第70話𓋴𓄿𓇋𓍯𓈖𓄿𓂋𓄿〜Say Goodbye〜

『さよなら』

 この言葉でキオネは主の危機を悟った。


 これは二人が主従契約を交わした日、アヌビスが最初に教えたサインである。万が一窮地に陥った時、例えばそれが敵の監視下であっても問題なく状況を伝える言葉であると彼は言った。


 助けを呼ばなければ。

 このサインが出た以上恐らく自分だけで救い出せるような状況ではない。


 しかし主の魔力も途絶えた今、キオネは自らも危機に瀕していた。その姿を維持する事すら困難な中、消えかけた足を懸命に動かしキオネは前を見据える。


 この危機を誰に伝えるか。キオネの足は自然とある方向に向かっていた。不思議ではあるが、確かに感じるのだ。彼の気配を――。



「キオネ——!」

 朧げな影が目の前でゆらりと揺れる。ホルスは今にも崩れ落ちそうなキオネに駆け寄りその体を抱き止めた。


「やはり……生きておいででしたか」

「一体何があった……?」


 キオネは咥えていたパピルスをホルスの手の中に落とす。丁寧に折り畳まれ、読む事は出来ないが、何か重要な事が書かれている事は確かだ。


「アヌビス様が……詳しい状況は分かりませんが……危機に陥っている事は確かです」

 

 キオネは力を振り絞るように首をもたげ、じっとホルスを見つめた。


「——王よ。どうかこの国をお救い下さい。」


 そうして自らの責務を全うしたキオネは静かにその瞼を閉じる。

 

 ホルスはその体を強く抱きしめた。

 しかしその腕にもはや感触はなく、その手に残ったのはかすかな温もりと彼女が残したパピルスの破片だけだった。


 ホルスが震える手でパピルスを開くと、そこにはこう綴られていた。

 

 ホルス。

 俺は進むべき道を誤ったのか?


 セトを討つ。俺もお前も進む道は同じだった。


 だが俺はセトの下につき、お前の敵となる事を選んだ。互いに苦しい道であろうと、それが俺達にとって最善の道だと信じていた。


 何故ならホルス、お前が王となるべき男だからだ。


 お前だけは死なせてはならない、そう思った。両親の為にもそしてこの国の為にもだ。


 だから俺は自らを犠牲にしてでもお前を守らなければならないと思った。


 だが結局俺はお前を守るどころか見殺しにした。全て復讐の為だと言い聞かせ、弔う事もその亡骸を葬る事さえ出来ずに——。


 お前がいなくなって、結局自分が何を望み、何をしようとしていたのか分からなくなった。俺が本当に望んでいた事とは、大切にしてものとは一体何だったのかと。


 そして気付いた。

 これは義務なんかじゃない。王としてのお前ではなく、血の繋がった兄弟としてお前を守りたかったんだと。


 最後までお前の気持ちに応えてやれなくて、守ってやれなくて悪かった。だが——。


 今なら言える。

 お前は俺の大切な――。


 最後の一文にホルスは耐えきれず嗚咽を漏らす。


 ——たった一人の弟だ。


 これは恐らく手紙ではなく彼の懺悔の言葉を綴ったものだ。本人もまさかこれを自分が読んでいるとは、まして生きているとは思っていまい。


 何故――。

  

 何故いつもこうなのだろう。

 ホルスはパピルスを握りしめ俯く。


 父を殺され憎しみに身を焦がしていた時も、自分の出生を知り悩んでいた時も、そして復讐の為たった一人で敵地に乗り込んで行った時も、気付くのはいつも全てが終わった後だ。


 溢れた涙が頬を伝い、その指先に滴り落ちるのを見てホルスははっとした。


 いつかゲブにもらった指輪が淡く光を帯び、嵌め込まれた石から伸びた光がある方向を指し示していたのだ。


 まだ終わってはいない。

 こんな所で泣いている場合ではないだろう。


「……まだ間に合うよな、アヌビス」

 


 

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