第53話 救い

 ヘリオポリスの町を朝日が照らす。

 陰湿な牢の中に一筋の光が差し込み、アヌビスはうっすらと目を開けた。


 夜明け。もはや死を待つだけのアヌビスにとってそれは絶望でしかなかった。だがその心境とは裏腹に窓から見える外の景色は信じられない程に美しい。


 しかしここは地下ではなかっただろうか。知らぬ間に別の牢へ移されたのか?


 そんな疑問が脳裏をよぎったが、アヌビスはもはや考える事をやめた。ここがどこであろうと、死ぬ運命に変わりはないのだから。


 ならばせめてこの美しい景色を目に焼き付けておくべきだ。

 

 それなのに——。

 こんな時に限って視界が滲む。

 

 泣いているのか?

 俺が?

 

 しかし流れ落ちる涙を抑えることが出来なかった。

 こんな結末があるだろうか。


 両親の無念を晴らせなかった自分にはこの世に未練しか残っていない。それどころかたった1人の弟まで守れず、唯一残った自分の命さえ散ろうとしているのだ。

 

「最後の朝日は拝めたか?」

 檻の外で笑う仇の言葉にも、もはや何も感じない。アヌビスは淡々と立ち上がり、重い枷を引き摺りながら外へ出た。


***


 地下牢に向かって歩き始めた途端、地響きと共に激しい揺れに襲われトトは思わず足を止める。頭上から落ちてくる瓦礫が神殿の崩壊を告げていた。


 トトは急いで地上へ駆け上がると、周囲を見して叫ぶ。


「みんな、無事なの……!?」

「ええ、何とか! でもまだ部屋にマギルさんが——。」


 トトはしまったと思った。

 そういえば彼はまだベッドで療養中だ。戦線から遠ざける為とはいえ、トトはマギルを部屋に置き去りにした事を後悔した。


 しかしもはや助けに行けるような状態ではない。これ以上ここに留まれば助けるどころか共倒れになりかねない。


 迷っている時間はない。トトは覚悟を決めて言った。


「とにかく、今は各々が外に出る事を優先して。ホルスとアヌビス、そしてこの国の為に僕らは1人でも多く生き残らなきゃならないんだ。」


 だがトトの中で何かが引っかかる。

 

 本当にそれでいいのか?

 その疑問がトトの足を止めた。こんな時だというのに何故だか笑みが溢れる。


 自分がこんな事を思う日が来るなど想像もしていなかった。以前の自分なら何の迷いもなく切り捨てていただろう。


 トトにとって他人とは単なる研究対象でしかなく、救うにせよそれはやはり物としての価値しかなかった。しかしそれ以上の感情をホルスが教えてくれたのだ。


 何か方法がある筈だ。彼を助ける方法が。

 一刻の猶予もない中トトは考える。


 そして剥き出しになった地面から何かが覗いているのを目にしたトトは思わず叫んだ。


「——そうだ。水路!」

 人の手でなく神の力で頑丈に作られたそれは周囲の床が崩れてもしぶとく生き残っていた。


 彼がいる部屋まで伸びるこれを使わない手はない。まるで示し合わせたかのような偶然にトトは自分以外にも有能な神がいるものだと感心した。



「マギル、聞こえる? いたら返事して。」

 落ちてきた瓦礫に逃げ道を奪われ、また自らも瓦礫に埋もれかけていたマギルはその声にはっと顔を上げる。


 トト様……?

 一瞬幻聴かと思ったが何度も自分を呼ぶ声にそうではないと確信する。その声に応えようとマギルは未だ自由の利かない手足を懸命に動かし這いつくばるようにして部屋の隅にある井戸を目指す。声は確かにそこから聞こえるのだ。

 

 「トト様……。 私は何とか生きておりますが……瓦礫が通路を塞いでしまい出られない状況です。」

「分かった。時間がない。目の前の、その手を掴んで。」

 安堵からか、井戸からため息交じりの声が聞こえた。マギルは言われた通り井戸から伸びる小さな子供の手を握った。


 瞬間、体がふっと軽くなり目の前が暗転する。今度こそ迎えが来たのかもしれないと思ったマギルは思わず神に祈った。老い先短い人生ではあるがまだやるべき事がある。いつ死んでも悔いはないと思っていたのに、いざ死を前にするとやはり欲が出てしまうものだ。


 しかしその後マギルが見たのは冥界ドゥアトではなかった。



「ああ、何という……。神は本当にいらっしゃるのですね。」

 目の前の光景にマギルは思わずそう呟いた。自分は死んだのではない。外に出たのだ。そして神殿と思しき倒壊した建物の前には、同じく安堵したように膝をつくトトの姿があった。

 

「今更何を言ってるのさ。僕は人間に救いの手を差し伸べる正真正銘の神様だよ。」

 得意げにそう言う彼は全身砂に塗れ、神の威厳など微塵も感じられない。だがそ彼のその姿にマギルは零れ落ちる涙を抑えることが出来なかった。


「マギルさん! 良かった……。」

  何とか脱出したハトホルとエゼルもその場に力なく座り込み、マギルの無事を喜んだ。


「後はアヌビスが——。」

 トトがそう言いかけた瞬間、それをかき消すかの如く鋭い悲鳴が辺りに響き渡る。


「イシス――!」

 トトは声のした方へ駆け出した。ハトホルとエゼルは動けないマギルを説得してその場に残すと、慌ててその後を追う。


 そして目の前の光景に3人は言葉を失った。

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ヘリオポリス ー九柱の神々ー みるとん @soltydog83

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