して反って趑趄し、兵を水洛に屯ず。吾れは其の能く為すなきを知るなり。且つ、>得難くして失い易きは時なり。終日を俟たざるは機なり。今、早かに赴かずんば將に眾心の自ら離れんことを恐る」と。


都督彌姐元進規應悅、密圖帝。事發、斬之。

都督たる彌姐元進*1は悅に應ぜんと規り、密かに帝を圖るも事は發し、之を斬る。


[メモ]

1、彌姐元進は羌族の人と見られる。『晋書』乞伏熾磐きっぷく・しはん載記には南羌に彌姐康薄びしゃ・こうはくという人がいたことが記録されている。



二十一


 宇文泰は直属の将兵を率い、軽騎を駆って諸将の待つ平涼に赴いた。

 この時、高歓は賀拔岳の軍勢を取り込むべく、長史ちょうし侯景こう・けいを遣していた。宇文泰は安定あんていに至り、駅舍で侯景と出遇った。

 口にしていた食事を吐いて乗馬すると、「賀拔公は死すといえど宇文泰はなお健在だ。けいは何をしようと言うのか」と詰った。

 侯景は色を失い、「我は矢ようなもの、人の射るところに隨うものだ。どうして自らの判断でここに来ようか」と言い、引き返していった。

 宇文泰は平涼に到着し、賀拔岳の屍に向かって慟哭どうこくした。将士は悲しみかつ喜び、「宇文公が来られた、もはや憂いはない」と言った。


[原文]

帝乃率帳下、輕騎馳赴平涼。

帝は乃ち帳下を率い、輕騎にて馳せて平涼に赴く。


時齊神武遣長史侯景招引岳眾、帝至安定、遇之於傳舍。

時に齊神武は長史*1たる侯景*2を遣りて岳の眾を招引せしめ、帝の安定に至るや之と傳舍に遇う。


吐哺上馬、謂曰「賀拔公雖死、宇文泰尚存、卿何為也」。

哺*3を吐きて馬に上り、謂いて曰わく「賀拔公は死せりと雖も宇文泰は尚お存り、卿は何をか為さんや」と。


景失色曰「我猶箭耳、隨人所射者也。<安能自裁。>」。景於此還。

景は色を失いて曰わく「我は猶お箭のごときのみ、人の射るところに隨うものなり。<安んぞ能く自裁せんや。>」と。景は此に還れり。


帝至平涼、哭岳甚慟。

帝は平涼に至り、岳に哭すること甚だ慟なり。


將士悲且喜曰「宇文公至、無所憂矣」。

將士は悲み且つ喜んで曰わく「宇文公は至れり、憂うるところなし」と。


[メモ]

1、長史は軍府の実務トップにあたり左右が置かれた。司馬はその下でこれも左右が置かれた。


2、侯景、後の宇宙大将軍である。


3、は口の中に入れた食べ物の意。



二十二


 高歓はふたたび侯景と常侍じょうじ張華原ちょう・かげん義寧太守ぎねいたいしゅ王基おう・きを遣わして宇文泰を慰労させたが、宇文泰は高歓の命を受けなかった。

 王基と宇文泰は舊交があったため留めて用いようとし、さらに侯景をも拘留しようとしたが二人とも屈さず、ついに帰さざるを得なかった。 

 この時、宇文泰の許にいた斛斯椿こくし・ちんは、「侯景は人傑です。どうして帰らせるのですか」とこれを除くよう勧めた。宇文泰も侯景を放したことを悔い、駅馬でその後を追ったがついに追いつけなかった。

 王基もまた逃げ帰ると宇文泰は雄傑であると報告し、その足元が固まる前に平らげるようを高歓に勧めた。王基の勧めに対して高歓は「卿は賀拔岳、侯莫陳悦の末路を見ていないのか。吾は計略により拱手して宇文泰を屈せしめよう」とうそぶいた。

 沙苑さえんでの敗戦に及び、高歓ははじめてこのことを後悔した。


[原文]

齊神武又使景與常侍張華原、義寧太守王基勞帝、帝不受命。

齊神武は又た景と常侍*1の張華原、義寧*2太守たる王基をして帝を勞わしめるも、帝は命を受けず。


與基有舊、將留之、并欲留景、並不屈、乃遣之。

基と舊ありて將に之を留め、并せて景を留めんと欲するも並びに屈さず。乃ち之を遣る。 


時斛斯椿在帝所、曰「景、人傑也。何故放之」。

時に斛斯椿は帝が所にありて曰わく「景は人傑なり。何故に之を放たんや」と。


帝亦悔、驛追之不及。

帝も亦た悔い、驛にて之を追うも及ばず。


基亦逃歸、言帝雄傑、請及其未定滅之。

基も亦た逃歸して帝の雄傑を言い、其の未だ定まらざるに及びて之を滅さんことを請えり。


神武曰「卿不見賀拔、侯莫陳乎。吾當以計拱手取之」。

神武は曰わく「卿は賀拔、侯莫陳を見ざるか。吾れは當に計を以て拱手して之を取らん」と。


及沙苑之敗、神武乃始追悔。

沙苑の敗に及び、神武は乃ち始めて追いて悔ゆ。


[メモ]

1、常侍は中常侍ちゅうじょうじ散騎常侍さんきじょうじ通直散騎常侍つうちょくさんきじょうじ員外散騎常侍いんがいさんきじょうじとあるがいずれにあたるかは不詳。


2、『北齊地理志』によると義寧郡は晋州しんしゅうに含まれ、清代の沁源縣しんげんけんの南にあったとする。

▼沁源縣

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二十三


 この時、孝武帝はまさに高歓を除こうと計画していたが、賀拔岳の暗殺を聞き、武衛将軍の元毗げん・びを遣し、宣旨して賀拔岳の軍勢を勞い、軍勢を洛陽に帰還させるよう命じた。

 元毗が平涼に到着すると、ちょうど諸将が宇文泰を擁立していた。侯莫陳悅も洛陽に帰任するよう敕命を受けたがすでに高歓に与していたため、その勅命に応じようとはしなかった。

 宇文泰は「侯莫陳悅は忠良の臣である賀拔公を罪なくして害し、さらに勅命にも応じない。これは国の大賊である」と言った。

 すぐさま諸軍に戒厳を命じると、侯莫陳悅を討とうとした。

 元毗が洛陽に帰還するに際し、宇文泰は孝武帝に上表して高歓が河東かとうに進出しており、かつ、侯莫陳悅が水洛すいらくにいて首尾に敵を受けていることを理由に洛陽への帰還を命じる勅命をしばらく猶予されるよう願った。

 宇文泰は侯莫陳悅を除こうと考えていたが、いまだ孝武帝の意向が明らかでなく、かつ、軍勢がすべて集まっていなかったため、時を稼ぐためにそのように弁解したのである。

 その心を明らかにすべく、元毗や諸将と生贄を殺してともに魏帝を輔佐することを誓った。


[原文]

于時魏帝將圖神武、聞岳被害、遣武衞將軍元毗宣旨勞岳軍、追還洛陽。

時に魏帝は將に神武を圖らんとし、岳の害を被むるを聞き、武衞將軍たる元毗を遣りて宣旨して岳の軍を勞い、追いて洛陽に還らしむ。


毗到平涼、會諸將已推帝。

毗は平涼に到り、會々諸將は已に帝を推す。


侯莫陳悅亦被敕追還、悅既附神武、不肯應召。

侯莫陳悅も亦た敕を被りて追還されるも悅は既に神武に附き、召に應ずるを肯んぜず。


帝曰「悅枉害忠良、復不應詔命、此國之大賊」。

帝は曰わく「悅は忠良を枉害し、復た詔命に應ぜず、此れ國の大賊なり」と。


乃令諸軍戒嚴、將討悅。

乃ち諸軍をして戒嚴せしめ、將に悅を討たんとす。


及毗還、帝表於魏帝、辭以高歡至河東、侯莫陳悅在水洛、首尾受敵、乞少停緩。

毗の還るに及び、帝は魏帝に表して辭するに高歡の河東*1に至り、侯莫陳悅の水洛*2にありて首尾に敵を受けるを以てし、少しく停緩を乞う。


帝志在討悅、而未測朝旨、且眾未集、假為此辭。

帝の志は悅を討つにあり、而して未だ朝旨を測らず、且つ眾は未だ集まらず、假るに此の辭を為せり。


因與元毗及諸將、刑牲盟誓、同奬王室。

因りて元毗、及び、諸將と牲を刑して盟誓し、同に王室を奬めんとす。


[メモ]

1、河東は郡名、関中から蒲坂津を東に渡ったところにあり、山西の南部に接する。行政的には泰州河東郡、蒲坂縣を治所とする。

▼泰州河東郡蒲坂縣

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2、水洛は秦州の天水郡てんすいぐん顯新縣けんしんに近い水洛口すいらくこうから瓦口がこうあたりと推測される。

▼水洛口

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二十四


 賀拔岳が河曲に到着した頃、軍吏に単独行動をとっていたものがおり、唐突に一人の老人と出会った。その老人は「賀拔は此の軍勢を擁したところで何事もなしえずに終わる。宇文氏の一人が東北より現れた後、必ず盛大になろう」と言った。その言葉が終わるとその姿はかき消えていた。

 宇文泰が賀拔岳の軍勢を継承したのはその言葉のとおりであった。


[原文]

初、賀拔岳營河曲、軍吏獨行、忽見一翁。

初め、賀拔岳の河曲に營するに、軍吏の獨行するあり、忽として一翁を見ゆ。


謂曰「賀拔雖據此眾、終無所成。當有一宇文家從東北來、後必大盛」。

謂いて曰わく「賀拔は此の眾に據ると雖も終に成すところなし。一宇文家の東北より來たるありて後に必ず大盛なるべし」と。


言訖不見。至是方驗。

言の訖りて見えず。是に至りて方に驗あり。



二十五


 孝武帝は宇文泰に詔して大都督に任じ、その権限によって賀拔岳の軍勢を統率させた。宇文泰は侯莫陳悅に書状を送り、賀拔岳を殺した罪を責めるとともに、改めて朝廷に帰順するよう諭した。

 侯莫陳悅は詔書を偽作して秦州刺史の万俟普撥ぼくき・ふはつに与え、己に与するよう誘った。万俟普撥はその詔書を疑い、封じて宇文泰に送り、宇文泰は上表して侯莫陳悅の行いを報じた。

 孝武帝はそれを受けて宇文泰に関中と隴西を安んじる計略を下問した。

 宇文泰は侯莫陳悅を召し出して中央の官職を与えること、また、そも身を瓜州かしゅう涼州りょうしゅうの地に置くことを求め、これを行わなければついには疑心暗鬼に陥って身を亡ぼすと申し上げた。


[原文]

魏帝因詔帝為大都督、即統賀拔岳軍。

魏帝は帝に詔して大都督となすに因りて即ち賀拔岳の軍を統べしむ。


帝乃與悅書、責以殺賀拔岳罪、又喻令歸朝。

帝は乃ち悅に書を與え、責むるに賀拔岳を殺すの罪を以てし、又た喻して朝に歸さしめんとす。


悅乃詐為詔書與秦州刺史万俟普撥、令為己援。

悅は乃ち詐りて詔書を為して秦州刺史たる万俟普撥*1に與え、己の援けを為さしむ。


普撥疑之、封以呈帝、帝表奏之。

普撥は之を疑い、封じて以て帝に呈し、帝は表して之を奏す。


魏帝因問帝安秦隴計。

魏帝は因りて帝に秦隴を安んずるの計を問う。


帝請召悅、授以內官、及處以瓜涼一藩。不然、則終致猜虞。

帝は請うらく、悅を召して授くるに內官を以てし、及び、處くに瓜涼一藩*2を以てせん。然らずんは則ち終に猜虞を致さん、と。


[メモ]

1、秦州刺史たる万俟普撥とあることから、この時、魏帝は侯莫陳悦の秦州刺史の官位をはく奪して万俟普撥に与えていたものと見られる。ただし、万俟部は河套地方が本拠地と見られるため、おそらくは遥任ようにん(任地には赴任しない形式的な叙任)と考えられるが、万俟普撥が上邽に赴任しているのであれば侯莫陳悦が水洛にある理由を説明できる。ただし、次節において侯莫陳悦の左右が上邽に退くことを献策しており、その可能性は排除可能である。


2、瓜州かしゅうとは敦煌郡とんこうぐん、涼州とは武威郡ぶいぐんにあたる。つまり、西から瓜州→涼州→隴西の順に並んでいる。

▼瓜州敦煌郡敦煌縣

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▼涼州武威郡姑蔵縣

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二十六


<本節はすべて『周書』による。>

 かつて原州刺史の史帰し・きは賀拔岳に親任されていたが、河曲で賀拔岳が暗殺されると背いて侯莫陳悅に与した。侯莫陳悅は部下の王伯和おう・はくわ成次安せい・じあんに二千の軍勢を与えて遣わし、史帰を助けて原州に鎮守させた。

 宇文泰は都督の侯莫陳崇こうばくちん・すうと軽騎一千を遣わして原州を襲って史帰を捕らえさせ、侯莫陳崇は并せて成次安と王伯和たちの身柄も押さえて平涼に送った。

 宇文泰は上表して侯莫陳崇を行原州事とした。万俟普撥も部将の叱干保洛しっかん・ほらくと二千騎を遣わして宇文泰の軍勢に合流させた。


[原文]

初、原州刺史史歸為岳所親任、河曲之變、反為悅守。

初め、原州刺史たる史歸は岳の親任するところと為るも、河曲の變ありて反って悅の為に守る。


悅遣其黨王伯和、成次安將兵二千人助歸鎮原州。

悅は其の黨たる王伯和、成次安を遣りて兵二千人を將いて歸を助けて原州に鎮ぜしむ。


太祖遣都督侯莫陳崇率輕騎一千襲歸、擒之、并獲次安、伯和等,送於平涼。

太祖は都督たる侯莫陳崇を遣りて輕騎一千を率いて歸を襲いて之を擒えしめ、并せて次安、伯和等を獲て、平涼に送れり。


太祖表崇行原州事。万俟普撥又遣其將叱干保洛領二千騎來從軍。

太祖は表して崇を行原州事とす。万俟普撥も又た其の將たる叱干保洛を遣りて二千騎を領いて來りて從軍せしむ。



二十七


 三月、宇文泰は原州げんしゅうに軍を進め、そこにすべての軍勢が参集した。彼らに侯莫陳悅を討つ意思を宣言すると、士卒はみな憤って賛同した。

 四月、宇文泰は軍勢を隴山ろうざんに上げ、兄の子の宇文導うぶん・どうを都督に任じて原州に留め、その鎮守を命じた。宇文泰の軍令は厳しく、兵にはわずかにもそれを犯すは者なく、進軍路にある百姓は大いに悅んだ。

 軍が木峽関ぼくきょうかんを通過すると、平地に約60cmほども積もる大雪に見舞われた。

 宇文泰は侯莫陳悅の怯惰と猜疑心の強さを知っており、道を倍にしてその不意を突いた。侯莫陳悅は果たしてその近臣に裏切者があるかと疑い、近臣たちは身の不安に駆られて軍勢の士気は崩壊した。

 宇文泰の大軍がいよいよ迫っていると聞くと、侯莫陳悅は軍勢を退いて略陽に拠り、一萬餘の軍勢を水洛に留めて守備にあたらせた。

 宇文泰は水洛を包囲し、城は降伏した。

 宇文泰はすぐさま数百の輕騎を率いて略陽に向かい、ついに侯莫陳悅の軍勢と対峙した。侯莫陳悅の部將たちはみなさらに軍勢を退いて上邽を保つよう勧めた。

 この時、南秦州なんしんしゅうの刺史である李弼り・ひつもまた侯莫陳悅の軍中にあり、ひそかに宇文泰に遣使して內応をなすと申し出た。

 その夜、侯莫陳悅は上邽から出陣したが将兵には戦わずして降伏する者が続出し、宇文泰は軍勢を指揮してほしいままに攻撃し、大破した。侯莫陳悅はその子弟や麾下の數十騎と逃げ去った。

 宇文泰は「侯莫陳悅はそもそも曹泥と接触していた。逃げる先は霊州より他にない」と言った。

 宇文泰は原州都督として留守にあたる宇文導に命じて侯莫陳悅を追わせ、牽屯山けんとんさんでこれを斬首して首を洛陽に送った。

 宇文泰は上邽に入ると、侯莫陳悅が倉庫にため込んだ財物をすべて士卒の賞賜とし、自らは何も取らなかった。近臣の一人が密かに銀の甕を私したと知ると、宇文泰はその者を罰するとともに甕はばらばらにしてこれも士卒に与え、みな大いに悅んだ。


[原文]

三月、帝進軍至原州、眾軍悉集、諭以討悅意、士卒莫不懷憤。

三月、帝は軍を進めて原州に至り、眾軍は悉く集まる。諭するに悅を討つの意を以てし、士卒は懷憤せざるなし。


四月、引兵上隴、留兄子導為都督、鎮原州。

四月、兵を引きて隴に上り、兄子たる導を留めて都督と為して原州に鎮ぜしむ。


帝軍令嚴肅、秋毫無犯、百姓大悅。

帝の軍令は嚴肅にして秋毫犯すなく、百姓は大いに悅ぶ。


軍出木峽關、大雪平地二尺。

軍は木峽關*1を出づるも大いに雪ふること平地に二尺なり。


帝知悅怯而多猜、乃倍道兼行、出其不意。

帝は悅の怯にして猜多きを知り、乃ち倍道兼行して其の不意に出づ。


悅果疑其左右有異志、左右不自安、眾遂離貳。

悅は果たして其の左右に異志あるを疑い、左右は自ら安んぜず、眾は遂に離貳せり。


聞大軍且至、退保略陽、留一萬餘人據守水洛。

大軍の且に至らんとするを聞き、退きて略陽*2を保ち、一萬餘人を留めて據りて水洛を守らしむ。


帝至、圍之、城降。帝即輕騎數百趣略陽、以臨悅軍。

帝の至るや之を圍み、城は降れり。帝は即ち輕騎數百にて略陽に趣き、以て悅の軍に臨む。


其部將皆勸悅退保上邽。

其の部將は皆な悅に勸めて退きて上邽を保たしむ。


時南秦州刺史李弼亦在悅軍、間遣使請為內應。

時に南秦州*3刺史たる李弼は亦た悅の軍にあり、間に遣使して內應をなさんことを請う。


其夜、悅出軍、軍自驚潰、將卒或來降、帝縱兵奮擊、大破之。

其の夜、悅は軍を出すも軍は自ら驚潰して將卒の或いは來降し、帝は兵を縱にして奮擊し、大いに之を破る。


悅與其子弟及麾下數十騎遁走。

悅は其の子弟、及び、麾下の數十騎と遁走せり。


<太祖曰「悅本與曹泥應接、不過走向靈州」。>

<太祖は曰わく、「悅は本と曹泥と應接せり。走りて靈州に向かうに過ぎず」と。>


帝乃命原州都督導追悅、至牽屯山斬之、傳首洛陽。

帝は乃ち原州都督たる導に命じて悅を追わしめ、牽屯山*4に至りて之を斬り、首を洛陽に傳う。


帝至上邽、悅府庫財物山積、皆以賞士卒、毫釐無所取。

帝は上邽に至り、悅の府庫の財物の山積するを皆な以て士卒に賞し、毫釐も取るところなし。


左右竊以一銀甕歸、帝知而罪之、即剖賜將士、眾大悅。

左右の竊かに一銀甕を以て歸るに帝は知りて之を罪し、即ち剖ちて將士に賜い、眾は大いに悅ぶ。


[メモ]

1、木峽關ぼくきょうかんの所在は不詳、『新唐書』地理志の原州平涼郡條には「西南に木峽關あり。州境にはまた石門、驛藏、制勝、石峽、木崝等の關あり。幷木峽、六盤に七關を為す。又た南に瓦亭故關あり」とあって瓦亭がていとは別に原州から南に往来する関があったことが分かる。推測するに、高平から南に高平川水を遡上して瓦亭川水を下ると僵人峽きょうじんきょうを抜けて水洛に至ることからこの僵人峽が木峽關ではないかと思われる。

▼僵人峽

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2、略陽は秦州略陽郡、水洛の西、略陽川水沿いにある。

▼秦州略陽郡

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3、南秦州の州治は仇池きゅうちにあり、侯莫陳悦がそこまで支配していたとは考えにくい。李弼の官職は名目だけのものであろう。

▼南秦州仇池郡

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4、牽屯山は笄頭山けいとうさんが訛って汧屯山けんとんさんとなったと言う。平涼から涇水をさらに遡った先にある水源となる山である。

▼笄頭山

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二十八


<本節はすべて『周書』による。>

 この時、涼州刺史の李叔仁り・しゅくじんはその州民に捕らえられ、州内は混乱していた。また、宕昌羌とうしょうきょう梁仚定りょう・けんていという者が吐谷渾を引き込んで金城きんじょうを襲い、渭州と南秦州の氐族、羌族は連合して住地で叛乱を起こした。

 南岐州なんぎしゅうから瓜州、鄯州ぜんしゅうに至るまで州郡に拠って叛乱する者は数えきれないほどであった。

 宇文泰は李弼に原州を鎮守させ、夏州刺史の拔也惡蚝ばつや・あくしに南秦州を鎮守させ、渭州刺史の可朱渾元かしゅこん・げんを渭州に帰還させ、衛将軍えいしょうぐんの趙貴を行秦州事として秦州を鎮守させた。

 豳州ひんしゅう、涇州、東秦州、岐州の穀物を徴発して軍勢の糧食とした。


[原文]

時涼州刺史李叔仁為其民所執、舉州騷擾。

時に涼州刺史たる李叔仁は其の民の執うるところと為り、州を舉げて騷擾せり。


宕昌羌梁仚定引吐谷渾寇金城。渭州及南秦州氐、羌連結、所在蜂起。

宕昌羌*1の梁仚定は吐谷渾を引きて金城*2に寇し、渭州*3、及び、南秦州*4の氐羌は連結し、所在に蜂起す。


南岐至于瓜鄯,跨州據郡者、不可勝數。

南岐*5より瓜鄯*6に至るまで、州を跨ぎ郡に據る者は勝げ數うべからず。


太祖乃令李弼鎮原州、夏州刺史拔也惡蚝鎮南秦州、渭州刺史可朱渾元還鎮渭州、衞將軍趙貴行秦州事。

太祖は乃ち李弼をして原州に鎮ぜしめ、夏州刺史たる拔也惡蚝*7をして南秦州に鎮ぜしめ、渭州刺史たる可朱渾元をして還って渭州に鎮ぜしめ、衞將軍たる趙貴をして行秦州事たらしむ。


