第50話𓍢𓈖𓅓𓇌𓇋〜抗い〜

 霊安室に入ったアヌビスは室内を見渡す。しかし複数置かれたベッドの上にホルスの姿はなかった。


 一体どういう事だ。

 別の場所にいるのか或いはもう既に——。

 

 アヌビスは首を振る。

 だとしたら入り口に術をかけておく意味がない。ホルスの遺体は間違いなくこの部屋にあった筈だ。


 ふと目の前のベッドの脇に目をやると、見覚えのある血痕が目に止まった。


 何故あのベッドがここにあるのか、不審に思ったアヌビスは目を細め、細部まで確認しようとしゃがみ込んだその時——。


 ゴン、という鈍い音と共に後頭部に痛みが走り、アヌビスは目の前が真っ暗になるのを感じた。


 

***


 アヌビスが次に目を覚ましたのはそれから数時間後の事だった。冴え切らない頭を無理やり動かし、アヌビスは周囲を見渡す。

 

 未だ視界はぼやけているが、目の前に鉄の格子が見える。アヌビスはそこで初めて自分が檻の中にいるのだと気付いた。


 おまけに立ち上がろうとすると、何かがそれを拒むのだ。重い鎖の音がアヌビスを更なる絶望へと叩き落とした。


 何とかして外せないものかとアヌビスは鎖を力任せに引っ張ってみる。しかしそんな事で千切れでもしたら拘束具の意味がない。


 では魔力を乗せてみたらどうか。

 そう思い全身に力を込めた瞬間、急に激しい脱力感に襲われアヌビスはその場に項垂れた。


 何だ、これは——。


 まるで生気を吸い取られているような感覚にアヌビスは怖気立った。

 神の力をも封じてしまう程の魔具が存在するとは——。


 すると檻の外から足音が聞こえ、アヌビスはその動きを止めた。


「悲しいなアヌビス。イシスの次は俺を裏切るのか。」


 アヌビスの目に飛び込んできたのは他でもない、裁判に駆り出されている筈のセトの姿だった。端から信用などしていなかったのだろう。その顔には哀愁など微塵も感じられなかった。


「何故お前がここに——。」

「ここは俺の神殿だ。主が神殿に戻って来るこ事の何がおかしい?」


 セトはそう言って嘲笑いながら項垂れるアヌビスの顔を覗き込んだ。


「……ホルスをどこへやった?」

 セトの姿に怯む事なくアヌビスはその顔を睨みつける。


「何の事だ。弟が恋しいとはいえまさか死体にまで執着しているのか? 全く、見苦しい事だ。」

「お前が殺したんだろ!!」

 

 鎖が大きな音を立ててしなる。アヌビスはその体がキリキリと痛み、悲鳴を上げるのも構わず目の前の男に食ってかかった。


「殺す!——お前をこの手で!」

「この状況で殺されるのはお前の方だと思うがな。」

 

 そう言ってセトは拳を振り上げる。


「ッ——。」

 衝撃と共に目の前に火花が飛ぶ。次いでズキズキとした痛みが顔面全体に広がり、口の中で血の味がした。


 アヌビスは口内に残った血を吐き出し、再びセトを睨みつける。


「……お前は……この国の王じゃない。」

 その言葉にセトはピクリと眉を動かす。


「……父から王座を奪い取った、ただの反逆者……ッ!」

 その言葉を遮るように再びセトの拳が飛んでくる。

 

 アヌビスは痛みに顔を歪ませながら尚も言葉を続ける。それは今までの鬱憤を晴らすかの如く、彼への罵倒は止まらない。


「……お前がいくら暴力でその座を奪い取ろうと……父は名君であり続け、人々、そして神々の心に残り続ける。その事実は父を殺したとて消し去ることは出来ない。」

 

 家族を殺され、顔が腫れる程殴られ、肉体的にも精神的にも追い詰められているのにも関わらず、尚真っ直ぐこちらを睨みつけ戦意を失わないアヌビスにセトはその時初めて目の前の少年に言い得ぬ恐怖を覚えた。


「——何とでも言うがいい。ここで殺してやってもいいがお前にはまだ使い道がある。あいつは一体どんな顔で見ているのだろうな。息子が死んでいく様を。」


 セトは母の目の前で自分を殺る気なのだ。アヌビスは母の顔を思い浮かべ、それから父と弟の顔を思い浮かべる。


 自分に出来ることはもう無いのだろうか。ここまで気を張っていたアヌビスだったが、もはやそれを考える体力も気力も残っていなかった。

 

「執行は明日だ。せいぜい余生を楽しむがいい。」


 アヌビスはセトの後ろ姿を眺めながら呟いた。


「——これで俺も『さよなら』か。」

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