第5話
彼女の尾行は驚くほど簡単だった。俺が尾行慣れしているというのもあるかもしれないが、それ以上に今の彼女は周囲を気にする余裕がないのだろう。目に見えない重たい荷物でも背負ってるんじゃないかと思うほど背中は沈み込み、ネガティブな感情が大量に漏れていた。
道中、彼女はふらふらとおぼつかない足取りで何人かの通行人の肩にぶつかっていた。深い層に顔をしかめる人もいたが、ぶつかった相手が美人だと分かるとまんざらでもない顔をして特に咎めたりはしなかった。現金な世の中である。
結構な距離を歩き、郊外に外れてぐねぐねうねうねと、蛇のとぐろのように歩を進め、夕日が暮れて空も藍色がかりはじめる時間まで歩き、ようやく彼女が足を止めたのは廃ビルだった。
暗い空気が蔓延する人気のない区域にそびえ立つ廃ビル。ホラーの一丁目一番地。ど定番だ。おまけに日も暮れてきており、不気味な様相は増すばかりだ。
目的地に到着しても、後ろから見る彼女の小柄な背中は傷心や絶望といった感情が滲み出て、世界中の不幸がその背中に凝縮しているかのようだった。
しかし、あれほど落ち込むっていうのも中々ない。さっきの電話での口論が原因なのだろうが、彼氏に別れ話でも切り出されたのか?
……なるほど、分かったぞ。
別れ話を切り出され、絶望の渦中にいるあの子の前に俺が颯爽と現れる。拙いながらも熱意のある話術で彼女の凍てついた心を少しずつ溶かし、あのおっぱいを揉むというわけだ。
顔が良くなくてもいい。話がうまくなくていい。肝心なのは熱意――ハートなのだ。これからも一所懸命におっぱいを見ていこうと、強く思った。
俺が決意を固めていると、彼女は廃ビルへ入っていった。大人も尻込みしてしまうほど不穏な建物なのに、まるで自宅かのように躊躇のない足取りだった。
もちろん、俺も廃ビルへ入っていった。
入った瞬間、後悔の念が押し寄せてきた。俺はホラー映画やホラーゲームの類が大嫌いなんだ。テレビでホラー特集を見てしまった日には風呂でシャンプーできなくなるし、夜中にトイレに行けなくなってしまうほどだ。でも、怖いもの見たさで導入部分だけ観ては閉じてを繰り返したせいで、俺の利用してる動画サイトのおすすめ一覧にはホラー系の動画しか出なくなってしまった。あれどうしたらいいんだろう。
肌寒く、薄暗い室内を俺はひっそりと歩く。今にも幽霊が現れそうで泣きそうになる。無造作に置かれているデスクやロッカーが俺のことを無表情で見つめくるような錯覚を覚え、得も言えぬ恐怖が不快にまとわりついてくる。人の手から離れ、殺風景で空虚な空気が充満する空間が、不気味で仕方がない。正直帰りたい。
だが、俺の脳裏でおっぱいが揺れるのだ。
苦しい思いをしてありつけるご褒美は格別だろう。それが恋焦がれた、夢焦がれた乳房となれば、ご褒美を通りこして桃源郷ではないのか――そうおっぱいが俺に語りかけてくるのだ。ぷるんと。
そうだ、俺は使命がある。あの子の胸を揉むという使命が。あの胸は俺のものなのだ。
恐れるものなど何もない。俺は自分に言い聞かせ、足を動かす。
彼女は階段で上の階へと上がっていく。その少し後方から、俺は足音を消して上っていく。
恐々としながら俺が三階の踊り場に来たとき、最上階でドアが開く音が聞こえた。
遅れて最上階に着くと、そこには屋上に続くドアがあった。年季の入ったスチール製のドアで、上部分に取り付けられていたガラスが割れているため、開けなくても外の様子が伺える。
彼女は錆び付いた鉄格子にもたれかかり、屋上からの景色を眺めていた。
夕暮れに廃ビルの屋上で
ここに来たのは風景を楽しむためだったのだろうか。それにしては結構な遠出なように思える。
彼女はスマートフォンを取り出し、少しだけ操作し、そのまま固まった。
どんな表情をしているのか、ここからでは分からないが、愉快な表情はしていないだろう。小刻みに震える彼女の肩が、それだけを教えてくれる。
小さな風が吹き、それが契機となったか定かでないが、スマートフォンが彼女の手から滑り落ち、小さくカツンという音が鳴った。同時に、彼女は泣きだした。
えぇ……。どういうこと……?
手で拭ってはいるが、彼女はとめどなく流れ出る涙を止められずにいる。時々、泣くのを止めようと試みているようだが、それも抑えられず、嗚咽混じりの悲痛な声が俺の不安までかきたててくる。
これが映画やドラマなら、主人公を演じるイケメン俳優が颯爽と登場して彼女の悲しみを取り除くのだろう。
……俺か? もしかして、俺が主人公なのか? 俺がここで颯爽と登場して粋なトークで彼女の笑顔を取り戻すのか? あなたの心、奪っていいんですか?
女性に喜ばれる話題やトーク術はこの前読んだ雑誌で履修済みだ。頭に刻み込まれている。
『自分の意見を主張するな、とにかく褒めろ。同調しろ。自我を捨てろ。自分はあなたの味方だとアピールしろ。それこそが脱童貞への近道也』雑誌にはそう書いてあったし、会話例も載っていた。暗記しているから、ただそれを
「服のセンスがいいね」と心の中で口ずさみ、予行練習する。まずは簡単な挨拶をしようと、俺は意気揚々とドアノブを握りしめる。
が、その手が止まった。
思わず、目を見張ってしまった。
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