徵豳、涇、東秦、岐四州粟以給軍。

豳*8涇、東秦*9、岐*10の四州の粟を徵し、以て軍に給せり。


[メモ]

1、宕昌羌は宕昌郡界隈に散在した羌族の総称。宕昌郡は梁州武都郡の西、羌水を北に遡って分水嶺を越えると洮水とうすいの沿岸に出る。この洮水に沿って下ると隴西郡の首陽山の西麓を過ぎて金城郡に至る。また、洮水を遡ると吐谷渾に至るため、この地域では洮水を軸に吐谷渾が羌族と結んで侵入することが多かった。

▼宕昌城

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2、金城は黄河と洮水の合流地点に置かれた郡。渭水を遡上して水源となる首陽山しゅようさんの分水嶺を越え、同じく首陽山に発して北流する濫水と合流する洮水に沿って下ると至る。そこから黄河を北に渡ってさらに北上すると涼州に至る。

▼河州金城郡

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3、渭州は隴西郡襄武を治所とした。

▼渭州隴西郡襄武

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4、南秦州の治所は仇池郡きゅうちぐん


5、南岐は南岐州、固道、廣化、廣業の三郡よりなるとある。

▼南岐州廣業郡

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6、瓜鄯は瓜州と鄯州、瓜州は敦煌郡、『元和郡縣志』によると鄯州は北魏の孝昌二年(526)にそれまで設置されていた鄯善鎮を改めて西平郡に置かれた。西平郡は金城の北を流れる湟水おうすいを西北に遡ると至る。

▼鄯州西平郡

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7、拔也惡蚝は匈奴系の人と見られる。『魏書』蠕蠕伝に「其の西北に匈奴の餘種あり、國は尤も富強、部帥は拔也稽と曰う」とあり、拔也姓が存在したと知れる。


8、豳州は『隋書』地理志に「北地郡、後魏は豳州を置き、西魏は改めて寧州と為す。大業の初めに復た豳州と曰う」とあり、北地郡に置かれた。

▼豳州北地郡

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9、東秦州は『讀史方輿紀要』卷四に「又た東秦州あり。太和十五年、杏城鎮に置かれ,後に改めて北華州と曰い、中部等の郡を領せり。又た孝昌中に秦州の莫折念生の據るところと爲るを以て、因りて東秦州を隴東に置き、汧城に治す。時に上邽、仇池を謂いて二秦と爲し、汧城を并せて三秦と爲すなり」とあり、西魏の頃にはこの地に隴東郡が置かれたが北魏では涇州に隴東郡が置かれており、郡名は不詳。

▼汧縣

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10、岐州は平秦郡雍縣を治所とする。

▼岐州平秦郡雍縣

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二十九


 高歓は関中と隴西が平定されたと聞き、宇文泰に使者を遣り、深く協力関係を結ぼうと試みた。宇文泰はそれを拒み、高歓からの書状を封じて魏帝に上奏した。

 この時、高歓はすでに孝武帝と反目しており、それゆえに孝武帝は深く宇文泰に頼りとし、宇文泰に徐々に軍勢を洛陽に向かわせるよう命じた。宇文泰は大都督の梁禦りょう・ぎょに五千の步騎を与えて黄河と渭水いすいの合流地点に鎮守させ、対岸にあたる河東を窺う態勢をとらせた。

 宇文泰が侯莫陳悅を討とうとすると、侯莫陳悅は使者を遣わして高歓に救援を求め、高歓は都督の韓軌に一万の兵を率いて蒲坂に鎮守させ、雍州刺史の賈顯度か・けんどは韓軌の許に船団を送って、関中に入るよう求めた。

 宇文泰は梁禦を雍州に向かわせ、賈顯度に自らに与するように迫り、その思惑の通り梁禦は雍州に入って賈顯度を従わせた。

 孝武帝は宇文泰を侍中じちゅう驃騎大将軍ひょうきだいしょうぐん開府儀同三司かいふぎどうさんし関西大都督かんせいだいととく略陽縣公りゃくようけんこうに進めて麾下の任用はその意に委ねることとし、使持節しじせつはそのままとした。

 この時、寇洛を涇州刺史とし、李弼を秦州刺史とし、前略陽郡守の張献を南岐州刺史とした。盧待伯ろ・たいはくが交替を拒んだため、平定に遣わされた軽騎により捕らえられ、自殺した。


[原文]

齊神武聞關隴剋捷、遣使於帝、深相倚結。

齊神武は關隴の剋捷を聞き、使を帝に遣り、深く相い倚結せんとす。


帝拒而不納、封神武書以聞。

帝は拒みて納れず、神武の書を封じて以て聞す。


時神武已有異志、故魏帝深仗於帝、仍令帝稍引軍而東。

時に神武は已に異志あり、故に魏帝は深く帝に仗り、仍りて帝をして稍々軍を引きて東せしむ。


帝乃令大都督梁禦率步騎五千、將鎮河渭合口、為圖河東計。

帝は乃ち大都督たる梁禦をして步騎五千を率い、將に河・渭の合口に鎮ぜしめ、河東を圖るの計を為さんとす。


<太祖之討悅也、悅遣使請援於齊神武、神武使其都督韓軌將兵一萬據蒲坂、而雍州刺史賈顯送船與軌、請軌兵入關。>

<太祖の悅を討つや、悅は遣使して援を齊神武に請い、神武は其の都督たる韓軌をして兵一萬を將いて蒲坂に據らしめ、而して雍州刺史たる賈顯*1は船を送りて軌に與え、軌の兵の關に入るを請う。>


<太祖因梁禦之東、乃逼召顯赴軍。禦遂入雍州。>

太祖は梁禦の東するに因りて、乃ち顯を召して軍に赴くことを逼る。禦は遂に雍州に入れり。


魏帝進帝侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司、關西大都督、略陽縣公、承制封拜、使持節如故。

魏帝は帝を侍中*2、驃騎大將軍*3、開府儀同三司*4、關西大都督*5、略陽縣公に進め、承制封拜*6、使持節*7たることは故の如くす。


<於是以寇洛為涇州刺史、李弼為秦州刺史、前略陽郡守張獻為南岐州刺史。盧待伯拒代、遣輕騎襲擒之、待伯自殺。>

<是において寇洛を以て涇州刺史と為し、李弼を秦州刺史と為し、前略陽郡守たる張獻を南岐州刺史と為す。盧待伯は代わるを拒み、輕騎を遣りて襲いて之を擒え、待伯は自殺せり。>


[メモ]

1、賈顯とあるが正しくは賈顯度。『魏書』賈顯度伝には「永熙三年(534)五月、雍州刺史、西道大行臺に轉じ、關中に於せり」とある。


2、侍中、皇帝の諮問に与る役割、三品官。


3、驃騎大將軍、将軍号としては車騎大將軍と並ぶ最高位、従一品。


4、開府儀同三司は官職というより幕府を開いて属僚を置くことの許可、従一品。


5、關西大都督は関中の軍人を統べる地位。『魏書』官氏志には「永安已後は遠近に事多く、京畿大都督を置く。復た州都督を立て、俱に軍人を總ぶ」とあり、永安は528~530年と爾朱栄の専権期にあたる。大都督は複数州を所管し、都督は一州を所管すると考えられる。


6、承制封拜の「承制」は皇帝の許しを得て臨機に処置することを許すの意。「封拜」は封爵と拝官。よって、統治範囲における人事をも含めた全権委任と考えればよい。


7、使持節には皇帝の代理者であることを示す節(旗竿の上部から牛の尾など黒い糸様のものを垂らした旗)を与えられる。一般には使者や軍勢など目的を限定して与えられるが、この場合の使持節は征討の判断を許されたものと考えられる。



三十


 時に孝武帝は高歓を図ろうとし、ふたたび使者を遣して出兵を促した。宇文泰は前の秦州刺史の駱超らく・ちょうを大都督に任じ、一千の軽騎を率いて洛陽に向かわせた。

 孝武帝は宇文泰の官を進めて兼尚書左僕射けんしょうしょぼくや、関西大行臺を新に授け、その他の官は従来通りとした。


[原文]

時魏帝方圖齊神武、又遣徵兵。

時に魏帝は方に齊神武を圖らんとし、又た遣りて兵を徵す。


帝乃令前秦州刺史駱超為大都督、率輕騎一千赴洛。

帝は乃ち前秦州刺史たる駱超をして大都督と為し、輕騎一千を率いて洛に赴かしむ。


魏帝進授帝兼尚書左僕射、關西大行臺、餘官如故。

魏帝は進めて帝に兼尚書左僕射*1、關西大行臺を授け、餘官は故の如くす。


[メモ]

1、兼尚書左僕射は尚書左僕射を兼任することを意味する。尚書僕射は宰相格にあたる従二品官、左右が置かれた場合は左が上位。その上にあたる尚書令は二品官。



三十一


 宇文泰は各地の刺史や郡守に檄文を送って次のように言った。


 けだし、陰陽は交替し、盛衰は互いに前後して起こると聞き、いやしくも陽九ようきゅう厄運やくうんにあたれば三正さんせい五行ごぎょうの正統を聞くことはない。大魏だいぎ皇室こうしつはその開闢かいびゃくより万民を感化し、四海を安んじて仁をもって万物を育んできた。

 それでも厄運は孝明帝に幸いせず、反乱が並び起こり、隴西と冀州きしゅうは騷動し、燕国えんこくと河套は過去の混乱に舞い戻った。重ねて天命を受けているといえども、天下大定には時期を待たねばならず、その間に隙を窺う賊徒は翼に羽を生じたのである。

 賊臣高歓は、器量見識ともに凡庸にも及ばずかごかき人足にんそくのごとき出自であって礼儀を聞いたこともない。ただ一介の鷹犬ようけんとして軍務に頭角を現し、厚かましくも恩賜を蒙ってついに榮寵に登った。

 しかしながら誠意を尽くして節義を行えず、もっぱら姦計をたばさみ、尒朱榮に勸めて河陰かいんでの殺戮を行わせた。尒朱榮が威権を專らにして誅殺されるに及び、尒朱世隆じしゅ・せいりゅうはその一党を率いて叛き、高歓はそれに力を貸して洛陽を陥れた。

 さらに、尒朱兆じしゅ・ちょうに勧めてふたたび孝荘帝を弒逆しいぎゃくさせ、傀儡かいらいの皇帝を擁立して天下に令し、皇室の威権を奪おうとした。

 擁立された皇族はすべて廃立され、ついには害されたのである。

 この期に及んで河北で挙兵し、尒朱氏を討伐すると名分を掲げて朝廷に表奏を通じ、讒侫ざんねいの賊を捕らえたと称した。すでに皇帝の廃立を行い、ついに簒奪さんだつ弑逆を企てている。

 その本心は、魏皇室を尊崇する人心のいまだ尽きないために、刑罰のその身に及ぶことを恐れ、ゆえに宗室を擁して一時の人心に従っているに過ぎない。天はまさに魏室に力を貸し、必ず皇帝を世の主として置くものであり、皇帝の輔弼ほひつは実に高歓の力ではない。

 しかし、高歓は軍勢を擁して残忍の事をおこない、自らそれを勲功とし、広く要職に置いた腹心は州に跨り郡を連ね、朝廷の重臣や皇帝の近臣で高歓の親任を受けていない者はなく、みな貪欲酷虐を行って人面獣身の窫窳あつゆのように万民の命を喰らっている。

 そして、旧将、名臣、正人、直士は当然に痛みを感じ、ややもすれば張りめぐらされた陥穽にかかっている。

 すでに亡き武衛将軍の伊琳い・りんは清直武毅、禁旅を掌握していた。

 直閤将軍ちょっこうしょうぐん鮮于康仁せんう・こうじんは忠亮驍傑、皇帝の爪牙そのものであった。

 高歓は二人の身を拘束して刑戮し、そのことを皇帝に上奏すらしない。

 司空しくう高乾こう・けんは高歓の腹心であって常に連携し、陰謀をめぐらせて社稷しゃしょくを危うくしてきた。ただ、高歓は姦計のならぬうちに謀が漏洩したかと恐れ、密かに朝廷に白して高乾を殺さしめ、その弟である高敖曹こう・ごうそうに対しては慟哭して天子が高乾を罪なくして刑戮けいりくしたと偽ったのである。

 孫騰そん・とう任祥じん・しょうも高歓の腹心、ともに朝廷に入って間隙を窺い、高歓の逆謀がついに行われるとなると、相いついで逃げ出し、迎え入れた高歓はますます重用して上奏などさらにおこなわない。

 しかし、高歓が洛陽に入った時から姦謀はおこなわれていた。親人の蔡儁さい・しゅん河済かさいの長官とし、賞賜を大盤振る舞いして東道の主人としたのがそれである。


 亡き関西大都督、清水公せいすいこうたる賀拔岳は勳德は隆く重く、国家の興亡さえもその身に懸っていたにも関わらず、乱を好んで禍を楽しむ高歓は深く忌み憎み、ついに侯莫陳悅と密かに加害を企てた。

 我が幕府は高歓征伐の命を受け、それに従い討伐せんとした。高歓は己の反逆が露見したと知り、いよいよ討伐の軍を拒まんとし、ついに蔡儁を遣わして離任の命を拒ませ、竇泰とうたいにそれを助けさせた。

 また、侯景たちを遣わして白馬はくばに向かうと宣言し、輔世珍ほ・せいちんたちにすぐさま石済せきさいに向かわせ、高隆之こう・りゅうし疋婁昭ひつろう・しょうたちに壺関こかんを押さえさせ、韓軌かんきの輩には蒲坂ほはんに軍勢を駐屯するよう命じた。

 ここにおいて天子に上書し、たびたび時勢の得失を論じ、皇帝を誹謗し、朝廷を侮る振る舞いを繰り返した。高歓の非才で天下の大宝を願って満たされぬ欲を満たそうと図れば、その禍心は際限もないであろう。

 或る者は、ただちに荊楚けいそに出兵して境域を広げようしていると言う。或る者は、軍勢を分ちて洛陽に向かい、君側の奸を除こうとしていると言う。或る者は、関中に出兵して我が幕府と決戰しようとしていると言う。

 今、陛下は天運を御し、天下は清寧、百僚は民の範たり、四方の夷狄いてきは来朝し、人々は忠良を尽くし、誰が君側の奸をなそうか。

 しかし、高歓は朝権を専らにしてこの乱脈を生じ、北斗に集まるべき星々を南箕に集めようと企て、鹿を指して馬となし、凶逆を内に隠して、我が神器を窺っている。

 これを忍ぶというのであれば、この世に容れられないものなどあろうか。


 我が幕府は敵する者すべてに対抗し、朝廷より出征の命を受け、銳師は百万、弓騎は千群、兵糧を整えて甲冑に座し、ただ敵を待つのみ。義のみあれば、身命を滅ぼしても惜しむところではない。

 しきりに詔書が下され、高歓の逆乱を天下に広く告げ、軍勢を召して討伐せんとしている。

 今、将帥に命じ、機に応じて進軍させ、或る者はその要害を扼し、或る者はその拠点を襲い、稲妻のごとくめぐり蛇のごとく擊ちかかり、霧のごとく大軍が覆い星のごとく全土を網羅している。

 しかし、高歓は道に背き天地に負き、毒のごとく人に害をなしている。この征伐の機に乗じれば、ともに容易く討ち平らげられよう。

 もし高歓が黄河を渡って洛陽に迫るのであれば、すなわち諸将に命じてただちに并州を奪わせ、我が幕府はみずから東に軍勢を向けて伊水いすい洛水らくすいに直行しよう。もしその本拠地を固めて身動きしないのであれば、また諸軍に命じて一斉に攻めかけ、賊臣を車裂きに処して天下に謝罪しよう。

 州鎮郡縣、全土の士庶、州鄉の士大夫、あるいは、名家の末裔は、ともに逆を捨て順に帰し、勲功を軍門に立てよ。封侯賞賜はすでに異例の定めがある。

 すべて君子は勉励せよ。


[原文]

帝乃傳檄方鎮曰、

帝は乃ち檄を方鎮*1に傳えて曰わく、


蓋聞、陰陽遞用、盛衰相襲、苟當百六、無聞三五。

蓋し聞くならく、

陰陽は遞いに用い、盛衰は相い襲う。苟くも百六*2に當り、三五*3を聞くなし。


皇家創歷、陶鑄蒼生、保安四海、仁育萬物。

皇家は創歷して蒼生*4を陶鑄し、四海を保ち安んじ、萬物を仁育せり。


運距孝昌、屯沴屢起、隴冀騷動、燕河狼顧。

運は孝昌*5を距み、屯沴*6は屢び起こり、隴冀は騷動し、燕河に狼顧*7す。


雖靈命重啟、蕩定有期、而乘釁之徒、因翼生羽。

靈命を重ね啟くと雖も、蕩定に期あり、而して乘釁*8の徒は因りて翼に羽を生ず。


賊臣高歡、器識庸下、出自輿皁、罕聞禮義。

賊臣たる高歡は、器識庸下にして出ずるに輿皁*9よりし、禮義を聞くなし。


直以一介鷹犬、效力戎行、靦冒恩私、遂階榮寵。

直だ一介の鷹犬*10を以て、力を戎行に效し、靦かましく恩私を冒し、遂に榮寵に階せり。


不能竭誠盡節、專挾姦回、乃勸尒朱榮行茲篡逆。

誠を竭くして節を盡くすあたわず、專ら姦回を挾み、乃ち尒朱榮に勸めて茲の篡逆を行わしむ。


及榮以專政伏誅、世隆以凶黨外叛、歡苦相敦勉、令取京師。

榮の政を專らにするを以て誅に伏すに及び、世隆*11は凶黨を以て外叛し、歡は苦めて相い敦勉し、京師を取らしむ。


又勸吐万兒復為弒虐、暫立建明、以令天下、假推普泰、欲竊威權。

又た、吐万兒*12に勸めて復た弒虐を為さしめ、暫く建明を立て、以て天下に令し、假りに普泰を推し、威權を竊めんと欲す。


並歸廢斥、俱見酷害、既行廢黜、遂將篡弒。

並びに廢斥に歸し、俱に酷害され、既に廢黜を行い、遂に將に篡弒せんとす。


於是稱兵河北、假討尒朱、亟通表奏、云取讒賊。

是において兵を河北に稱え、假るに尒朱を討つとし、亟ち表奏を通じ、云えらく讒賊を取らんと。


以人望未改、恐鼎鑊交及、乃求宗室、權允人心。

人望の未だ改まらざるを以て、鼎鑊*13の交々及ぶを恐れ、乃ち宗室を求め、權りに人心に允うのみ。


天方與魏、必將有主、翊戴聖明、誠非歡力。

天は方に魏に與し、必ず將に主あらしめんとし、聖明を翊戴するは、誠に歡の力にあらざるなり。


而歡阻兵安忍、自以為功、廣布腹心、跨州連郡。

而して歡は兵を阻みて忍に安んじ、自ら以て功と為し、廣く腹心を布き、州に跨りて郡を連ぬ。


端揆禁闥、莫非親黨、皆行貪虐、窫窳生靈。

端揆禁闥*14、親黨にあらざるなく、皆な貪虐を行い、生靈を窫窳あつゆ*1す。


而舊將名臣、正人直士、橫生瘡痏、動掛網羅。

而して舊將名臣、正人直士、橫に瘡痏を生じ、動もすれば網羅に掛からん。


故武衞將軍伊琳、清直武毅、禁旅攸屬。

故き武衞將軍たる伊琳、清直武毅、禁旅は攸屬せり。


直閤將軍鮮于康仁、忠亮驍傑、爪牙斯在。

直閤將軍たる鮮于康仁、忠亮驍傑、爪牙斯にあり。


歡收而戮之、曾無聞奏。

歡は收めて之を戮し、曾て聞奏するなし。


司空高乾、是其黨與、每相影響、謀危社稷。

司空*15たる高乾は是れ其の黨與、每に相い影響し、謀りて社稷を危うくす。


但姦志未從、恐先泄漏、乃密白朝廷、使殺高乾、方哭對其弟、稱天子橫戮。

但だ姦志の未だ從わずし、先に泄漏せるを恐れ、乃ち密かに朝廷に白し、高乾を殺さしめ、方に哭するに其の弟に對し、天子の橫戮なりと稱す。


孫騰、任祥、歡之心膂、並使入居樞近、伺國間隙、知歡逆謀將發、相繼歸逃、歡益加撫待、亦無陳白。

孫騰、任祥は歡の心膂、並びに樞近に入居せしめ、國の間隙を伺い、歡の逆謀の將に發せんと知り、相い繼ぎて歸逃し、歡は益々撫待を加え、亦た陳白するなし。


然歡入洛之始、本有姦謀。令親人蔡儁作牧河濟、厚相恩贍、為東道主人。

然れど歡の入洛の始め、本と姦謀あり。親人たる蔡儁をして河濟に牧たらしめ、厚く相い恩贍し、東道の主人と為す。


故關西大都督清水公賀拔岳、勳德隆重、興亡攸寄。

故き關西大都督、清水公たる賀拔岳は、勳德隆重にして興亡は攸に寄る。


歡好亂樂禍、深相忌毒、乃與侯莫陳悅、陰圖陷害。

歡は亂を好んで禍を樂しみ、深く相い忌毒し、乃ち侯莫陳悅と陰に陷害を圖る。


幕府以受律專征、便即討戮。

幕府は以て律を專征に受け、便ち即きて討戮せんとす。


歡知逆狀已露、稍懷旅拒、遂遣蔡儁拒代、令竇泰佐之。

歡は逆狀の已に露わるを知り、稍々旅拒を懷き、遂に蔡儁を遣りて代わるを拒ましめ、竇泰をして之を佐けしむ。


又遣侯景等云向白馬、輔世珍等徑趣石濟、高隆之、疋婁昭等屯據壺關、韓軌之徒擁眾蒲坂。

又た侯景等を遣りて白馬*16に向かうと云わしめ、輔世珍等をして徑ち石濟*17に趣しめ、高隆之、疋婁昭等をして壺關*18に屯據せしめ、韓軌の徒をして眾を蒲坂に擁せしむ。


於是上書天子、數論得失、訾毀乘輿、威侮朝廷。

是において天子に上書し、數々得失を論じ、乘輿を訾毀し、朝廷を威侮す。


藉此微庸、冀茲大寶、溪壑可盈、禍心不測。

此の微庸を藉り、茲の大寶を冀わば、溪壑も盈つべく、禍心は測らざるなり。


或言徑赴荊楚、開疆於外。

或いは言えらく、徑ち荊楚*19に赴き、疆を外に開かんと。


或言分詣伊洛、取彼讒人。

或いは言えらく、分ちて伊洛*20に詣り、彼の讒人を取らんと。


或言欲來入關、與幕府決戰。

或いは言えらく、來りて關に入り、幕府と決戰せんと欲すと。


今聖明御運、天下清夷、百僚師師、四隩來暨、人盡忠良、誰為君側?

今、聖明は運を御し、天下は清夷、百僚師師として、四隩は來暨し、人は忠良を盡くし、誰ぞ君側たらんや。


而歡威福自己、生是亂階、緝構南箕、指鹿為馬、包藏凶逆、伺我神器。

而して歡は威福は己に自り、是の亂階を生じ、南箕に緝構*21し、鹿を指して馬と為し、凶逆を包藏し、我が神器を伺う。


是而可忍、孰不可容。

是れをして忍ぶべくんば、孰れか容るべからざらん。


幕府折衝宇宙、親當受脤、銳師百萬、彀騎千羣、裹糧坐甲、唯敵是俟。

幕府は宇宙に折衝し、親ら當に脤を受け、銳師百萬、彀騎千羣、糧を裹みて甲に坐し、唯だ敵を是れ俟つ。


義之所在、糜軀匪吝。

義の所在、軀を糜やして吝しむにあらず。


頻有詔書、班告天下、稱歡逆亂、徵兵致伐。

頻りに詔書あり、天下に班告し、歡の逆亂を稱し、兵を徵して伐を致す。


今便分命將帥、應機進討、或趣其要害、或襲其窟穴、電繞蛇擊、霧合星羅。

今、便ち將帥に分命し、機に應じて進討せしめ、或いは其の要害に趣き、或いは其の窟穴を襲い、電繞蛇擊、霧合星羅せり。


而歡違負天地、毒被人鬼、乘此掃蕩、易同俯拾。

而して歡は違いて天地に負き、毒は人鬼に被り、此の掃蕩に乘じ、易く同に俯拾す。


歡若度河、稍逼宮廟、則分命諸將、直取并州、幕府躬自東轅、電赴伊洛。

歡の若し河を度りて稍々もして宮廟に逼らば、則ち諸將に分命し、直ちに并州を取り、幕府は躬自ずから東轅とうえん*22して伊洛に電赴せん。


若固其巢穴、未敢發動、亦命羣帥、百道俱前、轘裂賊臣、以謝天下。

若し其の巢穴を固め、未だ敢えて發動せずんば、亦た羣帥に命じて百道俱に前ましめ、賊臣を轘裂して以て天下に謝さん。


其州鎮郡縣、率土黎人、或州鄉冠冕、或勳庸世濟、並宜捨逆歸順、立効軍門。

其の州鎮郡縣、率土の黎人、或いは州鄉の冠冕、或いは勳庸の世濟、並に宜しく逆を捨て順に歸し、効を軍門に立てよ。


封賞之科、已有別格、凡百君子、可不勉哉。

封賞の科、已に別格あり、凡百の君子、勉めざるべけんや」と。


[メモ]

1、方鎮は州刺史など地方の鎮守にあたる官職を指す。


2、百六は『漢書』律暦志に「易九戹に曰わく『初めて元に入り、百六、陽九なり。次に三百七十四、陰九なり」とあって陽九を指すと考えられる。陽九は陽の最大数である九を付しているところから「最盛期」の意であり、そこからは衰退期に入る。ここでの百六は衰退期の始まりを意味すると解釈した。


3、三五は三正と五行と解した。夏正は立春が正月、殷正は冬至の翌月が正月、周正は冬至の月が正月とそれぞれ異なる三代の暦を三正と言う。五行は各王朝に配当される五行の意。これらを合わせた三正五行とは「正しい歴史の推移」を意味すると解釈した。


4。蒼生そうせいは万民の意味。


5、孝昌こうしょうは孝昌年間に統治をおこなった孝明帝を指す。


6、屯沴とんれいは「留まり淀む」の意味。


7、狼顧ろうこは後ろを振り返るの意味。


8、乘釁じょうきんは「隙に乗じる」の意味。


9、輿皁よそうは「籠をかつぐ奴隷」の意味。


10、鷹犬ようけんは鷹と犬、転じて身分の低い武人を指す。


11、世隆せいりゅうは爾朱世隆を指す。


12、吐万兒とまんじは爾朱兆の鮮卑名。


13、鼎鑊ていかくは鼎と釜、ともに罪人の処刑に用いられることから転じて刑罰を意味する。


14、端揆たんき禁闥きんたつは宰相と宮門の意、禁闥は宮門から転じて皇帝の近臣を指す。


15、司空しくうは三公の一つ。高乾は高歓の挙兵に協力し、この時は孝武帝の監視を任として洛陽に駐在していた。


16、白馬はくばは白馬済を指す。

▼白馬済

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17、石濟は朝歌の南にある棘津きょくしんの別名。

▼棘津

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18、壺關は山東と山西を分かつ太行山中を流れる濁漳水沿岸にあり、東西往来の要衝となっていた。

▼壺關

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19、荊楚けいそは荊州を含む長江中流から下流域を指す。


20、伊洛いらくは伊水と洛水の併称、洛陽周辺を意味する。


21、南箕なんき緝構しゅうこうの南箕は二十八宿の一つである箕星。箕星は南斗六星の頭部の方形にあたる四つの星を簔に見立ててそう呼ばれる。緝構はそれぞれ「紡ぐ」「形を成す」の意。文脈的より「あってはならないことを起こそうとする」の意と考えられることから「本来は北極星を中心とする星々を箕星を中心に再編しようとする」と解釈した。


22、東轅はながえを東に向ける、つまり、軍勢の先頭を東に向けて進めるの意と解した。同様の用例は『周書』齊煬王憲伝に「高祖東轅」などがある。



三十二


 宇文泰は諸軍にこう言った。

「高歓は知識に欠けるが詐術には余りある。今、西に向かうと宣言しているが、その本意は洛陽にある。寇洛は馬步萬餘を率い、涇州から東に軍勢を進めよ。その先の華州かしゅうには王羆おう・ひが甲士一萬を率いて駐屯している。高歓がもし言葉とおりに関中に向かったとしても、王羆であれば防ぎきることができよう。もし洛陽に向かうようであれば寇洛はすぐさま黄河を渡って河東から北上せよ。私は急ぎ洛陽の救援に向かう。こうすれば高歓は進むに後背の本拠地を突かれる憂えを拭えず、退くに後ろから喰らいつかれる恐れで身動きが取れなくなろう。一舉大定にはこれが上策である」

 諸将はみなその策に賛同した。


[原文]

帝謂諸軍曰、

帝は諸軍に謂いて曰わく、


「高歡雖智不足而詐有餘、今聲言欲西、其意在入洛。

「高歡は智足らずと雖も詐に餘あり。今、西せんと欲すと聲言するも、其の意は入洛にあり。


吾欲令寇洛率馬步萬餘、自涇州東引。

吾れは寇洛をして馬步萬餘を率い、涇州より東に引かしめんと欲す。


王羆率甲士一萬、先據華州。歡若西來、王羆足得抗拒。

王羆は甲士一萬を率いて先に華州に據る。歡の若し西來せば、王羆は抗拒し得るに足れり。


如其入洛、寇洛即襲汾晉。

如し其れ洛に入らば、寇洛は即ち汾晉*1を襲え。


吾便速駕、直赴京邑、使其進有內顧之憂、退有被躡之勢、一舉大定、此為上策」。

吾れは便ち駕を速め、直ちに京邑に赴き、其の進まば內顧の憂あらしめ、退かば被躡の勢*2あらしめ、一舉大定、此れ上策となす」と。


眾咸稱善。

眾は咸な善しと稱す。


[メモ]

1、汾晉は汾水沿岸の河東北部から山西南部を指して言う。

▼汾水

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2、被躡の勢は「嵩にかかって攻められる状態」ほどの意味であろう。



三十三


 七月、宇文泰は諸軍を率いて高平を出発し、前軍は弘農に到着した。しかし、高歓はいよいよ洛陽に迫っており、孝武帝は自ら六軍を統率して河橋に駐屯し、左衛将軍さえいしょうぐん元斌之げん・ひんし領軍将軍りょうぐんしょうぐんの斛斯椿を武牢関ぶろうかんに鎮守させた。

 宇文泰は左右の者に「高歓は数日で八、九百里を行く。兵法に通じた者の忌むところである。この機に乗じて攻撃すべきであろう。しかし、天子は万乗の身であれば黄河を渡っての決戰はできぬ。おそらく渡し場に拠って南下を防ぐことしかできまい。かつ、黄河は万里、防ぎきるのは難しい。一か所でも渡られれば大事は去る」と言った。

 すぐさま大都督の趙貴を別道べつどう行臺こうだいに任じ、蒲坂から黄河を渡って高歓の本拠地である并州に向かわせ、大都督の李賢り・けんに一千の精騎を与えて洛陽に向かわせた。たまたま元斌之と斛斯椿が権を争って武牢関は守られず、元斌之は斛斯椿を見棄てて洛陽に引きかえし、「高歓の兵が迫っております」と帝を欺いた。孝武帝はついに軽騎で関中に入った。

 宇文泰は儀仗を備えて迎え、東陽駅とうようえきで謁見し、冠を脱ぐと涙を流して罪を謝した。

 宇文泰は「臣は逆臣を掣肘できず、遂に陛下を洛陽から退かせることとなりました。願わくば、刑吏に引き渡して刑法を正しく行わせて頂きたく存じます」と言い、

孝武帝は「公の忠節は朝野の知るところである。朕の不德により成り上がりの高歓めが仇をなしたのである。今日、公と相見えるにも深く恥じ入るところである。責は朕にある。公が謝罪するには及ばない」と言った。


[原文]

七月、帝帥眾發自高平、前軍至于弘農。

七月、帝は眾を帥いて高平より發し、前軍は弘農に至る。


而齊神武稍逼京師、魏帝親總六軍屯河橋、左衞元斌之、領軍斛斯椿鎮武牢。

而して齊神武は稍々京師に逼り、魏帝は親ら六軍を總べて河橋*1に屯じ、左衞たる元斌之、領軍たる斛斯椿をして武牢*2に鎮ぜしむ。


帝謂左右曰、

帝は左右に謂いて曰わく、


「高歡數日行八九百里。曉兵者所忌。正須乘便擊之。

「高歡は數日にして八、九百里を行く。兵を曉る者の忌むところなり。正に須く便に乘じて之を擊つべし。


而主上以萬乘之重、不能度河決戰、方緣津據守。

而して主上は萬乘の重なるを以て河を度りて決戰するあたわず、方に津に緣りて據守せん。


且長河萬里、扞禦為難、一處得度、大事去矣」。

且つ、長河は萬里、扞禦は難きと為す。一處に度るを得れば大事は去らん」と。


即以大都督趙貴為別道行臺、自蒲坂濟、趣并州、遣大都督李賢將精騎一千赴洛陽。

即ち大都督たる趙貴を以て別道行臺*3と為し、蒲坂より濟りて并州に趣かせ、大都督たる李賢をして精騎一千を將て洛陽に赴かしむ。


會斌之與斛斯椿爭權、鎮防不守。

會々、斌之は斛斯椿と權を爭いて鎮防は守らず。


<斌之遂棄椿還、紿帝云「高歡兵至」。>

<斌之は遂に椿を棄てて還り、帝を紿きて云えらく、「高歡の兵は至れり」と。>


魏帝遂輕騎入關。

魏帝は遂に輕騎にて關に入る。


帝備儀衞奉迎、謁見於東陽驛、免冠流涕謝罪。

帝は儀衞を備えて奉迎し、東陽驛*4にて謁見し、冠を免じて流涕して罪を謝す*5。


<曰「臣不能式遏寇虐、遂使乘輿遷幸。請拘司敗、以正刑書」。

<曰わく、「臣は寇虐を式遏するあたわず、遂に乘輿をして遷幸せしむ。請うらく、司敗に拘りて以て刑書を正さんことを」と。>


<帝曰「公之忠節、曝於朝野。朕以不德、負乘致寇。今日相見、深用厚顏。責在朕躬、無勞謝也」。>

<帝は曰わく、「公の忠節、朝野に曝かなり。朕は不德を以て負乘は寇を致せり。今日相見えるに、深く用て厚顏たり。責は朕の躬に在り、謝を勞するなきなり」と。>


[メモ]

1、河橋は洛陽の東北、黄河に杜預が浮橋をかけた場所を指す。別名は孟津もうしん富平津ふへいしんともいう。この津の両岸には、『梁書』陳慶之伝の「慶之は河を渡りて北中郎城を守る」によると北岸の北中郎城、『北齊書』高昂伝「邙陰に戰うも 昂の部するところは利を失い、左右は分散せり。單馬にて東に出で、河梁南城に趣かんと欲す」によると南岸の河梁南城があった。この時の河橋は河梁南城を指すものと見られる。

▼河橋

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2、武牢関は別に虎牢関、汜水関とも言う。洛陽の東北にあたる洛水と黄河の合流点のさらに東にある汜水と黄河の合流点に置かれた。東の黄河、洛水に沿って洛陽に向かう軍勢を防ぐ位置にあり、洛陽八関のさらに外にある。

▼虎牢

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3、別道行臺は行台と同じく方面指令程度の意味で理解すればよい。


4、東陽驛は『讀史方輿紀要』卷五十四に次のように記されている。

『水經注』に「渭水は新豐を過りて東し、西陽水と合し、又た東して東陽水に合せりう」と。二水は並に廣鄉原に出ず。魏主たる修の關中に入るに、宇文泰は東鄉驛にて謁見せるとは、即ち此れなり。

 要するに渭水と黄河の合流点から長安までの工程の真ん中あたりの地点である。

▼東陽水

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5、魏帝を関中に迎えたことにより宇文泰の関中、隴右支配は確立に向かう。その一方、高歓との対立は決定的となり、『周書』邵惠公顥伝には宇文什肥の死期を「太祖の秦隴を定めるに及び、什肥は齊神武の害するところとなる」とあってこの頃に宇文泰の長兄の長子(漢人的感覚では宇文氏の正嫡にあたる)である宇文什肥は高歓によって殺害されたと見られる。なお、三兄である宇文洛生の子の宇文菩提も高歓に殺害されているが時期は不詳。宇文什肥が殺害された際にその子の宇文冑は幼年であるという理由で去勢(いわゆる宮刑)されており、同じく幼年であり、かつ、宇文氏の直系ではない宇文洛生の子の宇文菩提がこの時に宇文什肥とともに殺害されたとは考えにくい。


宇文氏系図(人名の後の数字は死没の順番による)


 宇文肱②唐河における定州軍との戦で陣没

  ├宇文顥①武川鎮における衛可瓌との戦で陣没

  │ ├宇文什肥④宇文泰が関中支配を確立した頃に高歓が殺害

  │ ├宇文導

  │ └宇文護

  ├宇文連②唐河における定州軍との戦で陣没

  ├宇文洛生③爾朱栄が殺害

  │ └宇文菩提⑤?高歓が殺害(時期不詳)

  └宇文泰



三十四


 宇文泰は孝武帝を奉じて長安を都とし、荒れ地を拓いて朝廷を立て、軍国の政はすべて宇文泰の決裁を仰ぐようになった。それに加えて大将軍、雍州刺史を授けられ、尚書令しょうしょれいを兼ねた。爵位は略陽郡公りゃくようぐんこうに進み、別に二つの尚書を置いて臨機に決定し、尚書僕射しょうしょぼくやの任を解いたがそれ以外は元の通りとした。

 かつて、孝武帝は洛陽にあって宇文泰が馮翊ふうよく長公主ちょうこうしゅを娶ることを許したが、結納に及ばずして孝武帝は関中に移った。ここに至って宇文泰に詔して長公主を娶らせ、駙馬都尉の官を拝した。


[原文]

乃奉魏帝都長安、披草萊、立朝廷、軍國之政、咸取決於帝。

乃ち魏帝を奉じて長安に都し、草萊を披き、朝廷を立て、軍國の政は咸な決を帝に取る。


仍加授大將軍、雍州刺史、兼尚書令、進封略陽郡公、別置二尚書、隨機處分、解尚書僕射、餘如故。

仍りて加えて大將軍、雍州刺史を授けられ、尚書令*1を兼ぬ。封を略陽郡公に進め、別に二尚書を置きて機に隨いて處分し、尚書僕射*2を解くも餘は故の如し。


初、魏帝在洛陽、許以馮翊長公主配帝、未及結納而魏帝西遷。

初め、魏帝は洛陽にありて馮翊長公主*3を以て帝に配することを許すも、未だ結納に及ばずして魏帝は西遷せり。


至是詔帝尚之、拜駙馬都尉。

是に至りて帝に詔して之を尚らしめ、駙馬都尉を拜せり。


[メモ]

1、尚書令は宰相、二品官。


2、尚書僕射は尚書令に次ぐ、従二品官。


3、馮翊長公主は孝武帝の妹にあたる。系図は以下のとおり。


  孝文帝元宏─広平王元懐┬范陽王元誨

             ├広平王元悌

             ├孝武帝元脩

             └馮翊長公主



三十五


 八月、高歓は潼関どうかんを急襲して陷れ、華陰に侵入した。宇文泰は諸軍を率いて霸上はじょうに駐屯してその到来を待った。

 高歓はその部将の薛瑾せつ・きんを潼関に留めて軍勢を退き、宇文泰はそれを知ると軍を進めて薛瑾を斬り、その士卒七千を捕虜とした。

 長安に帰還すると、丞相じょうしょうの位に進んだ。


[原文]

八月、齊神武襲陷潼關、侵華陰、帝率諸軍屯霸上以待之。

八月、齊神武は襲いて潼關*1を陷れ、華陰を侵す。帝は諸軍を率いて霸上*2に屯して以て之を待つ。


神武留其將薛瑾守關而退、帝乃進軍斬瑾、虜其卒七千。

神武は其の將たる薛瑾を留めて關を守らしめて退き、帝は乃ち軍を進めて瑾を斬り、其の卒七千を虜う。


還長安、進位丞相。

長安に還り、位を丞相*3に進む。


[メモ]

1、潼關は渭水と黄河の合流点の東、黄河南岸にある関。東から黄河南岸に沿って関中に向かう際の最後の砦にあたる。風陵津があって北岸とも往来できたため、要衝中の要衝として関中をめぐる争いでは北の蒲坂津と並んで頻出する。

▼潼關

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2、霸上は覇水のほとり。灞水とも言い、灞上も同義語。

▼覇水

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3、丞相は宰相格であるが非常置、国政の最高責任者。



三十六


<本節はすべて『周書』による。>

冬十月、高歓は魏の清河王の元亶げん・たんの子の元善見げん・ぜんけんを皇帝とし、鄴に遷都した。これを東魏と呼ぶ。


[原文]

冬十月、齊神武推魏清河王亶子善見為主、徙都於鄴、是為東魏。

冬十月、齊神武は魏の清河王亶の子たる善見*1を推して主と為し、都を鄴に徙し、是れを東魏と為す。


[メモ]

1、元善見は東魏の孝静帝と呼ばれる。孝文帝のひ孫にあたり、西魏の孝武帝より一つ下の世代にあたる。


西魏と東魏の皇帝の関係図


 孝文帝元宏┬京兆王元愉─西魏文帝元宝炬┬西魏廃帝元欽

      │             └西魏恭帝元廓

      ├清河王元懌─元亶──────東魏孝静帝元善見

      └広平王元懐─西魏孝武帝元脩



三十七


 十一月、儀同ぎどう李虎り・こと李弼、趙貴たちを遣わして霊州の曹泥を討ち、李虎は黄河の水を引いて霊州の城に灌いだ。

 明年、曹泥は降り、霊州の豪族を咸陽かんように移住させた。


[原文]

十一月、遣儀同李虎與李弼、趙貴等討曹泥於靈州、虎引河灌之。

十一月、儀同*1たる李虎と李弼、趙貴等を遣りて曹泥を靈州に討たしめ、虎は河を引きて之に灌ぐ。


明年、泥降、遷其豪帥于咸陽。

明年、泥は降り、其の豪帥を咸陽*2に遷す。


[メモ]

1、儀同とは儀同三司の略称。


2、咸陽は雍州咸陽郡、長安の北、渭水北岸にある渭城(故咸陽城)を中心とするが郡の治所は涇水北岸の池陽に置かれた。

▼故咸陽

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三十八


 閏十二月、魏の孝武帝は崩御し、宇文泰は郡公と任命書にあたるさくの文章を定め、南陽王なんようおう元寶炬げん・ほうきょを立てて皇帝とした。これが西魏せいぎの文帝である。


[原文]

閏十二月、魏孝武帝崩、帝與羣公定冊、尊立魏南陽王寶炬為嗣。是為文帝。

閏十二月、魏孝武帝は崩じ、帝は羣公と冊を定め、魏の南陽王たる寶炬*1を尊立して嗣と為す。是れ文帝たり。


[メモ]

1、元寶炬は京兆王元愉の子、孝文帝元宏の孫にあたる。



三十九


 大統元年(535)正月己酉、文帝は宇文泰を都督中外諸軍ととくちゅうがいしょぐん錄尚書事ろくしょうしょじ大行臺だいこうだいに任命し、改めて安定郡王の爵位を与えた。宇文泰は王爵と錄尚書を固辞し、魏帝はそれを許し、改めて安定郡公の爵位を与えた。

 東魏の部将の司馬子如しば・しじょが潼関を攻め、宇文泰は霸上に布陣した。司馬子如は潼関から退くと北の蒲津ほしんに回って華州かしゅうに攻め込んだが、刺史の王羆が撃退した。


[原文]

大統元年正月己酉、魏帝進帝都督中外諸軍、錄尚書事、大行臺、改封安定郡王。

大統元年正月己酉、魏帝は帝を都督中外諸軍*1、錄尚書事*2、大行臺に進め、改めて安定郡王に封ぜられる。


帝固讓王及錄尚書、魏帝許之、乃改封安定郡公。

帝は王、及び、錄尚書を固く讓り、魏帝は之を許し、乃ち改めて安定郡公に封ずぜらる


東魏將司馬子如寇潼關、帝軍霸上。

東魏の將たる司馬子如は潼關に寇し、帝は霸上に軍す。


子如乃回軍自蒲津寇華州、刺史王羆擊走之。

子如は乃ち軍を回して蒲津*3より華州に寇するも、刺史たる王羆は擊ちて之を走らす。


[メモ]

1、都督中外諸軍とあるが『周書』文帝本紀の大統元年の同條では督中外諸軍事とあり、都督中外諸軍事が正しいものと見られる。軍権の最高責任者であり、その下には軍政全般を担う幕府として中外府が置かれた。


2、錄尚書事は国政を担う尚書の事務を総括する職。

建国当時の西魏は、

 大行台系:宇文泰に従って諸州の統治を担う。

 中外系:中央の軍政を担う。

 尚書系:皇帝の下で国政を担う。

以上の3系統に分かれていたものと推測される。よって、錄尚書事を固辞した理由は皇帝との関係においてその権限に容喙しない意思を示したものと考えられる。


3、蒲津は蒲坂津、黄河と渭水の合流点の北東にあり、河東から関中に入る際に黄河を渡る津があった。

▼蒲坂

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四十


 三月、宇文泰は戦乱が度々起こって民と官吏が疲弊していることを鑑み、有司に命じて古今の事例を斟酌して常例と異例を参考し、国民に利益があって時世に即し、安定に資する規則をまとめた二十四條新制を起草させ、上奏して施行した。


[原文]

三月、帝<以戎役屢興、民吏勞弊、>命有司<斟酌今古、參考變通、可以益國利民便時適治者、>為二十四條新制、奏行之。

三月、帝は<戎役の屢々興り、民吏の勞弊せるを以て、>有司に命じて<今古を斟酌し、變通を參考し、國に益して民を利し時に便にして治に適うべきものを以て>二十四條新制*1を為さしめ、奏して之を行う。


[メモ]

1、二十四條新制は後に十二條新制と合わせて中興永式となるが原文は残らない。



四十一


<本節はすべて『周書』による。>

二年春三月、東魏は夏州を襲って陥落させ、その部将の張瓊、許和を留めて鎮守させた。


[原文]

二年春三月、東魏襲陷夏州、留其將張瓊、許和守之。

二年春三月、東魏は襲いて夏州を陷れ、其の將たる張瓊、許和を留めて之を守らしむ。



四十二


 二年(536)五月、秦州刺史、建忠王の万俟普撥は部民を率いて東魏とうぎに亡命した。宇文泰は軽騎を率いてその後を追い、黄河の北千餘里まで至ったが追いつけず引き返した。


[原文]

二年五月、秦州刺史、建忠王万俟普撥率所部入東魏、帝輕騎追之、至河北千餘里、不及而還

二年五月、秦州刺史、建忠王たる万俟普撥は部するところを率いて東魏に入る。帝は輕騎にて之を追いて河北千餘里に至るも及ばずして還る。



四十三


 三年(537)正月、東魏は龍門りゅうもんに進軍するとともに軍勢を蒲坂に駐屯させ、三本の浮橋を造って黄河を度った。またその部将の竇泰を潼関に向かわせ、高昂こうこう洛州らくしゅうを囲ませた。

 宇文泰は軍勢を広陽まで出し、諸将を召してこう言った。

「賊はわが三面を扼し、さらに浮橋を造ってまで必ず黄河を渡る姿勢を見せている。これは、わが軍を蒲坂に釘づけにして竇泰を関中に侵入させようとしているのである。ここで高歓とにらみ合っていてはその計が図にあたり、良策ではない。かつ、高歓の挙兵以来、竇泰は常にその前駆となって部下は精鋭揃い、度々の戦勝により驕っている。今、その軍勢を襲えば必ず勝てる。竇泰に勝てば則ち高歓は戰ずして軍勢を退こう」

 諸将はみな、「賊の大軍はすぐそばにあり、これを捨てて遠い竇泰を襲うとなれば、もし蹉跌さてつがあれば悔いても及びません」と反対した。

 宇文泰は反論して言った。

「高歓は先に二度にわたって潼関を襲ったがわが軍勢は霸上から東に進んではいない。今や大挙して攻めよせているにも関わらず我が軍勢はいまだ長安の近郊を出ていない。われらはただ守りを固めるだけで遠くまで出兵する意思はないと思いこんでいよう。また、成功に慣れてわれらを軽んじる慢心もある。この隙に乗じて攻撃すれば、勝てないはずもない。賊は橋を造ったとはいえ、いまだこちらに渡ってきてはいない。この五日の中にわれが竇泰を捕らえるのは必然である。諸公は疑うことなかれ」

 庚戌、宇文泰は長安に還り、隴西に逃れると宣言した。

 辛亥、文帝に謁見した後、密かに潼関に近い小関しょうかんに到着した。竇泰はにわかに敵が現れたと聞いて大いに驚き、山に拠って布陣しようと図った。しかし、陣形をなすには至らず、宇文泰はそこを攻撃して盡くその士卒を捕虜とし、竇泰を斬ってその首を長安に送った。

 高昂はちょうど洛州を陷れて刺史の泉企を捕らえたところに竇泰の敗戦を聞き、輜重を焼いて軍勢を退いた。高歓もまた蒲坂に架けた橋を除いて退いた。

 その後、泉企の子の泉元礼が洛州を取り戻し、東魏の刺史の杜密を斬った。

 宇文泰は軍勢を長安に返した。


[原文]

三年正月、東魏寇龍門、屯軍蒲坂、造三道浮橋度河。

三年正月、東魏は龍門に寇して軍を蒲坂に屯し、三道の浮橋を造りて河を度る。


又遣其將竇泰趣潼關、高昂圍洛州。

又た其の將たる竇泰を遣りて潼關に趣かしめ、高昂をして洛州*1を圍ましむ。


帝出軍廣陽、召諸將謂曰「

帝は軍を廣陽*2に出し、諸將を召して謂いて曰わく「


賊掎吾三面、又造橋、示欲必度。是欲綴吾軍、使竇泰得西入耳。

賊は吾が三面を掎し、又た橋を造りて必ず度らんと欲するを示す。是れ、吾が軍を綴して竇泰をして西入を得さしめんと欲するのみなり。


<久與相持、其計得行、非良策也。>

<久しく與に相い持さば、其の計は行うを得る。良策にあらざるなり。>


且歡起兵以來、泰每先驅、下多銳卒、屢勝而驕。

且つ、歡の起兵以來、泰は每に先驅たりて下に銳卒多く、屢々勝ちて驕る。


今襲之必剋、剋泰、則歡不戰而走矣」。

今、之を襲わば必ず剋たん。泰に剋たば則ち歡は戰ずして走らん」と。


諸將咸曰「賊在近、捨而襲遠、若差跌、悔何及也」。

諸將は咸な曰わく「賊は近くにあり、捨てて遠きを襲わば、若し差跌あらば悔いても何ぞ及ばん」と。


帝曰「

帝は曰わく「


歡前再襲潼關、吾軍不過霸上。今者大來、<兵未出郊。>謂吾但自守耳、<無遠鬭意。>

歡は前に再び潼關を襲うも吾が軍は霸上を過ぎず。今は大いに來たるも<兵は未だ郊を出でず。>吾れは但た自ら守るのみ、<遠く鬭うの意なし>と謂えり。


又狃於得志、有輕我之心、乘此擊之、何往不剋。

又た志を得るに狃れ、我を輕んずるの心あり。此に乘じて之を擊つ。何ぞ往きて剋たざらんや。


賊雖造橋、未能徑度、比五日中、吾取泰必矣。<公等勿疑>」。

賊は橋を造ると雖も、未だ能く徑ちに度らず、比ごろ五日の中に吾の泰を取るは必せり。<公等は疑うなかれ>」と。


庚戌、帝還長安、聲言欲向隴右。

庚戌、帝は長安に還り、隴右に向かわんと欲すと聲言せり。


辛亥、謁魏帝而潛軍至小關。

辛亥、魏帝に謁して軍を潛めて小關に至る。


竇泰卒聞軍至、<惶懼、依山為陣。>陳未成、帝擊之、盡俘其眾、斬泰、傳首長安。

竇泰は卒に軍の至るを聞き、<惶懼し、山に依りて陣を為さんとす。>陳は未だ成らず。帝は之を擊ち、盡く其の眾を俘え、泰を斬りて首を長安に傳う。


高昂<適陷洛州、執刺史泉企、>聞之、焚輜重而走。齊神武亦撤橋而退。<企子元禮尋復洛州、斬東魏刺史杜密。>帝乃還。

高昂は<適々洛州を陷れ、刺史たる泉企を執うるも、>之を聞き、輜重を焚きて走る。齊神武も亦た橋を撤して退く。<企の子たる元禮は尋いで洛州を復し、東魏の刺史たる杜密を斬る。>帝は乃ち還れり。


[メモ]

1、洛州は上洛が治所、関中と荊州を結ぶ経路上にあり、武関と藍田関の中間にあたる。洛陽の南を流れる洛水を西南に遡上した先にある。

▼上洛

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2、廣陽については『讀史方輿紀要』卷五十三に次のように記されている。

『通典』に「漢の櫟陽城、今の櫟陽の東北二十五里に在り」と。唐の櫟陽は即ち魏の廣陽縣なり。西魏の大統三年、高歡は魏を侵し、蒲阪に軍せり。宇文泰は廣陽に軍して以て之を御すとは、即ち此の城なりと云う。

 櫟陽は新豊の北にあたり、長安からはそれほど遠くない。

▼櫟陽

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四十四


 六月、儀同の于謹を遣わして楊氏壁を奪った。

 宇文泰は行台の廃止を願い出、文帝はふたたび前の詔命と同様に錄尚書事を授けようとしたが、宇文泰が固く断ったために沙汰止みとなった。


[原文]

六月、<遣儀同于謹取楊氏壁。>帝請罷行臺、魏帝復申前命、授帝錄尚書事、固讓乃止。

六月、<儀同たる于謹を遣りて楊氏壁*1を取らしむ。>帝は行臺*2を罷らんことを請い、魏帝は復び前命を申し、帝に錄尚書事を授くるも固く讓りて乃ち止む。


[メモ]

1、楊氏壁は『讀史方輿紀要』卷五十四華陰縣の條に次のようにある。

縣の東北にあり。後魏主たる修は永熙の末、洛陽より西のかた關中に奔り、高歓の將たる薛修義は河を渡りて楊氏壁に據り、魏の將たる薛端は擊ちて之を卻く。宇文泰は乃ち南汾州を僑置し、楊氏壁に鎮ぜしむ。胡氏は曰わく、「壁は龍門西岸なる華陰、夏陽の間にあり、蓋し華陰の諸楊の亂に遇いて壁を築きて自ら守りし處ならん」と。

薛修義は『北齊書』の伝によると河東汾陰の人であり、河東を拠点としていた。その薛修義が黄河を渡って楊氏壁に拠ったとあることから、黄河西岸にあると分かる。夏陽は汾陰の対岸にあたることから、おそらく夏陽よりそれほど離れていない場所に存在したものと推測される。

▼夏陽

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2、廃帝二年(552)に詔によって宇文泰は大行台を解任されていることから、この時には行台は廃止されなかったものと見られる。



四十五


 八月丁丑、宇文泰は李弼、獨孤信どくこ・しん、梁禦、趙貴、于謹う・きん若干惠じゃっかん・けい怡峯い・ほう劉亮りゅう・りょう王德おう・とく侯莫陳崇こうばくちん・すう李遠り・えん達奚武たっけい・ぶなど十二将を率いて出兵し、潼関に至った。

 宇文泰は士卒に誓って言った。

「おまえたち将兵と天威を奉じて暴乱を誅する。ただおまえたちはその甲兵を整え、警戒を怠らず、財物を貪って敵を軽んじず、無用の暴を振るって虚勢の威をなすな。命に従えばすなわち賞賜があり、命に従わなければすなわち刑罰がある。おまえたちはただこのことに努めよ」

 于謹を遣わして先に盤豆ばんとうまでの土地を占領してその城を抜き、東魏の部将の高叔礼こう・しゅくれいを捕らえて長安に送った。

 戊子、弘農に到着した。東魏の部将の高干、陝州刺史の李徽伯は城を守って下らなかった。ちょうど雨つづきであったが、宇文泰は諸軍に雨の中の城攻めを命じた。

 庚寅、城が陥ると東魏の陝州せんしゅう刺史の李徽伯り・きはくを捕らえ、その兵士八千を捕虜とした。守将の高千こう・せんは城から逃げて黄河を度ったが、命を受けた賀拔勝がこれも捕らえてともに長安に送った。

 この戦勝により宜陽ぎよう邵郡しょうぐんはみな西魏に降った。これに先んじて東魏に与していた河南の豪族もみな西魏に降った。


[原文]

八月丁丑、帝率李弼、獨孤信、梁禦、趙貴、于謹、若干惠、怡峯、劉亮、王德、侯莫陳崇、李遠、達奚武等十二將東伐、至潼關。

八月丁丑、帝は李弼、獨孤信、梁禦、趙貴、于謹、若干惠、怡峯、劉亮、王德、侯莫陳崇、李遠、達奚武等の十二將を率いて東伐し、潼關に至れり。


帝乃誓於師曰「

帝は乃ち師に誓いて曰わく、「


與爾有眾、奉天威、誅暴亂。

爾ら有眾と天威を奉じて暴亂を誅さん。


惟爾眾士、整爾甲兵、戒爾戎事、無貪財以輕敵、無暴人以作威。

惟た爾ら眾士は爾の甲兵を整え、爾の戎事を戒め、財を貪りて以て敵を輕んずるなく、人を暴きて以て威を作すなかれ。


用命則有賞、不用命則有戮、爾眾士其勉之」。

命を用うれば則ち賞あり、命を用いざれば則ち戮あり、爾ら眾士は其れ之に勉めよ」と。


乃遣于謹先徇地至盤豆、拔之、獲東魏將高叔禮、送于長安。

乃ち于謹を遣りて先に地を徇うること盤豆*1に至らしめて之を拔き、東魏の將たる高叔禮を獲て長安に送る。


戊子、至弘農、<東魏將高干、陝州刺史李徽伯拒守。於時連雨、太祖乃命諸軍冒雨攻之。庚寅、>城潰、禽東魏陝州刺史李徽伯、虜其戰士八千。

戊子、弘農に至る。<東魏の將たる高干、陝州刺史たる李徽伯は拒守せり。時に連雨あり、太祖は乃ち諸軍に命じて雨を冒して之を攻めさしむ。庚寅、>城は潰え、東魏の陝州刺史たる李徽伯を禽え、其の戰士八千を虜とす。


守將高千走度河、命賀拔勝追禽之、並送長安。

守將たる高千は走りて河を度り、賀拔勝に命じて追いて之を禽えしめ、並びに長安に送る。


於是宜陽、邵郡皆歸附。先是河南豪傑應東魏者、皆降。

是において宜陽*2、邵郡*3は皆な歸附せり。是に先んじて河南の豪傑の東魏に應ずる者は皆な降れり。


[メモ]

1、盤豆は潼関と弘農の間に盤豆河という河川が黄河に注いでおり、その合流点付近を指すものと見られる。

▼盤豆河

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2、宜陽は陽州宜陽郡、澠池の西、洛水の北岸にあり洛陽を指呼に臨む位置にある。

▼陽州宜陽郡宜陽縣

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3、邵郡は『讀史方輿紀要』卷四十一によると黄河北岸の垣縣えんけんを治所とする。河東から河内に跨る地域。黄河を南に渡ると澠池があり、南岸の影響を強く受けたことが分かる。

▼東雍州邵郡垣縣

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四十六


 高歓は河南の離反が波及することを恐れ、軍勢を率いて蒲坂に向かい、后土こうどから黄河を西に渡ろうとした。その部将の高昂を遣わし、三万の軍勢を率いて河南に進出させた。

 この歲、関中は飢饉にあり、宇文泰は弘農に蓄えられた兵糧に拠って五十日ほどを過ごした。この頃、軍勢は一万人を超えず、高歓が黄河を渡ろうとしていると聞くと、すぐさま関中に引きかえした。

 高歓はついに黄河を渡って華州に迫り、刺史の王羆が厳守したため、洛水沿いを進軍して許原きょげんの西に布陣した。

 宇文泰は弘農から渭水の南に到着し、関中諸州の兵を呼び寄せたがいまだ到着しなかった。高歓との決戦に臨もうとし、諸将を呼んで次のように言った。

「高歓は山を越えて河を渡り、遠来してこの地に至っている。天がこれを亡ぼそうとしているのである。我は高歓と雌雄を決するつもりだが諸将の存念は如何か?」

 諸将は衆寡敵せずと述べてしばらく高歓がさらに西に進軍するのを待ち、形勢を観望するよう請うた。

 宇文泰は「高歓がもしも咸陽に至れば、人情は必ずや騷擾するであろう。今、その到着した直後に攻撃するべきである」と言った。

 すぐさま浮橋を渭水に架け、軍士には三日分の兵糧を与え、軽騎を率いて渭水を渡り、輜重は渭水の南岸を西に退かせた。


[原文]

齊神武懼、率眾趨蒲坂、將自后土濟。遣其將高昂以三萬人出河南。

齊神武は懼れ、眾を率いて蒲坂に趨き、將に后土*1より濟らんとす。其の將たる高昂を遣りて三萬人を以て河南に出でしむ。


是歲、關中飢、帝館穀於弘農五十餘日。

是の歲、關中は飢え、帝は弘農に館穀すること五十餘日なり。


時軍士不滿萬人、聞神武將度、乃還。

時に軍士は萬人に滿たず、神武の將に度らんとするを聞き、乃ち還る。


帝至渭南、徵諸州兵、未會。

帝は渭南に至り、諸州の兵を徵するも未だ會さず。


神武遂度河、逼華州。刺史王羆嚴守、乃涉洛、軍於許原西。

神武は遂に河を度って華州*2に逼る。刺史たる王羆は嚴守し、乃ち洛*3を涉りて許原*4の西に軍せり。


將擊之、<乃召諸將謂之曰「高歡越山度河、遠來至此、天亡之時也。吾欲擊之何如」。>

將に之を擊たんとし、<乃ち諸將を召して之に謂いて曰わく、「高歡は山を越え河を度り、遠來して此に至れり。天の亡ぼすの時なり。吾れは之を擊たんと欲するは何如ならんや」と。>


諸將以眾寡不敵、請且待歡更西以觀之。

諸將は眾寡の敵せざるを以て且く歡の更に西するを待ちて以て之を觀んことを請う。


帝曰「歡若至咸陽、人情轉騷擾。今及其新至、可擊之」。

帝は曰わく「歡の若し咸陽に至らば、人情は轉た騷擾せん。今、其の新たに至るに及び、之を擊つべし」と。


即造浮橋於渭、令軍士齎三日糧、輕騎度渭、輜重自渭南、夾渭而西。

即ち浮橋を渭に造り、軍士をして三日の糧を齎らしめ、輕騎にて渭を度り、輜重は渭より南、渭を夾んで西せしむ。


[メモ]

1、后土は蒲坂の北、汾水と黄河の合流点に后土祠があり、その地を指すものと見られるが確定はできない。これに先立つ六月條で于謹に確保させた楊氏壁は后土の対岸にある夏陽付近にあたると推測されるため、東魏は后土祠がある汾陰あたりから侵入する動きを示していた可能性がある。

▼后土祠

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2、華州は後に同州と改名される。『讀史方輿紀要』卷五十四同州馮翊廢縣の條には「其の東城は正光五年に刺史たる穆弼が築けり。西城は大城と通ず。其の外城は西魏の大統元年に刺史たる王羆の築くところなり」とある。また、「春秋時の芮國なり。後に秦の並せるところとなる」ともある。

▼故芮

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3、洛は洛陽付近の河川ではなく、黄河と渭水の合流点の直前で渭水に注ぐ別の洛水を指す。しかし、この時の華州は洛水の東岸にあったと推測され、許原も東岸にあるため、洛水を渡河する必要がない。そのため、渉は「渡る」ではなく「水沿いを進む」と解釈した。

▼洛水

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4、許原は洛水の東岸に広がる原野、商原とも呼ばれた。

▼許原

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四十七


 十月壬辰、宇文泰は沙苑さえんに至り、高歓の軍勢との距離は六十余里、高歓も軍勢を率いて沙苑に入った。

 翌日、斥候がその到着を報告し、宇文泰は諸将を集めて方策を諮った。

 李弼は「彼は多く我は少なく、平地に布陣してはならない。ここから十里東には渭水の湾曲があり、先にそこを押さえて敵の到着を待つべきである」と献策した。

 その策に従って渭曲いきょくに進軍し、渭水を背に東西に布陣し、李弼は右翼、趙貴は左翼を率いた。士卒はみな武器を生い茂る葦原に伏せて見えなくし、鼓の音が聞こえると一斉に構えるよう命じた。

 日暮れ頃、高歓の軍勢が到着すると、敵は寡兵であると思いこみ、競って左翼に群がって軍列は大いに乱れた。

 両軍が接触しようとすると、宇文泰は鼓を鳴らして士卒が一斉に葦原から躍り出る。于謹たち六軍は合戰し、李弼たち右翼が鉄騎を率いて橫から攻め入り、敵軍を二分すると、ついに大破した。

 六千余級の敵を斬り、陣で投降する者は二萬人を超えた。

 高歓は夜陰に乗じて逃れ、それを黄河のまで追って再び大勝した。前後にその士卒七万人を捕虜としたが、二万人の甲兵を留めて他の者たちはすべて解放した。輜重と武器甲冑を奪い、捕虜を長安に献上した。

 李穆り・ぼくは「高歓の心肝は破れた。さらに追って虜とすべきだ」と言った。

 宇文泰はそれには従わず、渭水の南岸に引きかえした。この時、諸州から呼び寄せた軍勢がようやく到着した。

 戦場となった沙苑に配置した一人一人の兵の位置に樹一株を種えさせ、七千本の柳を植えて戦勝の記念とした。

 魏帝は宇文泰を柱国ちゅうこく大將軍だいしょうぐんに進め、食邑を増してこれまでと合わせて五千戸とした。李弼たち十二将もまた爵を進め、食邑を増した。


[原文]

十月壬辰、至沙苑、距齊軍六十餘里、神武引軍來會。

十月壬辰、沙苑*1に至り、齊軍と距るること六十餘里、神武は軍を引きて來會せり。


癸巳、候騎告齊軍至、帝召諸將謀。

癸巳、候騎は齊軍の至れるを告ぐ、帝は諸將を召して謀る。


李弼曰「彼眾我寡、不可平地置陣。此東十里、有渭曲、可先據以待之」。

李弼は曰わく、「彼は眾く我は寡し、平地に陣を置くべからず。此の東十里に渭曲あり、先に據りて以て之を待つべし」と。


遂進至渭、背水東西為陣、李弼為右拒、趙貴為左拒。命將士皆偃戈於葭蘆中、聞鼓聲而起。

遂に進みて渭に至り、水を背にして東西に陣を為し、李弼は右拒となり、趙貴は左拒となる。將士に命じて皆な戈を葭蘆の中に偃せ、鼓聲を聞きて起たしむ。


日晡、齊師至、望見軍少、競萃於左、軍亂不成列。兵將交、帝鳴鼓、士皆奮起。

日晡、齊師は至り、軍の少なきを望見し、競いて左に萃まりて軍は亂れ列を成さず。兵の將に交さんとし、帝は鼓を鳴らして士は皆な奮起せり。


于謹等六軍與之合戰、李弼等率鐵騎橫擊之、絕其軍為二、遂大破之、斬六千餘級、臨陣降者二萬餘人。

于謹等の六軍は之と合戰し、李弼等は鐵騎を率いて橫ざまに之を擊ち、其の軍を絕ちて二と為し、遂に大いに之を破り、六千餘級を斬り、陣に臨んで降れる者は二萬餘人なり。


神武夜遁、追至河上、復大剋。前後虜其卒七萬、留其甲兵二萬、餘悉縱歸。收其輜重兵甲、獻俘長安。

神武は夜に遁れ、追いて河上に至りて復た大いに剋つ。前後に其の卒七萬を虜え、其の甲兵二萬を留め、餘は悉く縱ち歸らしむ。其の輜重兵甲を收め、俘を長安に獻ず。


李穆曰「高歡膽破矣、逐之可獲」。帝不聽、乃還軍渭南。時所徵諸州兵始至。

李穆は曰わく「高歡の膽は破れり、之を逐いて獲うべし」と。帝は聽さず、乃ち軍を渭南に還せり。時に徵するところの諸州の兵は始めて至る。


乃於戰所、準當時兵、人種樹一株、栽柳七千根、以旌武功。

乃ち戰所に當時の兵に準え、人ごとに樹一株を種えしめ、柳七千根を栽えて以て武功を旌かにす。


魏帝進帝柱國大將軍、增邑并前五千戶。李弼等十二將、亦進爵增邑。

魏帝は帝を柱國大將軍に進め、邑を增して前と并せて五千戶とす。李弼等の十二將も亦た爵を進め、邑を增せり。


[メモ]

1、沙苑は沙阜とも呼ばれ、洛水の西岸、許原の対岸にあたる。

▼沙苑

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四十八 


 尚書しょうしょ左僕射さぼくや馮翊王ふうよくおう元季海げん・きかいを行臺に任じ、開府の獨孤信と二万の步騎を率いて洛陽に向かわせ、洛州刺史の李顯り・けんを荊州に向かわせ、賀拔勝と李弼に黄河を渡って蒲坂を囲ませた。

 東魏の牙門将がもんしょう高子信こう・ししんは門を開いて賀拔勝の軍勢を招き入れ、東魏の部将の薛崇禮せつ・すうれいは城を棄てて逃れたが賀拔勝は追って捕虜とした。

 宇文泰は軍勢を蒲坂に進め、河東の北の汾絳ふんこうの地を我がものとした。また、この時、東魏のために夏州に鎮守していた許和が張瓊を殺して降伏した。

 これより先、宇文泰が弘農から関中に戻ると、東魏の部将の高昂が弘農を包囲していた。蒲坂が陥ったと聞き、高昂は弘農から退いて洛陽を守った。

 獨孤信が新安しんあんまで進むと、高昂は再び逃れて黄河を北に渡り、獨孤信はついに洛陽に入った。

 東魏の潁川えいせん長史ちょうし賀若統がじゃく・とう密縣みつけんの人の張儉ちょう・けんとともに刺史の田迅でん・じんを捕らえて城ごと西魏に降った。また、滎陽けいよう鄭榮業てい・えいぎょう鄭偉てい・いたちが梁州りょうしゅうを攻め、その刺史の鹿永吉ろく・えいきつを捕らえ、清河せいかの人の崔彥穆さい・げんぼく檀琛だん・ちんは滎陽を攻め、郡守の蘇定そ・ていを捕らえ、みな西魏に降った。

 りょうちんから西の地では、東魏の将吏で投降する者が相次いだ。


[原文]

以左僕射、馮翊王元季海為行臺、與開府獨孤信帥步騎二萬向洛陽、<洛州刺史李顯趨荊州、>賀拔勝、李弼度河圍蒲坂。

左僕射、馮翊王たる元季海を以て行臺と為し、開府たる獨孤信と步騎二萬を帥いて洛陽に向かわしめ、<洛州刺史たる李顯をして荊州に趨かしめ、>賀拔勝、李弼は河を度りて蒲坂を圍む。


蒲坂鎮將高子信開門納勝軍、東魏將薛崇禮棄城走、勝等追獲之。帝進軍蒲坂、略定汾絳。

蒲坂鎮將*1たる高子信は門を開きて勝の軍を納れ、東魏の將たる薛崇禮は城を棄てて走り、勝等は追いて之を獲る。帝は軍を蒲坂に進め、略して汾、絳*2を定む。


<於是許和殺張瓊以夏州降。>

<是に於いて許和は張瓊を殺して夏州を以て降れり。>


初、帝自弘農入關後、東魏將高昂圍弘農。聞其軍敗、退守洛陽。

初め、帝は弘農より關に入るの後、東魏の將たる高昂は弘農を圍む。其の軍の敗れるを聞き、退きて洛陽を守る。


獨孤信至新安、昂復走度河、遂入洛陽。

獨孤信は新安*3に至り、昂は復た走りて河を度り、遂に洛陽に入る。


<東魏潁川長史賀若統與密縣人張儉執刺史田迅舉城降。滎陽鄭榮業、鄭偉等攻梁州、擒其刺史鹿永吉、清河人崔彥穆、檀琛攻滎陽、擒其郡守蘇定、皆來附。>

<東魏の潁川*4長史たる賀若統は密縣*5の人たる張儉と刺史の田迅を執えて城を舉げて降れり。滎陽*6の鄭榮業、鄭偉等は梁州*7を攻め、其の刺史の鹿永吉を擒え、清河*8の人たる崔彥穆、檀琛は滎陽を攻めて其の郡守の蘇定を擒え、皆な來附せり。>


自梁陳已西、將吏降者相屬。

梁・陳*9より已西、將吏の降る者は相い屬ぐ。


[メモ]

1、『周書』文帝本紀は「牙門將」に作る。蒲坂鎮はかつて存在していたもののこの時には廃止されて郡県に組み込まれており、蒲坂鎮将が存在したとは考えにくい。牙門将が正しく、薛崇礼の部下で親衛隊の一員であったと考えるのが妥当であろう。


2、汾絳は平陽から南の汾水沿岸にある絳など北絳郡に属する地を指す。

▼絳

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3、新安は澠池の西、穀水の北岸にあり、穀水沿いに下ると漢代の函谷関に至る。陝州澠池郡に含まれたと見られるが確証はない。

▼新安

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4、潁川

▼鄭州潁川郡長社

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5、密縣

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6、滎陽

▼北豫州滎陽郡滎陽

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7、梁州

『北齊書』宋顕伝には「梁州刺史たる鹿永吉は州に據りて外叛す」とあり、後文には「仍りて左衞將軍たる斛律平と共に大梁に會せり」とある。また、『魏書』地形志には「梁州、天平の初めに置く。大梁城に治す」とあり、東魏の天平年間(534-537)には大梁に東魏の梁州が置かれていたことが分かる。

▼梁州陳留郡浚儀縣(大梁城)

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8、清河

▼清河郡

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9、梁・陳は沙水沿岸の大梁と陳と考えるのが妥当であろう。

▼陳

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四十九


 ここにおいて東魏の部将の堯雄ぎょう・ゆう趙育ちょう・いく是云寶ぜうん・ほう潁川えいせんに出て、再び地を取り返そうとした。宇文泰は儀同の宇文貴うぶん・き梁遷りょう・せんたちを遣わして迎え撃ち、これを大破して趙育は投降した。

 東魏はなおも任祥を遣わして河南の軍勢を率いて堯雄と合流させ、儀同の怡峯と宇文貴、梁遷たちはふたたび攻めてこれを破った。また、都督の韋孝寬い・こうかんを遣わして豫州よしゅうを占領した。

 是云寶は東魏の揚州ようしゅう刺史の那椿な・ちんを殺し、州ごと投降した。


[原文]

於是東魏將堯雄、趙育、是云寶出潁川、欲復降地。

是において東魏の將たる堯雄、趙育、是云寶は潁川に出で、復た地を降さんと欲せり。


帝遣儀同宇文貴、梁遷等逆擊、大破之、趙育來降。

帝は儀同たる宇文貴、梁遷等を遣りて逆擊し、大いに之を破り、趙育は來降せり。


東魏復遣任祥率河南兵與堯雄合、儀同怡峯與貴、遷等復擊破之。

東魏は復た任祥を遣りて河南の兵を率いて堯雄と合し、儀同たる怡峯と貴、遷等は復た擊ちて之を破る。


又遣都督韋孝寬取豫州。是云寶殺其東揚州刺史那椿、以州來降。

又た都督たる韋孝寬を遣りて豫州*1を取る。是云寶は其の東揚州刺史*2たる那椿を殺し、州を以て來降せり。


[メモ]

1、豫州

▼豫州汝南郡懸孤縣

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2、東揚州はおそらく揚州の誤り。『北齊書』堯雄伝に「西魏は是云寶を以て揚州刺史と為し、項城に據らしむ」とあり、西魏に降った是云寶は那椿の官職を与えられてその地に拠ったと考えると、那椿は揚州刺史として項城に拠っていたものと推測される。

▼項城

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五十


 四年(538)三月、宇文泰は諸将を率いて長安に入朝し、儀礼が終わると華州に還った。

 

[原文]

四年三月、帝率諸將入朝、禮畢還華州。

四年三月、帝は諸將を率いて入朝し、禮の畢りて華州に還る。



五十一


 七月、東魏の部将の侯景たちが洛陽の獨孤信を包囲し、高歓はその後詰となった。

 これより前、文帝は洛陽に行幸して歴代皇帝の陵墓への拝謁を予定していた。宇文泰は文帝とともに穀城こくじょうに入った。東魏の莫多婁貸文ばくたろう・たいぶん可朱渾元かしゅこん・げんが迎え撃ったものの、陣に臨んで東魏の部将の莫多婁貸文を斬り、可朱渾元は単騎で逃げ延び、その士卒をことごとく捕虜とし、弘農に送った。ついに軍勢を洛陽の西の𤄊水てんすい東岸まで進めた。

 この日の夕刻、文帝は宇文泰の軍営に入り、侯景たちはその夜のうちに洛陽の包囲を解いて撤退した。

 夜が明けると、宇文泰は軽騎を率いてその後を追い、黄河の河岸に至った。侯景たちは北の河橋に拠り、南の芒山ぼうざんまで布陣して諸軍と戰った。

 宇文泰の馬が流矢にあたって驚き奔ると、士卒は大いに乱れた。都督の李穆が馬を下りてその馬を宇文泰に与え、軍勢は再び士気を高めた。

 これによって大勝し、東魏の部将の高昂、李猛り・もう宋顯そう・けんたちを斬り、その甲士一万五千人を捕虜とし、黄河に飛び込んで死ぬ者は一万人を超えた。

 この日、東魏の陣は非常に大きく、西魏の軍の首尾も遠く離れてしまい、夜明けから午後二時頃までに数十回の合戦がおこなわれた。砂埃が舞い上がって視界を塞ぎ、誰がどこにいるのかまるで分からなくなった。

 右翼の獨孤信と李遠り・えん、左翼の趙貴と怡峯は、戰ったもののともに劣勢となり、また、文帝と宇文泰の居所も分からず、その士卒を棄てて西に逃れた。

 開府の李虎と念賢ねん・けんたちは後軍となり、獨孤信たちと出会ってともに退き、同じく西に退いた。このため、西魏の軍勢は撤退し、洛陽の守備もまた失われた。

 大軍が弘農に帰りつくと、守将たちはすでにみな城を棄てて関中に逃れていた。捕虜となった東魏の士卒で弘農にいた者たちは、結託して城門を閉ざし、入城を拒んだ。

 宇文泰は軍勢を進めて城を攻めて之を拔き、その首謀者数百人を誅殺した。


[原文]

七月、東魏將侯景等圍獨孤信於洛陽、齊神武繼之。

七月、東魏の將たる侯景等は獨孤信を洛陽に圍み、齊神武は之に繼ぐ。


<先是、魏帝將幸洛陽拜園陵。>帝奉魏帝至穀城。<莫多婁貸文、可朱渾元來逆、>臨陣斬東魏將莫多婁貸文、<元單騎遁免、>悉虜其眾、送弘農。遂進軍𤄊東。<是夕、魏帝幸太祖營、>景等夜解圍去。

<是れに先んじ、魏帝は將に洛陽に幸して園陵を拜さんとす。>帝は魏帝を奉じて穀城*1に至る。<莫多婁貸文、可朱渾元の來りて逆うるに、>陣に臨みて東魏の將たる莫多婁貸文を斬り、<元は單騎にて遁げ免れ、>悉く其の眾を虜とし、弘農に送れり。遂に軍を𤄊東*2に進む。<是の夕、魏帝は太祖の營に幸し、>景等は夜に圍を解きて去る。


及旦、帝率輕騎追至河上。景等北據河橋、南屬芒山為陣、與諸軍戰。

旦に及び、帝は輕騎を率いて追いて河上に至る。景等は北のかた河橋に據り、南のかた芒山*3に屬きて陣を為し、諸軍と戰う。


帝馬中流矢、驚逸、軍中擾亂。都督李穆下馬授帝、軍復振。

帝の馬は流矢に中りて驚き逸り、軍中は擾亂せり。都督たる李穆は馬を下りて帝に授け、軍は復た振るう。


於是大捷、斬其將高昂、李猛、宋顯等、虜其甲士一萬五千人、赴河死者萬數。

是において大いに捷ち、其の將たる高昂、李猛、宋顯等を斬り、其の甲士一萬五千人を虜とし、河に赴いて死せる者萬數なり。


是日、置陣既大、首尾懸遠。從旦至未、戰數十合、氛霧四塞、莫能相知。

是の日、陣を置くこと既に大にして首尾は懸遠たり。旦より未に至るに、戰うこと數十合、氛霧は四塞し、能く相い知るなし。


獨孤信、李遠居右、趙貴、怡峯居左、戰並不利、又未知魏帝及帝所在、皆棄其卒先歸。

獨孤信、李遠は右に居り、趙貴、怡峯は左に居り、戰いて並びに利あらず、又た未だ魏帝、及び、帝の所在を知らず、皆な其の卒を棄てて先に歸せり。


開府李虎、念賢等為後軍、遇信等退、即與俱還。由是班師、洛陽亦失守。

開府*4たる李虎、念賢等は後軍と為り、信等と遇いて退き、即ち俱に還る。是に由りて師を班め、洛陽も亦た守りを失う。


大軍至弘農、守將皆已棄城西走。所虜降卒在弘農者、因相與閉門拒守。進攻拔之、誅其魁首數百人。

大軍の弘農に至るや守將は皆な已に城を棄てて西のかた走れり。虜うるところの降卒の弘農にある者は、因して相い與に門を閉ざして拒守す。進みて攻めて之を拔き、其の魁首數百人を誅せり。


[メモ]

1、穀城

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2、𤄊東は梓澤を水源とする𤄊水の東岸を指す。

▼梓澤

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3、芒山は邙山とも、洛陽の北にあたる山塊。

▼邙山

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4、開府は從第一品官、幕府の開設を許される。



五十二


 大軍が東に出陣すると、関中の留守の兵は少なく、その上、前後に捕虜とした東魏の士卒はみな市井に散在し、ついに叛乱を企てた。

 李虎たちが長安に到着してもこれを平定する計略を考え出す者はなく、太尉たいい王盟おう・めい、僕射の周惠達しゅう・けいたつとともに皇太子を輔けて渭水の北岸に逃れた。関中は大いに動揺し、市民は互いに財や食を奪い合った。

 ここにおいて沙苑で捕虜となった趙青雀ちょう・せいじゃく、雍州の人の于伏德う・ふくとくたちは遂に叛乱を起こした。趙青雀は長安の子城を占領し、于伏德は咸陽に拠り、太守の慕容思慶ぼよう・しけいとそれぞれ東魏の捕虜を糾合して西魏軍の帰還を阻んだ。

 長安の城民はみなで結束して趙青雀を拒み、連日の戦となった。

 文帝は閿郷ぶんきょうに留まり、宇文泰に反乱の平定を命じた。長安の父老たちは宇文泰を見ると、悲しみかつ喜んで「今日、再び公に見えられるとは思いませなんだ」と言い、士女はみな喜びあった。

 華州刺史の宇文導は咸陽を襲って慕容思慶を斬り、于伏德を捕らえ、渭水を南に渡って宇文泰と合流すると趙青雀を攻め破った。

 太傅たいふ梁景叡りょう・けいえいは先に病と称して長安に留まっていたが、ついに趙青雀と共謀したため、この時また誅殺され、関中はようやく落ち着きを取り戻した。

 文帝は長安に還り、宇文泰はまた華州の駐屯地に戻った。


[原文]

大軍之東伐也、關中留守兵少、而前後所虜東魏士卒、皆散在百姓間、乃謀亂。

大軍の東伐するや、關中の留守の兵は少なく、而して前後に虜うるところの東魏の士卒は皆な百姓の間に散在し、乃ち亂を謀る。


及李虎等至長安、計無所出、乃與太尉王盟、僕射周惠達輔魏太子出次渭北。關中大震恐、百姓相剽劫。

李虎等の長安に至るに及び、計の出ずるところなく、乃ち太尉*1たる王盟、僕射たる周惠達と魏の太子を輔けて出でて渭北に次る。關中は大いに震恐し、百姓は相い剽劫せり。


於是沙苑所俘軍人趙青雀、雍州人于伏德等遂反。青雀據長安子城、伏德保咸陽、與太守慕容思慶各收降卒、以拒還師。

是において沙苑に俘うるところの軍人たる趙青雀、雍州の人たる于伏德等は遂に反く。青雀は長安の子城に據り、伏德は咸陽を保ち、太守たる慕容思慶と各々降卒を收め、以て還師を拒む。


長安城人皆相率拒青雀、每日接戰。魏帝留止閿鄉、令帝討之。

長安城の人は皆な相い率いて青雀を拒み、每日接戰せり。魏帝は閿鄉*2に留止し、帝をして之を討たしむ。


長安父老見帝、且悲且喜曰「不意今日、復得見公」、士女咸相賀。

長安の父老は帝を見て、且つ悲しみ且つ喜びて曰わく「意わず、今日復た公に見えるを得るとは」と。士女は咸な相い賀せり。


華州刺史宇文導襲咸陽、斬思慶、禽伏德、南度渭、與帝會、攻破青雀。

華州刺史たる宇文導は咸陽を襲い、思慶を斬り、伏德を禽え、南して渭を度り、帝と會して攻めて青雀を破る。


太傅梁景叡先以疾留長安、遂與青雀通謀、至是亦伏誅、關中乃定。

太傅*3たる梁景叡は先に疾を以て長安に留まり、遂に青雀と通謀し、是に至りて亦た誅に伏し、關中は乃ち定まる。


魏帝還長安、帝復屯華州。

魏帝は長安に還り、帝は復た華州に屯せり。


[メモ]

1、太尉は司徒、司空と並ぶ三公の一にあたる一品官で主に軍事を担当するが西魏ではほぼ形骸化していた。


2、閿鄉

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3、太傅は三師の一にあたる一品官、皇帝の顧問にあたる。



五十三


<この節はすべて『周書』による。>

冬十一月、東魏の部将の侯景が広州を攻めて陷れた。


[原文]

冬十一月、東魏將侯景攻陷廣州。

冬十一月、東魏の將たる侯景は攻めて廣州*1を陷れる。


[メモ]

1、廣州は北魏の頃に魯陽を治所としたが北魏末の争乱にあって襄城に移っており、ここが侯景が攻めた城は襄城と推測される。

▼襄城

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五十四


 十二月、是云寶が洛陽を襲い、東魏の部将の王元軌おう・げんきは城を棄てて逃れた。都督の趙剛ちょう・ごうは広州を襲って城を拔き、襄広から西の城鎮は再び西魏に従った。


[原文]

十二月、是云寶襲洛陽、東魏將王元軌棄城走。

十二月、是云寶は洛陽を襲い、東魏の將たる王元軌は城を棄てて走る。


都督趙剛襲廣州拔之、自襄、廣以西城鎮復西屬。

都督たる趙剛は廣州を襲いて之を拔き、襄廣*1より以西の城鎮は復た西に屬せり。


[メモ]

1、襄廣は葉に置かれた襄州と襄城に置かれた広州を指すものと推測される。

▼葉

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五十五


 五年(539)冬、華陰で大規模な閲兵をおこなった。


[原文]

五年冬、大閱於華陰。

五年冬、大いに華陰に閱す。



五十六


 六年(540)春、東魏の部将の侯景は三鵶さんあに出て、荊州を侵そうとした。帝は開府の李弼と獨孤信を遣わし、各々騎兵を率いて武関ぶかんを出ると、侯景は軍勢を退いた。


[原文]

六年春、東魏將侯景出三鵶、將侵荊州、帝遣開府李弼、獨孤信各率騎出武關、景乃還。

六年春、東魏の將たる侯景は三鵶*1に出で、將に荊州を侵さんとし、帝は開府たる李弼、獨孤信を遣りて各々騎を率いて武關*2を出で、景は乃ち還る。


[メモ]

1、三鵶は『讀史方輿紀要』卷四十六に「今、三鵶路は南陽府より北六十里に故向城あり、又た北して石川路(一名百重山)あり。即ち三鵶の第一なり。府の北七十里の分水嶺より北、即ち三鵶の第二なり。故向城より北して又た八十里にあり、魯山縣界に入る。即ち三鵶の第三なり」とあり、おそらく南陽から北に向かって魯陽関水沿いに分水嶺を抜けて魯陽関まで至る経路であると見られる。


▼南陽郡

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▼魯陽関水

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▼魯陽関

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2、武關

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五十七


 夏、蠕蠕ぜんぜんは黄河を南に渡って夏州まで下り、宇文泰は諸軍とともに沙苑に駐屯してさらなる南下に備えた。


[原文]

夏、蠕蠕度河至夏州、帝召諸軍屯沙苑以備之。

夏、蠕蠕*1は河を度りて夏州に至り、帝は諸軍を召して沙苑に屯して以て之に備う。


[メモ]

1、蠕蠕は柔然を言う。北魏は柔然を蔑視しており、ゆえに蠕蠕という文字をあてた。なお、南朝では茹茹じょじょという字をあてている。



五十八

<この節はすべて『周書』による。>


七年(541)春三月、稽胡の酋長にして夏州刺史の劉平伏が上郡に拠って背き、開府の于謹を遣わしてこれを平定させた。


[原文]

七年春三月、稽胡帥、夏州刺史劉平伏據上郡叛、遣開府于謹討平之。

七年春三月、稽胡帥、夏州刺史たる劉平伏は上郡に據りて叛き、開府たる于謹を遣りて討ちて之を平ぐ。



五十九


 十一月、宇文泰は文帝に上奏して十二條制じゅうにじょうせいを施行した。百官が職務に精励しないのではないかと危惧し、ふたたび令を下してその意図を説明したのである。


[原文]

七年十一月、帝奏行十二條制、恐百官不勉於職事、又下令申明之。

七年十一月、帝は奏して十二條制*1を行う、百官の職事に勉めざるを恐れ、又た令を下して之を申明せり。


[メモ]

1、十二條制は先の二十四條制と同じく律令格式の施行細則にあたる式に相当するものであるらしいが原文を残さない。



六十

<この節はすべて『周書』による。>


 八年(542)夏四月、諸軍を馬牧に集めた。


[原文]

八年夏四月、大會諸軍於馬牧。

八年夏四月、大いに諸軍を馬牧*1に會す。


[メモ]

『周書』によると高平など隴山の麓に官馬の牧があったようであるが場所は特定できない。



六十一


 十月、高歓は南下して汾絳の地に侵入し、玉壁城ぎょくへきじょうを包囲した。

 宇文泰は軍勢を蒲坂に出し、皂莢そうきょうに至る頃に、高歓は軍勢を退き、汾水を渡ってその後を追ったがついに逃げ去った。


[原文]

八年十月、齊神武侵汾絳、圍玉壁。帝出軍蒲坂、<軍至皂莢、>神武退、度汾追之、遂遁去。

八年十月、齊神武は汾絳を侵し、玉壁*1を圍む。帝は軍を蒲坂に出し、<軍の皂莢*2に至るに、>神武は退き、汾を度りて之を追うも、遂に遁去せり。


[メモ]

1、玉壁は稷山縣の西南にあったとされる。

▼稷山縣

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2、皂莢

『讀史方輿紀要』卷四十一蒲州皂莢戍では蒲坂の東にあったとするが不詳。



六十二


 十二月、文帝は華陰で狩猟をおこない、その場で大いに士卒に宴席を賜った。宇文泰は諸将とともに行在所あんざいしょに伺った。


[原文]

十二月、魏帝狩於華陰、大饗將士。帝帥諸將、朝於行在所。

十二月、魏帝は華陰に狩し、大いに將士を饗す。帝は諸將を帥い、行在所に朝せり。



六十三


 九年(543)二月、東魏の北豫州ほくよしゅう刺史の高慎こう・しんが州を挙げて投降し、宇文泰は軍勢を率いてその迎えに行った。開府の李遠が前軍を務めた。

 洛陽に到着すると、開府の于謹を遣わして栢谷塢はくこくうを攻め、これを落とした。


[原文]

九年二月、東魏北豫州刺史高慎舉州來附、帝帥師迎之、<令開府李遠為前軍。>

九年二月、東魏の北豫州刺史*1たる高慎は州を舉げて來附し、帝は師を帥いて之を迎う。<開府たる李遠をして前軍たらしむ。>


<至洛陽、遣開府于謹攻栢谷塢、拔之。>

<洛陽に至り、開府たる于謹を遣りて栢谷塢*2を攻め、之を拔かしむ。>


[メモ]

1、北豫州は虎牢関がある成皋せいこうを治所とした。

▼成皋

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2、栢谷塢

『宋書』王鎮悪伝によると「鎮惡は賊境に入り、戰いて捷たざるなく、邵陵、許昌は風を望んで奔散し、虎牢、及び、栢谷塢を破り、賊帥たる趙玄を斬る」とあり、それから洛陽に入っていることから洛陽と虎牢の間にあると分かる。また、『魏書』咸陽王禧伝には「洛水を渡り、栢谷塢に至る」と洛水の南岸にあることが示唆される。以上より推して『水経注』のおいては百谷塢と表記されているもの同一であると考えられる。

▼百谷塢

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六十四


 三月、高歓が黄河北岸に到着した。宇文泰は軍を𤄊水沿岸に退け、高歓をさらに進ませようとした。高歓は果たして黄河を南に渡り、芒山に拠って布陣し、數日に渡ってそこに留まっていた。

 宇文泰は輜重を𤄊水の湾曲部に留め、軍士は木片を口にくわえ、夜陰に乗じて芒山を登り、未明に攻撃した。

 高歓は単騎で賀拔勝に追われたものの、わずかに身を免れた。宇文泰は右軍の若干惠を率い、大いに東魏軍を破り、その步卒をことごとく捕虜とした。

 趙貴たち五将軍は左翼にあり、戰ったものの不利となった。高歓はふたたび合戰し、宇文泰もまた不利となり、夜に軍勢を退いた。

 関中に入ると渭水のほとりに軍勢を駐屯させた。

 高歓は陝まで軍勢を進めたが、開府の達奚武たちがその進軍を防ぎ、ようやく引き返した。

 宇文泰は芒山で諸将が軍律を失ったことを理由に、自ら上表して降格を願い出たが、文帝はそれを許さなかった。

 ここにおいて広く関中、隴西の豪族を募って軍旅を増員した。


[原文]

三月、齊神武<至河北。太祖還軍𤄊上以引之。齊神武果度河、>據芒山陣、不進者數日。帝留輜重於𤄊曲、軍士銜枚、夜登芒山、未明擊之。

三月、齊神武は<河北に至れり。太祖は軍を𤄊上に還して以て之を引き、齊神武は果たして河を度り、>芒山に據りて陣し、進まざること數日なり。帝は輜重を𤄊曲に留め、軍士は枚を銜え、夜に芒山を登り、未明に之を擊つ。


神武單騎為賀拔勝所逐、僅免。帝率右軍若干惠、大破神武軍、悉虜其步卒。

神武は單騎にて賀拔勝の逐うところと為り、僅かに免る。帝は右軍の若干惠を率い、大いに神武の軍を破り、悉く其の步卒を虜とす。


趙貴等五將軍居左、戰不利。神武復合戰、帝又不利、夜引還。入關、屯渭上。

趙貴等五將軍は左に居り、戰いて利あらず。神武は復た合戰し、帝も又た利あらず、夜に引き還す。關に入り、渭上に屯せり。


神武進至陝、開府達奚武等禦之、乃退。

神武は進みて陝に至るも、開府たる達奚武等は之を禦ぎ、乃ち退く。


帝以芒山諸將失律、上表自貶、魏帝不許。於是廣募關、隴豪右、以增軍旅。

帝は芒山に諸將の律を失うを以て、上表して自ら貶するも、魏帝は許さず。是において廣く關隴の豪右を募り、以て軍旅を增せり。



六十五


 十月、櫟陽れきようで大規模な閲兵をおこない、駐屯地の華州に還った。


[原文]

十月、大閱於櫟陽、還屯華州。

十月、大いに櫟陽*1に閱し、還りて華州に屯せり。


[メモ]

1、櫟陽

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六十六


 十年(544)五月、宇文泰は長安に入朝した。


[原文]

十年五月、帝朝京師。

十年五月、帝は京師に朝せり。



六十七


 七月、文帝は宇文泰が前後に上奏した二十四條と十二條の新制を中興ちゅうこう永式えいしきとし、尚書の蘇綽そ・しゃくに命じてさらに改訂させ、あわせて五卷として天下に班布した。

 ここにおいて賢才を選んで州牧、郡守、県令に任じ、新制を習わせてから任地に向かわせた。

 数年の間、百姓はこれを便益があるとした。


[原文]

七月、魏帝以帝前後所上二十四條及十二條新制、方為中興永式、命尚書蘇綽更損益之、總為五卷、班於天下。於是搜簡賢才為牧、守、令、習新制而遣焉。數年間、百姓便之。

七月、魏帝は帝の前後に上るところの二十四條、及び、十二條の新制を以て、方に中興永式と為し、尚書たる蘇綽に命じて更に之を損益せしめ、總べて五卷と為し、天下に班す。是において賢才を搜簡して牧、守、令と為し、新制を習わしめてこれを遣る。數年の間、百姓は之を便とせり。



六十八


 十月、白水はくすいで大規模な閲兵をおこなった。


[原文]

十月、大閱於白水。

十月、大いに白水*1に閱せり。


[メモ]

1、白水の場所は詳らかではない。ただし、次の記事より見て岐陽よりも東にあることは確定できるため、梁州の白水郡ではない。



六十九


 十一年(545)十月、白水で大規模な閲兵をおこない、さらに西の岐陽ぎようで狩猟をおこなった。


[原文]

十一年十月、大閱于白水、遂西狩岐陽。

十一年十月、大いに白水に閱し、遂に西のかた岐陽*1に狩す。


[メモ]

1、岐陽は岐山の南麓を指す。

▼岐山

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七十


 十二年(546)春、涼州刺史の宇文仲和うぶん・ちゅうわが州に拠って背き、瓜州の人の張保ちょう・ほが刺史の成慶せい・けいを殺してそれに応じ、宇文泰は開府の獨孤信を遣わしてこれを討たせた。

 東魏の部将の侯景が襄州じょうしゅうに侵入し、宇文泰は開府の若干惠を遣わして防がせ、じょうにまで至ると侯景は軍勢を退いた。


[原文]

十二年春、涼州刺史宇文仲和據州反、瓜州人張保害刺史成慶以應之、帝遣開府獨孤信討之。

十二年春、涼州刺史たる宇文仲和は州に據りて反き、瓜州の人たる張保は刺史たる成慶を害して以て之に應じ、帝は開府たる獨孤信を遣りて之を討たしむ。


東魏將侯景侵襄州、帝遣開府若干惠禦之、至穰、景遁去。

東魏の將たる侯景は襄州を侵し、帝は開府たる若干惠を遣りて之を禦がしめ、穰*1に至り、景は遁去せり。


[メモ]

1、穰

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七十一


 五月、獨孤信は涼州を平定し、宇文仲和を捕らえてその百姓六千余家を長安に移住させた。瓜州都督の令狐延れいこ・えんは兵を集めて張保を誅殺し、瓜州も平定された。


[原文]

五月、獨孤信平涼州、禽仲和、遷其百姓六千餘家於長安。瓜州都督令狐延起義誅張保、瓜州平。

五月、獨孤信は涼州を平げ、仲和を禽え、其の百姓六千餘家を長安に遷す。瓜州都督たる令狐延は起義して張保を誅し、瓜州は平らぐ。



七十二


 七月、宇文泰は諸軍を咸陽に集結させた。


[原文]

七月、帝大會諸軍於咸陽。

七月、帝は大いに諸軍を咸陽に會せり。



七十三

<この節はすべて『周書』による。>


 九月、高歓は河東の玉壁城を包囲した。大都督の韋孝寬い・こうかんが力戰して堅守し、高歓は六十日に渡って包囲したが城を落とせず、東魏軍の士卒の死者は十人中二、三人にのぼるほどであった。

 たまたま高歓が病にかかり、軍営を焼いて撤退した。


[原文]

九月、齊神武圍玉壁、大都督韋孝寬力戰拒守、齊神武攻圍六旬不能下、其士卒死者什二三。

九月、齊神武は玉壁を圍み、大都督たる韋孝寬は力戰して拒守し、齊神武は攻圍すること六旬なるも下すあたわず、其の士卒の死せる者は什に二、三なり。


會齊神武有疾、燒營而退。

會々齊神武に疾あり、營を燒きて退けり。




七十四


 十三年(547)正月、柔然が高平を襲い、方城*1にまで至った。

 この月、高歓が世を去った。その子の高澄こう・ちょうが後を継ぎ、これを北斉の文襄帝ぶんじょうていと呼ぶ。その河南大行臺*1の侯景との間に隙が生じ、侯景は不安になって河南六州を挙げて西魏に投降し、東魏軍によって潁川で包囲された。

 六月、宇文泰は開府の李弼を援軍として遣わし、東魏の部将の韓軌たちは逃げ去った。侯景はついに本拠地を豫州に移した。

 ここにおいて開府の王思政おう・しせいを遣わして潁川を占領させ、李弼は軍勢を引いて帰還した。


[原文]

十三年正月、<茹茹寇高平、至于方城。>

十三年正月、<茹茹は高平に寇し、方城に至れり。>


<是月、齊神武薨。其子澄嗣、是為文襄帝。與其河南大行臺侯景有隙、景不自安、>東魏河南大行臺侯景舉河南六州來附、被圍於潁川。

<是の月、齊神武は薨ぜり。其の子たる澄は嗣ぎ、是れ文襄帝たり。其の河南大行臺*1たる侯景と隙あり、景は自ら安んぜず、>東魏の河南大行臺たる侯景は河南六州を舉げて來附し、潁川に圍まる。


六月、帝遣開府李弼援之、東魏將韓軌等遁去。景遂徙鎮豫州。

六月、帝は開府たる李弼を遣りて之を援けしめ、東魏の將たる韓軌等は遁去せり。景は遂に鎮を豫州に徙す。


於是遣開府王思政據潁川、弼引軍還。

是において開府たる王思政を遣りて潁川に據らしめ、弼は軍を引きて還る。


[メモ]

1、方城の場所は不詳、高平の北には長城があるため、誤記かとも思われる。


2、河南大行臺、この時、侯景は東魏の大行台として河南の全権を握っていた。



七十五


 七月、侯景は密かに梁に投降しようと企て、宇文泰はその陰謀を知って前後に侯景に従わせた将兵を帰還させ、侯景は恐れてついに西魏から離反した。


[原文]

七月、侯景密圖附梁、帝知其謀、悉追還前後所配景將士、景懼、遂叛。

七月、侯景は密かに梁に附かんと圖り、帝は其の謀を知り、悉く前後に景に配するところの將士を追還し、景は懼れて遂に叛けり。



七十六


 冬、宇文泰は文帝を擁して西の咸陽で狩猟をおこなった。


[原文]

冬、帝奉魏帝西狩咸陽。

冬、帝は魏帝を奉じて西のかた咸陽に狩す。



七十七


 十四年(548)春、文帝は詔して宇文泰の長子の宇文毓うぶん・いくを封じて寧都郡公ねいとぐんこうとした。

 初め、宇文泰は元顥を平げて孝莊帝を洛陽に迎えた軍功によって寧都縣子に封じられた。ここに至って改めて以て郡として宇文毓を封建し、勤王の始まりを顕彰したのである


[原文]

十四年春、魏帝詔封帝長子毓為寧都郡公。

十四年春、魏帝は詔して帝の長子たる毓を封じて寧都郡公と為す。


初、帝以平元顥納孝莊帝功、封寧都縣子、至是、改以為郡、以封毓、用彰勤王之始也。

初め、帝は元顥を平げて孝莊帝を納れるの功を以て、寧都縣子に封じられ、是に至り、改めて以て郡と為し、以て毓を封じ、用て勤王の始めを彰かにするなり。



七十八


 五月、文帝は宇文泰の官を太師たいしに進ませた。宇文泰は皇太子を奉じて西の国境を巡撫し、隴山に登り、石を刻んで事績を記した。

 そこから原州に至り、北の長城をめぐって大規模な狩猟をおこない、東の五原ごげんから蒲川ほせんに至り、文帝の病臥を知ると長安に帰った。

 長安に到着すると、文帝の病はすでに快癒しており、華州の駐屯地に帰った。


[原文]

五月、魏帝進帝位太師。帝奉魏太子巡撫西境、登隴、刻石紀事。

五月、魏帝は帝の位を太師に進ましむ。帝は魏の太子を奉じて西境を巡撫し、隴に登り、石を刻みて事を紀す。


遂至原州、歷北長城、大狩、東趣五原、至蒲川、聞魏帝不豫而還。

遂に原州に至り、北長城を歷し、大いに狩し、東のかた五原*1に趣き、蒲川*2に至り、魏帝の不豫を聞きて還る。


及至、魏帝疾已愈、乃還華州。

至るに及び、魏帝の疾は已に愈え、乃ち華州に還る。


[メモ]

1、五原

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2、蒲川は高平から五原に向かう経路上に存在することを考えると、洛水に注ぐ蒲川水を指すのではないかと推測されるが、確定しがたい。

▼蒲川水

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七十九


 この歲、東魏の部将の高岳こう・がく慕容紹宗ぼよう・しょうそう劉豐生りゅう・ほうせいたちが潁川の王思政を包囲した。


[原文]

是歲、東魏將高岳<、慕容紹宗、劉豐生等>圍王思政於潁川。

是の歲、東魏の將たる高岳<、慕容紹宗、劉豐生等>は王思政を潁川に圍む。



八十


 十五年(549)春、宇文泰は王思政の援軍として大将軍の趙貴を遣わし、趙貴は穰に到着すると、東南諸州の兵を指揮して王思政の救援に向かった。

 高岳は洧水いすいに堰をして溢れる水を潁川城に灌ぎ、潁川以北はすべて沼沢となり、援軍は城に入れなかった。

 六月、潁川が失陥した。


[原文]

十五年春、帝遣大將軍趙貴帥師援王思政<、至穰、兼督東南諸州兵以援思政>。

十五年春、帝は大將軍たる趙貴を遣りて師を帥いて王思政を援けしめ、<穰*1に至り、兼ねて東南諸州の兵を督して以て思政を援く。>


高岳堰洧水以灌城、潁川以北皆為陂澤、救兵不得至。

高岳は洧水*2を堰して以て城に灌ぎ、潁川以北は皆な陂澤と為り、救兵は至るを得ず。


六月、潁川陷。

六月、潁川は陷れり。


[メモ]

1、穰

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2、洧水

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八十一


 これより先、侯景は建鄴けんぎょうを包囲し、梁の司州ししゅう刺史の柳仲禮りゅう・ちゅうれいが台城に赴くと、梁の竟陵きょうりょう郡守の孫暠そん・こうは郡を挙げて投降し、宇文泰は大都督の苻貴ふ・きを鎮守させた。

 建鄴が陷って柳仲禮が司州に還ると竟陵に攻め寄せ、孫暠は郡を挙げて再び背き、宇文泰は激怒した。


[原文]

初、侯景圍建鄴、梁司州刺史柳仲禮赴臺城、梁竟陵郡守孫暠以郡內附、帝使大都督苻貴鎮之。

初め、侯景は建鄴*1を圍み、梁の司州刺史たる柳仲禮は臺城に赴き、梁の竟陵*2郡守たる孫暠は郡を以て內附し、帝は大都督たる苻貴をして之に鎮ぜしむ。


及建鄴陷、仲禮還司州、來寇、暠以郡叛、帝大怒。

建鄴の陷るに及び、仲禮は司州に還り、來寇し、暠は郡を以て叛し、帝は大いに怒れり。


1、建鄴は梁の国都。


2、竟陵

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八十二


 十一月、開府の楊忠よう・ちゅうを遣わして隨州ずいしゅうを占領し、さらに軍を進めて安陸あんりくで柳仲禮の長史の馬岫ば・しゅうを包囲した。


[原文]

十一月、遣開府楊忠攻剋隨州、進圍仲禮長史馬岫於安陸。

十一月、開府たる楊忠を遣りて攻めて隨州*1を剋くし、進みて仲禮の長史たる馬岫を安陸*2に圍む。


[メモ]

1、隨州は隨郡に置かれた。

▼隨郡

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2、安陸

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八十三

<この節はすべて『周書』による。>


この歲、盗賊がぎょうで高澄を殺し、その弟の高洋こう・ようは盗賊を討って捕らえ、これによりその跡を嗣いだ。これが北斉の文宣帝である。


[原文]

是歲、盜殺齊文襄於鄴、其弟洋討賊、擒之、仍嗣其事、是為文宣帝。

是の歲、盜は齊文襄を鄴に殺し、其の弟たる洋は賊を討ち、之を擒え、仍りて其の事を嗣ぐ。是れ文宣帝たり。



八十四


 十六年(550)正月、柳仲禮は安陸の援軍に駆けつけ、楊忠は漴頭そうとうで迎え撃ってこれを大破し、柳仲禮を捕らえた。馬岫は城を挙げて降伏した。

 三月、文帝は宇文泰の第二子の宇文震うぶん・しんを封建して武邑公ぶゆうこうとした。

 これより以前、梁の雍州刺史、岳陽王の蕭詧しょう・さつはその叔父の荊州刺史、湘東王の蕭繹しょう・えきと不仲であったため、属国と自称して保護を求め、世子の蕭嶚しょう・りょうを遣わして人質としていた。楊忠が柳仲礼を捕らえると、蕭繹は恐れてこれも子の蕭方平しょう・ほうへいを入朝させた。


[原文]

十六年正月、仲禮來援安陸、楊忠逆擊於漴頭、大破之、禽仲禮。馬岫以城降。

十六年正月、仲禮は來りて安陸を援け、楊忠は漴頭*1に逆擊し、大いに之を破り、仲禮を禽う。馬岫は城を以て降れり。


三月、魏帝封帝第二子震為武邑公。

三月、魏帝は帝の第二子たる震を封じて武邑公と為す。


<先是、梁雍州刺史、岳陽王詧與其叔父荊州刺史、湘東王繹不睦、乃稱蕃來附、遣其世子嶚為質。及楊忠擒仲禮、繹懼、復遣其子方平來朝。>

<是れより先、梁の雍州刺史、岳陽王たる詧*2は其の叔父たる荊州刺史、湘東王の繹*3と睦まじからず、乃ち蕃を稱して來附し、其の世子たる嶚*4を遣して質を為す。楊忠の仲禮を擒えるに及び、繹は懼れ、復た其の子の方平*5を遣りて來朝せしむ。>


[メモ]

1、漴頭は『讀史方輿紀要』卷七十七德安府安陸縣漴頭鎮に「城の西北二十里、亦た潼頭と曰い、溳水うんすいの別名なり」とある。

▼溳水

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2、蕭詧は以下の系図を参照のこと。

3、蕭繹は以下の系図を参照のこと。

4、蕭嶚は以下の系図を参照のこと。

5、蕭方平は以下の系図を参照のこと。


 蕭順之┬蕭懿─蕭淵明(閔帝)

    └蕭衍┬蕭統(昭明太子)┬蕭歓─蕭棟(廃帝)

       │        └蕭詧(後梁宣帝)─蕭嶚

       ├蕭綜

       ├蕭綱(簡文帝)

       ├蕭績

       ├蕭続

       ├蕭綸

       ├蕭繹(元帝)┬蕭方等─蕭荘(永嘉王)

       │      ├蕭方智(敬帝)

       │      └蕭方平(蕭方略とも)

       └蕭紀



八十五

<この節はすべて『周書』による。>


夏五月、高洋は東魏帝の元善見を廃して自ら皇帝に即位した。


[原文]

夏五月、齊文宣廢其主元善見而自立。

夏五月、齊文宣は其の主たる元善見を廢して自立せり。



八十六


 七月、宇文泰は東に出兵し、章武公しょうぶこうの宇文導を大将軍に任じて留守の諸軍の総督とし、涇水の北に駐屯して関中を鎮守させた。

 九月丁巳、軍は長安を出発した。秋から冬まで雨がつづき、諸軍の馬や驢馬が多く死んだ。ついに弘農の北に橋を造りて黄河を渡り、蒲坂から関中に還った。

 ここにおいて河南は洛陽から、河北は平陽へいようから東はついに斉の領地となった。


[原文]

七月、帝東伐、拜章武公導為大將軍、總督留守諸軍、屯涇北、鎮關中。

七月、帝は東伐し、章武公たる導を拜して大將軍と為し、留守の諸軍を總督せしめ、涇北に屯して關中を鎮ぜしむ。


九月丁巳、軍出長安。連雨、自秋及冬、諸軍馬驢多死。遂於弘農北造橋濟河、自蒲坂還。

九月丁巳、軍は長安を出ず。連雨は秋より冬に及び、諸軍の馬驢は多く死せり。遂に弘農の北に橋を造りて河を濟り、蒲坂より還る。


於是河南自洛陽、河北自平陽以東、遂入齊。

是において河南は洛陽より、河北は平陽*1以東、遂に齊に入る。


[メモ]

1、平陽

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八十七


 十七年(551)三月、魏の文帝が崩御し、皇太子が位を嗣いだ。宇文泰は冢宰ちょうさいとして軍国の政を統べた。

 梁の邵陵王の蕭綸しょう・りんが安陸を攻め、大将軍の楊忠が討って蕭綸を捕らえた。


[原文]

十七年三月、魏文帝崩、皇太子嗣位、帝以冢宰總百揆。

十七年三月、魏の文帝は崩じ、皇太子は位を嗣ぎ、帝は冢宰*1を以て百揆を總ぶ。


<梁邵陵王蕭綸侵安陸,大將軍楊忠討擒之。>

<梁の邵陵王たる蕭綸*2は安陸を侵し、大將軍たる楊忠は討ちて之を擒う。>


[メモ]

1、冢宰は六官における天官府の長、丞相に相当する。

2、蕭綸は八十四の系図を参照のこと。



八十八


 十月、宇文泰は大将軍の王雄を遣わして子午谷しごこくより南に出て、上津じょうしん魏興ぎこうを攻めさせ、大将軍の達奚武に散関さんかんを出で、南鄭なんていを攻めさせた。


[原文]

十月、帝遣大將軍王雄出子午、伐上津、魏興、大將軍達奚武出散關、伐南鄭。

十月、帝は大將軍たる王雄を遣りて子午*1より出て、上津*2、魏興*3を伐たしめ、大將軍たる達奚武は散關*4より出で、南鄭*4を伐たしむ。


[メモ]

1、子午は子午谷を指す。

▼子午谷

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2、上津は『讀史方輿紀要』卷七十九に「漢の商、錫二縣の地なり。北上洛郡を置く。齊は之に因る。梁は始めて上津縣を置き、尋いで改めて南洛州を置き、兼ねて上津郡を置く。西魏の大統の末、宇文泰は將の王雄を遣りて道を分かちて子午谷を出でしめ、上津を拔き、因りて改めて上州と曰う」とあり、漢水沿岸の錫に置かれたと考えるのがよいものと見られる。

▼錫

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3、魏興

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4、散關は陳倉の西にある大散関、関中から漢中に向かう入口にあたる。

▼大散関

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5、南鄭

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八十九


 廃帝元年(551)春、王雄は上津、魏興を平定し、その地に東梁州とうりょうしゅうを置いた。


[原文]

廢帝元年春、王雄平上津、魏興、以其地置東梁州。

廢帝*1元年春、王雄は上津、魏興を平げ、其の地を以て東梁州を置く。


[メモ]

1、廢帝は西魏文帝の長男である元欽げん・きん



九十


 四月、達奚武は南鄭を包囲し、一カ月余で梁州刺史の宜豊侯ぎほうこう蕭脩しょう・しゅうは州を挙げて投降した。


[原文]

四月、達奚武圍南鄭、月餘、梁州刺史宜豐侯蕭脩以州降武。

四月、達奚武は南鄭を圍み、月餘にして梁州刺史たる宜豐侯の蕭脩*1は州を以て武に降れり。


[メモ]

1、宜豐侯の蕭脩は梁武帝蕭衍の弟の蕭恢しょう・かいの子。蕭循しょう・じゅんと書かれる場合が多い。



九十一


 八月、東梁州の州民が州城を包囲し、宇文泰はふたたび王雄を遣わして討たせた。


[原文]

八月、東梁州百姓圍州城、帝復遣王雄討之。

八月、東梁州の百姓は州城を圍み、帝は復た王雄を遣りて之を討たしむ。



九十二

<この節はすべて『周書』による。>


 侯景は建業を陥れると、梁武帝を奉じて主と仰いだ。それより數旬して梁武帝は憤りのあまり世を去った。侯景は梁武帝の子の蕭綱を皇帝に擁立し、ついで蕭綱を廃して自らが皇帝に即位した。

 一年あまりが過ぎ、蕭綱の弟の蕭繹は侯景を討って捕らえ、その舍人の魏彥を遣わして江陵で皇帝位に即位することを報せてきた。これが元帝である。


[原文]

侯景之克建業也、還奉梁武帝為主。居數旬、梁武以憤恚薨。景又立其子綱、尋而廢綱自立。

侯景の建業を克くするや、還りて梁武帝を奉じて主と為す。居ること數旬、梁武は憤恚を以て薨ぜり。景は又た其の子たる綱*1を立て、尋いで綱を廢して自立せり。


歲餘、綱弟繹討景、擒之、遣其舍人魏彥來告、仍嗣位於江陵、是為元帝。

歲餘にして、綱の弟たる繹は景を討ちて之を擒え、其の舍人たる魏彥を遣りて來りて告げ、仍りて位を江陵に嗣ぐ。是れ元帝たり。


[メモ]

1、蕭綱は八十四の系図を参照のこと。



九十二


 廃帝二年(552)正月、魏帝は宇文泰に詔して左丞相さじょうしょう、大行臺、都督中外諸軍事に任じた。

 二月、東梁州は平定され、その地の豪族を雍州に移住させた。


[原文]

二年正月、魏帝詔帝為左丞相、大行臺、都督中外諸軍事。

二年正月、魏帝は帝に詔して左丞相、大行臺、都督中外諸軍事と為す*1。


二月、東梁州平、遷其豪帥於雍州。

二月、東梁州は平らぎ、其の豪帥を雍州に遷せり。


[メモ]

1、『周書』には「二年春、魏帝は太祖に詔して丞相、大行臺を去り、都督中外諸軍事と為す」とあり、齟齬がある。



九十三


 三月、宇文泰は大将軍、魏安公ぎあんこう尉遅迥うつち・けいの軍勢を遣わしてしょくに拠る梁の武陵王ぶりょうおう蕭紀しょうきを討たせた。


[原文]

三月、帝遣大將軍、魏安公尉遲迥帥師伐梁武陵王蕭紀於蜀。

三月、帝は大將軍、魏安公たる尉遲迥を遣りて師を帥いて梁の武陵王たる蕭紀*1を蜀に伐たしむ。


[メモ]

1、蕭紀は八十四の系図を参照のこと。



九十四


 四月、宇文泰は精鋭の騎兵三万を率い、西の隴山を越えて金城河きんじょうがを渡り、姑臧こぞうに到着した。吐谷渾とよくこんは恐れ、使者を寄越してその産品を献上した。

 五月、蕭紀の潼州刺史の楊乾運は州を挙げて降伏し、尉遲迥の軍勢を先導して成都に向かった。

 七月、宇文泰は姑臧から関中に帰った。


[原文]

四月、帝勒銳騎三萬、西踰隴、度金城河、至姑臧。吐谷渾震懼、遣使獻其方物。

四月、帝は銳騎三萬を勒し、西のかた隴を踰え、金城河*1を度り、姑臧*2に至れり。吐谷渾*3は震懼し、遣使して其の方物を獻ず。


<五月、蕭紀潼州刺史楊乾運以州降、引迥軍向成都。>

<五月、蕭紀の潼州*4刺史たる楊乾運は州を以て降り、迥の軍を引きて成都に向かう。>


七月、帝至自姑臧。

七月、帝は姑臧より至る。


[メモ]

1、金城河は黄河と洮水の合流地点にあたる。渭水を遡上して水源となる首陽山の分水嶺を越え、同じく首陽山に発して北流する洮水に沿って下ると至る。そこから黄河を北に渡って北上すると姑臧に至る。

▼金城河

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2、姑臧は武威郡姑臧縣、涼州の治所。

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3、吐谷渾は鮮卑慕容部の分派、遼東から西に移動して青海地方に蟠踞していた。

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4、潼州は『南史』武陵王紀伝に「魏將たる尉遲迥は涪水に逼り、楊乾運は之に降る。迥は即ち成都に趨けり」とあることから涪水沿岸の涪または梓潼に置かれていたものと思われる。


▼涪

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▼梓潼

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九十五


 八月、尉遲迥は成都せいとを落とし、剣南けんなんは平定された。


[原文]

八月、尉遲迥剋成都、劍南平。

八月、尉遲迥は成都*1を剋くし、劍南*2は平らぐ。


[メモ]

1,成都は蜀の中心地。

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2、劍南は剣閣けんかくの南、つまり巴蜀を指す。

▼剣閣

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九十六


 十一月、尚書の元烈げん・れつが反乱を企て、誅殺された。


[原文]

十一月、尚書元烈謀亂、伏誅。

十一月、尚書たる元烈は亂を謀り、誅に伏せり。



九十七


 廃帝三年(553)正月、はじめて九命きゅうめい典範てんぱんを定め、それによって内外の官爵を授けた。第一品を九命とし、第九品を一命とし、流外品りゅうがいひんは改めて九秩とし、それもまた九を最上位とした。

 また、改めて州、郡、県を置き、およそ四十六の州を再編して新たに一つの州を置き、改めて一百六郡、三百三十県とした。


[原文]

三年正月、始作九命之典、以敍內外官爵。

三年正月、始めて九命の典を作し、以て內外の官爵を敍ぶ。


以第一品為九命、第九品為一命、改流外品為九秩、亦以九為上。

第一品を以て九命と為し、第九品を一命と為し、流外品*1を改めて九秩*2と為し、亦た九を以て上と為す。


又改置州、郡、縣、凡改州四十六、置州一、改郡一百六、改縣三百三十。

又た改めて州、郡、縣を置き、凡そ州四十六を改め、州一を置き*3、郡一百六を改め、縣三百三十を改む。


[メモ]

1、流外品は九品の官品に含まれない官を言う。


2、九秩は九段階の意。


3、州の改名について『周書』文帝紀によると以下のようになる。なお、おおよその場所が分かるようすべての州について『隋書』地理志から関係すると見られる記事を抜粋した。『隋書』地理志に記載がなく、それ以外から引用した場合は出典を明記した。


一、東雍州→華州

雍州京兆郡鄭縣:後魏は東雍州を置き、華山郡を并せて西魏は改めて華州と曰う。


二、北雍州→宜州

雍州京兆郡華原縣:後魏は北雍州を置き、西魏は改めて宜州と為す。又た北地郡を置き、尋いで改めて通川郡と為す。


三、南雍州→蔡州

荊州舂陵郡蔡陽縣:梁は蔡陽郡を置き、後魏は南雍州を置く。西魏は改めて蔡州と曰う。


四、華州→同州

雍州馮翊郡:後魏は華州を置き、西魏は改めて同州と曰う。


五、北華州→鄜州

雍州上郡:後魏は東秦州を置き、後に改めて北華州と為す。西魏は改めて敷州と為す。大業二年、改めて鄜城郡と為す。

北華州は鄜州ではなく敷州と改められた可能性が高い。隋代に鄜城郡とされた事実と混同して鄜州と誤記されたのかも知れない。


六、東秦州→隴州

雍州扶風郡汧源縣:西魏は隴東郡、及に、汧陰縣を置き、後に縣を改めて杜陽と曰う。後周は又た汧陰と曰う。開皇三年、郡は廢さる。五年、縣は改めて汧源と曰う。又た西魏の東秦州あり、後に改めて隴州と為す。


七、南秦州→成州

梁州漢陽郡:後魏は南秦州と曰い、西魏は成州と曰う。


八、北秦州→交州

雍州隴西郡長川券:後魏は安陽郡を置き、安陽、烏水の二縣を領す。西魏は改めて北秦州と曰い、後に又た改めて交州と曰う。


九、東荊州→淮州

豫州淮安郡:後魏は東荊州を置き、西魏は改めて淮州と為す。


十、南荊州→昌州

荊州舂陵郡:後魏は南荊州を置き、西魏は改めて昌州と曰う。


十一、東夏州→延州

雍州延安郡:後魏は東夏州を置き、西魏は改めて延州と為し、總管府を置く。


十二、南夏州→長州

雍州朔方郡長澤縣:西魏は闡熙郡を置く。又た後魏の大安郡あり、及び、長州を置く。

『隋書』地理志に南夏州への直接的言及はない。ただし、『周書』梁臺伝には「大統十五年、南夏州刺史を拜す」という記事があり、存在は確認できる。


十三、東梁州→金州

梁州西城郡:梁は梁州を置き、尋いで改めて南梁州と曰う。西魏は改めて東梁州を置き、尋いで改めて金州と為す。


十四、南梁州→隆州

梁州巴西郡:梁は南梁・北巴州を置き、西魏は隆州を置く。


十五、北梁州→靜州

梁州義城郡嘉川縣:舊と宋熙郡を置き、開皇の初めに廢さる。

『旧唐書』地理志山南西道利州下「嘉川郡:隋は靜州に屬す。貞觀十七年、割きて利州に屬せしむ。」より義城郡嘉川縣の付近に所在したものと推測される。


十六、陽都→汾州

冀州文城郡:東魏は南汾州を置き、後周は改めて汾州と為し、後齊は西汾州と為す。


十七、南汾州→勳州

冀州絳郡稷山縣:後魏は高涼と曰い、開皇十八年に改む。後魏の龍門郡あり、開皇の初めに廢さる。又た後周の勳州あり、總管を置く。後に改めて絳州と曰い、開皇の初めに移さる。


十八、汾州→丹州

雍州延安郡義川縣:西魏は汾州、義川郡を置き、後に州に改めて丹州と為す。


十九、南豳州→寧州

雍州北地郡:後魏は豳州を置き、西魏は改めて寧州と為す。


二十、南岐州→鳳州

梁州河池郡:後魏は南岐州を置き、後周は改めて鳳州と曰う。


二十一、南洛州→上州

豫州上洛郡上津縣:舊と北上洛郡を置き、梁は改めて南洛州と為す。西魏は又た改めて上州と為し、後周は漫川・開の二縣を併せて入る。


二十二、南廣州→淯州

豫州淯陽郡:西魏は蒙州を置く。仁壽中、改めて淯州と曰う。


二十三、南襄州→湖州

荊州舂陵郡湖陽縣:後魏は西淮安郡、及び、南襄州を置き、後に郡は廢され、州は改めて南平州と為る。西魏は改めて昇州と曰い、後に又た改めて湖州と曰う。


二十四、西涼州→甘州

雍州張掖郡:西魏は西涼州を置き、尋いで改めて甘州と曰う。


二十五、西郢州→鴻州

豫州淮安郡比陽故縣:西郢州を置く、西魏は改めて鴻州と為し、後周は廢して真昌郡と為す。


二十六、西益州→利州

梁州義城郡:後魏は益州を立て、世々小益州と號さる。梁は黎州と曰う。西魏は復た益州と曰い、又た改めて利州と曰い、總管府を置く。


二十七、東巴州→集州

梁州漢川郡難江縣:後周は集州、及び、平桑郡を置く。


二十八、北應州→輔州

豫州淮安郡桐柏縣:又た梁は西義陽郡を置き、西魏は淮陽郡、及び、輔州を置き、後周は州郡並びに廢し、又た淮南縣を置く。


二十九、恆州→均州

豫州淅陽郡武當縣:舊と武當郡を置く。又た始平郡を僑置し、後に改めて齊興郡と為す。梁は興州を置き、後周は改めて豐州と為す。開皇の初めに二郡は並びに廢され、改めて均州と為る。


三十、沙州→深州

『旧唐書』地理志の沙州に関する記述を見る限り漢代の白水縣あたりではないかと思われるが確定的な情報はないものと見られる。


三十一、寧州→麓州

雍州北地郡:後魏は豳州を置き、西魏は改めて寧州と為す。大業の初めに復た豳州と曰う。


三十二、義州→巖州

豫州弘農郡盧氏縣に西魏が置いた義川郡が義州の治所ではないかと推測されるが確定しがたい。


三十三、新州→溫州

荊州安陸郡京山縣:舊と新陽と曰い、梁は新州、梁寧郡を置く。西魏は州を改めて溫州と為し、縣を改めて角陵と為し、又た盤陂縣を置く。


三十四、江州→沔州

荊州沔陽郡甑山縣:梁は梁安郡を置く。西魏は改めて魏安郡と曰い、江州を置く。尋いで郡を改めて汶川と曰う。後周は甑山縣を置き、建德二年に州は廢さる。


三十五、西安州→鹽州

雍州鹽川郡:西魏は西安州を置き、後に改めて鹽州と為す。


三十六、安州→始州

梁州普安郡:梁は南梁州を置き、後に改めて安州と為す。西魏は改めて始州と為す。


三十七、幷州→隨州

荊州漢東郡:西魏は并州を置き、後に改めて隋州と曰う。


三十八、冀州→順州

荊州漢東郡順義縣:西魏は改めて南陽と為し、析きて淮南郡を置く。厲城・順義の二縣を以て冀州を立て、尋いで改めて順州と為す。


三十九、淮州→純州

豫州淮安郡桐柏縣:梁は置きて淮安と曰い、并せて華州を立て、又た上川郡を立つ。西魏は州を改めて淮州と為し、後に改めて純州と為し、尋いで廢す。


四十、揚州→潁州

豫州潁川郡:舊と潁州を置き、東魏は改めて鄭州と曰い、後周は改めて許州と曰う。


四十一、司州→憲州

『周書』武帝本紀天和二年に「憲州は昌州に入る」と州の統合に関わる記事があるものの治所は不明。荊州の南陽郡、舂陵郡そのあたりに存在したものと見られる。


四十二、南平州→昇州

荊州舂陵郡湖陽縣:後魏は西淮安郡、及び、南襄州を置き、後に郡は廢され、州は改めて南平州と為る。西魏は改めて昇州と曰い、後に又た改めて湖州と曰う。


四十三、南郢州→歸州

荊州漢東郡安貴縣に北郢州(後に欵州と改名)が存在したのでその周辺と見られるが治所は不明。


四十四、青州→眉州

梁州眉山郡:西魏は眉州と曰う 。後周は青州と曰い、後に又た嘉州と曰う。大業二年、又た改めて眉州と曰う 。



九十八


 廃帝が宇文泰への怨み言を言い、淮安王の元育げん・いく、廣平王の元贊げん・さんたちが泣を流して諫めたが廃帝は聞き入れなかった。ここにおいて宇文泰は公卿と議して帝を廃し、斉王の元廓げん・かくを擁立した。これが恭帝きょうていである。


[原文]

魏帝有怨言、<魏淮安王育、廣平王贊等垂泣諫之,帝不聽。>於是帝與公卿議、廢帝、立齊王廓、是為恭帝。

魏帝に怨言あり、<魏の淮安王たる育、廣平王たる贊等の泣を垂れて之を諫むるも、帝は聽かず。>是において帝は公卿と議し、帝を廢し、齊王廓*1を立て、是れ恭帝たり。


[メモ]

1、齊王廓は西魏の文帝の四男、元廓。



九十九


 恭帝元年(554)四月、宇文泰は大いに群臣を饗応した。

 魏の史官の柳虬りゅう・きゅうが簡書を手に朝臣に告げて言った。

「廃帝は文皇帝の嗣子、七歲の時に文皇帝は安定公(宇文泰)に託し、『この子の才は公により、不才もまた公による。公はよろしく精励せよ』と命じられた。公はすでにこの重い寄託を受けて宰相の任にあり、また、自らの娘を皇后としたが、ついに訓誨して成果なく、ついに廃黜はいちゅつして文皇帝の寄託の意に背いた。この咎は安定公の他に誰にあろうか」

 宇文泰は太常卿たいじょうけい盧辨ろ・べん誥文こうぶんを起草させて次のように公卿を諭した。

「ああ、いならぶ群公、および、将士よ。かつて文皇帝は幼い嗣子を私に託し、『この子を教えこの子を諭し、一人前にせよ』と命じられた。しかし、私はその心を変えられず、どうして我が文皇帝の志を無碍にしようか。ああ、この咎をどうして私が避けられようか。私は実にこのことを知り、いわんやお前たち衆人の心が知らないでいよう。恐れるところはただ私が厚顔であるのみならず、後の世が私を廃立の口実とすることである」

 乙亥、魏帝は詔して宇文泰の子の宇文邕うぶん・ようを封建して輔城公ほじょうこうとし、宇文憲うぶん・けん安城公あんじょうこうとした。


[原文]

恭帝元年四月、帝大饗羣臣。魏史柳虬執簡書告于朝曰、「

恭帝元年四月、帝は大いに羣臣を饗す。魏の史たる柳虬は簡書を執りて朝に告げて曰わく、「


廢帝、文皇帝之嗣子、年七歲、文皇帝託於安定公曰『是子也、才、由于公、不才、亦由于公、公宜勉之』。

廢帝は文皇帝の嗣子、年七歲にして、文皇帝は安定公に託して曰わく『是の子なるや、才は公に由り、不才も亦た公に由らん、公は宜しく之に勉むべし』と。


公既受茲重寄、居元輔之任、又納女為皇后、遂不能訓誨有成、致令廢黜、負文皇帝付屬之意、此咎非安定公而誰」。

公は既に茲の重寄を受け、元輔の任に居り、又た女を納れて皇后と為すも、遂に訓誨して成すあることあたわず、致して廢黜を令し、文皇帝の付屬の意に負う。此の咎は安定公にあらずして誰にかあらんや」と。


帝乃令太常盧辨作誥喻公卿曰「

帝は乃ち太常たる盧辨をして誥を作して公卿を喻して曰わく「


嗚呼、我羣后暨眾士、維文皇帝以襁褓之嗣託於予、訓之誨之、庶厥有成。

嗚呼、我が羣后、暨び、眾士、維に文皇帝は襁褓の嗣を以て予に託し、之を訓え之を誨し、庶わくば厥れ成るあらん、と。


而予罔能弗變厥心、庸暨乎廢墜我文皇帝之志。

而して予は能く厥の心を變ぜしむるなく、庸ぞ我が文皇帝の志を廢墜するに暨ばんや。


嗚呼、茲咎予其焉避。予實知之、矧爾眾人之心哉。

嗚呼、茲の咎、予は其れ焉んぞ避けんや。予は實に之を知り、矧んや爾ら眾人の心をや。


惟予之顏、豈惟今厚、將恐來世、以予為口實」。

惟わん予の顏の、豈に惟だ今の厚きのみを。將に恐る、來世に予を以て口實と為さんことを」と。


乙亥、魏帝詔封帝子邕為輔城公、憲為安城公。

乙亥、魏帝は詔して帝の子たる邕を封じて輔城公と為し、憲を安城公と為す。



一百


 七月、西で狩猟をおこない、原州に至った。


[原文]

七月、西狩至原州。

七月、西のかた狩して原州に至れり。



一百一


 梁の元帝げんてい蕭繹しょう・えきは使者を遣わし、侯景の乱以前の版図によって境界を定め直すよう求め、さらに斉との同盟を恃んでその言辞は不遜であった。

 宇文泰は「古人は『天が見捨てたものを誰が再興できようか』と言ったが、蕭繹がこれであろう」と言った。

 十月壬戌、柱国の于謹、中山公ちゅうざんこう宇文護うぶん・ごと大将軍の楊忠、韋孝寛たち五万の軍勢を蕭繹の討伐に遣わした。

 十一月癸未、軍勢は漢水かんすいを渡り、中山公の宇文護は楊忠とともに精騎を率いて先にその城下に駐屯した。

 丙申、于謹は江陵こうりょうに到着すると、軍営を並べて包囲した。

 辛亥、城を落として元帝を殺し、その百官、士大夫、庶人を捕虜として関中に帰還した。奴婢とされた者は十万余人、それを免ぜられた者は二百余家であった。

 新たに蕭詧しょう・さつを梁主に擁立して江陵に住まわせ、西魏の属国とした。


[原文]

梁元帝遣使請據舊圖以定疆界、又連結於齊、言辭悖慢。

梁の元帝は遣使して舊圖に據りて以て疆界を定めんことを請い、又た齊に連結し、言辭は悖慢たり。


帝曰「古人有言、天之所棄、誰能興之、其蕭繹之謂乎」。

帝は曰わく「古人に言あり、天の棄つるところ、誰ぞ能く之を興さんと、其れ蕭繹の謂いか」と。


十月壬戌、遣柱國于謹、中山公護與大將軍楊忠、韋孝寬等步騎五萬討之。

十月壬戌、柱國たる于謹、中山公護と大將軍たる楊忠、韋孝寬等步騎五萬を遣りて之を討たしむ。


十一月癸未、師濟漢、中山公護與楊忠率銳騎先屯其城下。

十一月癸未、師は漢を濟り、中山公護は楊忠と銳騎を率いて先に其の城下に屯す。


丙申、于謹至江陵、列營圍守。

丙申、于謹は江陵*1に至り、營を列べて圍守せり。


辛亥、剋其城、戕梁元帝、虜其百官士庶以歸、沒為奴婢者十餘萬、免者二百餘家。

辛亥、其の城を剋くし、梁元帝を戕し、其の百官士庶を虜として以て歸り、沒して奴婢と為る者は十餘萬、免ぜらるる者は二百餘家なり。


立蕭詧為梁主、居江陵、為魏附庸。

蕭詧を立てて梁主と為し、江陵に居り、魏の附庸と為せり。


[メモ]

1、江陵は長江中流域、漢水との合流点近くにある要衝。

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一百二


 北魏の草創期、統べる国は三十六、大姓は九十九が存在したが、後に多くが断絶した。ここに至り、諸将の勲功の高い者たちを選んで三十六国を嗣がせ、それに次ぐ者たちに九十九姓を嗣がせ、それに従う軍人たちもまた改めてその姓を名乗った。


[原文]

魏氏之初、統國三十六、大姓九十九、後多絕滅。

魏氏の初め、統國は三十六、大姓は九十九、後に多くは絕滅せり。


至是、以諸將功高者為三十六國後、次者為九十九姓後、所統軍人、亦改從其姓。

是に至り、諸將の功高き者を以て三十六國の後と為し、次ぐ者を九十九姓の後と為し、統ぶるところの軍人も亦た改めて其の姓に從う。



一百三


 恭帝二年(555)、梁の広州刺史の王琳おう・りんが国境を侵した。

 十月、宇文泰は大将軍の豆盧寧とうろ・ねいを平定に遣わした。


[原文]

二年、梁廣州刺史王琳寇邊。

二年、梁の廣州刺史*1たる王琳は邊に寇す。


十月、帝遣大將軍豆盧寧帥師討之。

十月、帝は大將軍たる豆盧寧を遣りて師を帥いて之を討たしむ。


[メモ]

1、廣州刺史、広州は現在の広東省にあたる。王琳は元帝と不仲だったため、いやがらせの一環として僻地の広州刺史に任命されていた。



一百四


 恭帝三年(556)正月丁丑、はじめて周礼しゅらいに準拠して六官を設け、魏帝は宇文泰の位を太師たいし大冢宰だいちょうさいに任じ、柱國の李弼を太傅に任じ、大司徒の趙貴を太保に任じ、大宗伯の獨孤信を大司馬に任じ、于謹を大司寇に任じ、侯莫陳崇を大司空に任じた。

 宇文泰は漢魏の官職の繁雑を嫌ってその弊害を改めようとし、大統年間には蘇綽と盧辯に命じて周制によって官職を改めさせ、ついでさらに六卿の官を置いたが、それでもまだ官制が確立されていなかったため、多くの職務が台閣に集中していた。

 この時に至って官制の改革は完成し、それゆえにその施行を命じたのである。


[原文]

三年正月丁丑、初行周禮、建六官、魏帝進帝位太師、大冢宰<、柱國李弼為太傅、大司徒趙貴為太保、大宗伯獨孤信為大司馬、于謹為大司寇、侯莫陳崇為大司空>。

三年正月丁丑、初めて周禮*1を行い、六官*2を建て、魏帝は帝の位を太師*3、大冢宰に進ましめ、<柱國たる李弼を太傅と為し、大司徒たる趙貴を太保と為し、大宗伯たる獨孤信を大司馬と為し、于謹を大司寇と為し、侯莫陳崇を大司空と為す>。


帝以漢、魏官繁、思革前弊、大統中、乃令蘇綽、盧辯依周制改創其事、尋亦置六卿官、然為撰次未成、眾務猶歸臺閣。

帝は漢、魏の官の繁なるを以て、前弊を革めんことを思い、大統中に乃ち蘇綽、盧辯をして、周制に依りて其の事を改創せしめ、尋いで亦た六卿官を置くも、然して撰次の未だ成らざるが為、眾務は猶お臺閣*4に歸せり。


至是始畢、乃命行之。

是に至りて始めて畢り、乃ち命じて之を行う。


[メモ]

1、周禮は十三経の一つに含まれ、[礼記』『儀礼』とともに三礼の一つとされる。周王朝の政治制度を記したとされるがたぶん偽書。


2、六官は天地春夏秋冬の六つに分ける観念的な制度。最高官と所管は以下のとおり。

 天官:大冢宰だいちょうさい、国政全般を統括する

 地官:大司徒だいしと、版籍や教育

 春官:大宗伯だいそうはく、祭礼

 夏官:大司馬だいしば、軍事

 秋官:大司寇だいしこう、監察刑罰

 冬官:大司空だいしくう、建築土木


3、太師は太傅、太保とともに三師上公とされる最高位の名誉職。


4、臺閣は『周書』文帝紀によると廃帝二年春に宇文泰は丞相と大行台を返上して都督中外諸軍事となっているが、おそらくそれ以降は従来の大行台府に代わって中外府に諸決裁が集中していたことを示すのではないかと推測される。



一百五


 四月、宇文泰は北方を巡察した。七月、北河を渡った。

 魏帝は宇文泰の子の宇文直うぶん・ちょくを封建して秦郡公しんぐんこうとし、宇文招うぶん・しょう正平公せいへいこうとした。


[原文]

四月、帝北巡。七月、度北河。

四月、帝は北巡せり。七月、北河を度る。


魏帝封帝子直為秦郡公、招為正平公。

魏帝は帝の子たる直を封じて秦郡公と為し、招を正平公と為す。



一百六


 九月、宇文泰は病に罹った。巡察から還って雲陽宮うんようきゅうに到着すると、中山公の宇文護に嗣子の宇文覚うぶん・かくの輔佐を遺言した。

 十月乙亥、宇文泰は雲陽宮で世を去り、遺体が長安に還ると喪を発表した。享年五十歳であった。

 十二月甲申、成陵せいりょうに埋葬され、文公と諡された。

 孝閔帝こうびんていが北周を建国すると、追尊して文王とし、廟号を太祖たいそとした。

 武成元年(559)、追尊して文皇帝とされた。


[原文]

九月、帝不豫、還至雲陽、命中山公護受遺輔嗣子。

九月、帝に不豫あり、還りて雲陽*1に至り、中山公護に命じて遺を受けて嗣子を輔けしむ。


十月乙亥、帝薨于雲陽宮、還長安發喪、時年五十。

十月乙亥、帝は雲陽宮に薨じ、長安に還りて喪を發す。時に年五十なり。


十二月甲申、葬于成陵、諡文公。

十二月甲申、成陵に葬り、文公と諡せり。


及孝閔帝受禪、追尊為文王、廟曰太祖。武成元年、追尊為文皇帝。

孝閔帝の受禪に及び、追尊して文王と為し、廟を太祖と曰う。武成元年、追尊して文皇帝と為す。


[メモ]

1、雲陽宮は秦の甘泉宮にあたり、涇水下流の北岸、雍州北地郡雲陽県にある。隋代には避暑地として利用された。

▼雲陽宮

http://codh.rois.ac.jp/software/iiif-curation-viewer/demo/?manifest=https://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu_data/iiif/main/manifest.json&xywh=18278,13812,111,45&xywh_highlight=border



一百七


 宇文泰は人をよく知って任務を委ね、流れに従うように諫言を容れ、儒学を尊んで政事に通暁し、その恩徳と信義は万物に及んだ。

 英雄豪傑を指揮して初めて会った者たちもみなその命令に従うことを望んだ。沙苑の戦の捕虜は戒めを解いて任用し、河橋の戦では戰士としてその死力を得た。

 諸将の出征にあたっては作戦を授け、戦前に勝利の確信を得ていた。

 その性格は質素を好んで虛飾を嫌い、つねに風俗を古の素朴なものに戻すことを心がけていたという。


[原文]

帝知人善任使、從諫如順流、崇尚儒術、明達政事、恩信被物。

帝は人を知りて善く任使し、諫めに從うこと流れに順うが如く、儒術を崇尚し、政事に明達し、恩信は物に被る。


能駕馭英豪、一見之者、咸思用命。

能く英豪を駕馭し、一見の者も咸な命を用いんことを思う。


沙苑所獲囚俘、釋而用之、及河橋之役、以充戰士、皆得其死力。

沙苑に獲るところの囚俘は、釋きて之を用い、河橋の役に及び、以て戰士に充て、皆な其の死力を得る。


諸將出征、授以方略、無不制勝。

諸將の出征には授くるに方略を以てし、勝を制せざるなし。


性好樸素、不尚虛飾、恒以反風俗復古始為心云。

性は樸素を好み、虛飾を尚ばず、恒に風俗を反して古始に復するを以て心と為すと云えり。



一百八

<この節はすべて『周書』による。>


 史臣は次のように考える。

 水徳の北魏がまさに終わろうとして群小の凶人はほしいままに振る舞い、或る者は震主の意を振るい、或る者は叛乱して天にまで蔓延ろうとする。

 彼らはみな、大宝は力により得られ、神物は求めれば得られると考える。天子の位を窺って朝廷を見下さない者はなく、しかし、一族の滅亡は間を入れず、滅びは遅れることなく訪れる。

 王莽の簒奪はついに光武帝の再興を生み、董卓の残虐がまさに曹操の事業を開基したことは知らぬ者もいない。天命には帰するところがあり、どうしてそのような者たちが蔓延れようか。

 宇文泰は資産も軍勢もなく、兵馬の際を駆けて隊伍の間に進軍した。能力ある者が台頭する時に巡り合って、事業を開基する運に応じ、義勇を招集して同盟を糺合し、一挙で仇敵を滅ぼし、ついで帝室を輔弼した。

 そのため、内では帷幄の士大夫に事を諮り、外では勇敢な武人に頼り、至誠を推して人を待ち、順逆の理を広めて人物を導く。

 高氏は兵力に頼って軍勢の強さを恃み、たびたび関中に侵入して併合を企てた。

宇文泰が神算を発揮して軍勢がそれに従うと、弘農で晋の文公の如く、沙苑で劉秀の如く勲功を成し遂げた。

 その兵威によって霸朝の並立を定め、弱国を強国に転じてみせた。衰微した北魏皇室を保護して周王朝の如き天命を拓き、南は長江や漢水沿岸の敵を払い、西は巴蜀を併呑し、北は沙漠を押さえ、東は伊水や𤄊水までを占領した。

 さらに魏晋の煩雑な制度を排斥して周代の古制を称揚し、失われた六官を定めて一代の国制とした。徳と刑をともに用い、勲功ある者が用いられ、遠くの者が安心して暮らし近くの者は慶び、習俗は豊かで民草は和やかであった。

 民の望みは宇文泰に帰し、禅譲さえも可能であった。

 このような功業を立てながらその身は人臣として終わった。

 なんと徳の盛んなことか。

 雄略が同世代で冠たり、英姿は世に並ぶものなく、天と神よりこれらを授かって、武を横糸とし文を縦糸とする者でなくては、どうしてこのような功業がなせようか。

昔、後漢の献帝が都落ちし、曹操は献帝を輔佐して自らの大業をなした。

 東晋の安帝は国家の動揺を抑えられず、劉裕は国を正して勲功を建てた。二人と德を比べて功を論じれば、宇文泰は悠揚として迫らぬ風格があろう。

 その一方、江陵を平定する際に城民を殺戮し、従ったにも関わらず柔然の種が滅ぶまでに誅殺した。事は権道より出たことであるといえど、德教に則した行いであるとは言えない。

 周王朝が短命で終わったのは、或いはこれらの行いが原因であったろうか。


[原文]

史臣曰、

史臣は曰わく、


水曆將終、羣凶放命、或威權震主、或釁逆滔天。

水曆の將に終らんとし、羣凶は命を放ち、或いは威權は主を震わせ、或いは釁逆して天に滔る。


咸謂大寶可以力征、神物可以求得。

咸な謂えらく、大寶は力を以て征すべく、神物は以て求めて得べし、と。


莫不闚𨵦九鼎、睥睨兩宮、而誅夷繼及、亡不旋踵。

九鼎を闚𨵦して、兩宮に睥睨せざるなく、而して誅夷は繼ぎ及び、亡びは旋踵せず。


是知、巨君篡盜、終成建武之資、仲潁凶殘、實啟當塗之業。

是れ知らん、巨君の篡盜は終に建武の資と成り、仲潁の凶殘は實に當塗の業を啟くを。


天命有底、庸可滔乎。

天命に底あり、庸んぞ滔るべけんや。


太祖田無一成、眾無一旅、驅馳戎馬之際、躡足行伍之間。

太祖は田に一成なく、眾に一旅なく、戎馬の際を驅馳し、行伍の間に躡足す。


屬與能之時、應啟聖之運、鳩集義勇、糺合同盟、一舉而殄仇讐、再駕而匡帝室。

與能の時に屬し、啟聖の運に應じ、義勇を鳩集して同盟を糺合し、一舉して仇讐を殄し、再駕して帝室を匡す。


於是內詢帷幄、外仗材雄、推至誠以待人、弘大順以訓物。

是に內に帷幄に詢り、外に材雄に仗り、至誠を推して以て人を待ち、大順を弘めて以て物を訓く。


高氏籍甲兵之眾、恃戎馬之彊、屢入近畿、志圖吞噬。

高氏は甲兵の眾きに籍り、戎馬の彊を恃み、屢々近畿に入りて志は吞噬を圖る。


及英謀電發、神斾風馳、弘農建城濮之勳、沙苑有昆陽之捷。

英謀の電發して神斾の風馳するに及び、弘農に城濮の勳を建て、沙苑に昆陽の捷あり。


取威定霸、以弱為彊。

威を取りて霸を定め、弱を以て彊と為す。


紹元宗之衰緒、創隆周之景命、南清江漢、西舉巴蜀、北控沙漠、東據伊𤄊。

元宗の衰緒を紹ぎ、隆周の景命を創き、

南のかた江漢を清め、西のかた巴蜀を舉げ、北のかた沙漠を控え、東のかた伊𤄊に據る。


乃擯落魏晉、憲章古昔、修六官之廢典、成一代之鴻規。

乃ち魏晉を擯落して古昔を憲章し、六官の廢典を修めて一代の鴻規を成す。


德刑並用、勳賢兼敘、遠安邇悅、俗阜民和。

德刑は並び用い、勳賢は兼ねて敘せられ、遠きは安んじ邇きは悅び、俗は阜かに民は和せり。


億兆之望有歸、揖讓之期允集。

億兆の望に歸するあり、揖讓の期は允に集まる。


功業若此、人臣以終。盛矣哉。

功業は此の若くして人臣を以て終わる。盛んなるかな。


非夫雄略冠時、英姿不世、天與神授、緯武經文者、孰能與於此乎。

夫れ雄略の時に冠たり、英姿の世ならず、天と神より授かり、武を緯とし文を經とする者にあらずして、孰んぞ能く此に與らんや。


昔者、漢獻蒙塵、曹公成夾輔之業。

昔、漢獻は蒙塵し、曹公は夾輔の業を成す。


晉安播蕩、宋武建匡合之勳。

晉安は播蕩し、宋武は匡合の勳を建つ。


校德論功、綽有餘裕。

德を校べて功を論ずれば、綽として餘裕あり。


至於渚宮制勝、闔城孥戮、茹茹歸命、盡種誅夷。

渚宮に制勝するに至りて闔城を孥戮し、茹茹は命を歸するも種を盡くして誅夷す。


雖事出於權道、而用乖於德教。

事の權道に出ずると雖も、而して用て德教より乖る。


周祚之不永、或此之由乎。

周祚の永からざるは、或いは此れに由らんか。


-了-

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