第10話
体は男だが、心は女――つまり、性自認が女性の男性。
俺は、大きな勘違いをしていたのだ。
この能力――〈パイ視〉は生物学的な女性にしか発動しない能力かと思っていたが、そうではなかった。むしろLBBTQやらポリティカル・コレクトネスやらに配慮し、性自認が女性の人に発動する能力だったのだ。まさしく、現代社会に見事に迎合した素晴らしい能力。すごい。これにはそういうのにうるさい女さんたちもだんまりだ。
だが、この事実は同時に、おっぱいを揉むという俺の運命も水泡に帰したということに他ならない。
初パイ面のおっぱいで初体験ならぬ初パイ験を済ませ、その後、本当に初体験を済ます――そんな俺の理想が、淡い桃色桃源郷が、いとも容易く打ち砕かれたのだ。
足場が突然崩れたかのように、足の力がひゅうっと抜ける。いつの間にか、膝から崩れ落ちていた。
今思えば、この子の言っていた言葉にも違和感があった気がする。
――『こんな人格だから、あの人も、あたしを捨てて……』
人格……性格ではなく、人格と、そう言っていた。
性格ではない。人としての主体――ハートまで女性だということか。
え? じゃあ、俺は男相手におっぱいがどうとか、あの細い腰を抱き寄せてどうとか、脇や太ももに顔をうずめたいとか妄想していたのか。男相手に必死で胸を揉ませてくれと懇願していたのか。あの胸を、夢そのものと見立てていたというのか。ご時世的にそんな強い言葉は使えないけど、キモいよ俺。
「なんか……ごめんね。期待させちゃったみたいで」
ミサキ手すりを掴み、きゅっと唇を噛むと、謝罪の言葉を
「そっちが謝ることじゃないだろ。俺が勝手に勘違いしただけだ」
よろよろと立ち上がり、落ち込みを隠せない声で俺は非を認める。実際、警察を呼ばれたらお縄になるのは百パーセント俺だし。
「でも」
彼女は手すりを掴む力を強める。
「でも、もっと早く言えばそんなにショック受けなくて済んだでしょ……」
どうやら俺の絶望具合に本格的に同情してしまったようだ。ストーキングされたことも
自己認識を深めていると、鼻をすすってしゃくりあげる音が聞こえてきた。
見ると、ミサキは涙を流していた。
泣いているところ悪いんだけど、その
彼女は震える声で、
「こんな体なのに自分は女だなんて言って……意味わかんないよね」
彼女の暗い感情がそのまま外に出て行くようで、周囲一帯が冷たい空気に包まれていく。
俺はぼうっと、それを眺めていた。
なんかいきなりしみったれた空気になるの、気まずいんだけど。
さっきまであんなに、おっぱいがどうのと
「だから捨てられるし、周りの人たちもあたしのことを腫れものみたいに――」
「そういうの、あんまり関係ないんじゃねえの?」
空気に耐えられなくなり、俺はミサキの言葉を遮ってしまう。
「え……」
彼女は呆けた表情で俺を見る。
俺は気にせずに続ける。
「人って誰でも変わってるところなんてあるし、俺なんて自分の変な能力のせいで女の人の胸見すぎて大学中で噂になるくらい気持ち悪がられてるけど、全然気にせず将来のことについて考えてるぜ。占い師とか探偵になって稼げるかなって。あと、俺の友達は家でピンク色のカーテンをマント代わりにして何かの漫画のキャラになりきってるけど、全然恥ずかしがってねえし。つまり、何が言いたいのかっていうと……変わってるところなんて関係ないんだよ。みんな変わってるから同じようなもんだ」
おっぱいが揉めるかもしれないという緊張感から解き放たれた俺の口は驚くほど回る。
「まあ、うるさい奴もいるかもしれないけど、そよ風だと思って無視すりゃいい。俺もそうしてるし。あいつらって言い返してこないヤツ見つけると好き勝手言ってストレス発散したいだけなんだよ。無視だ無視。なんかくっさい口臭みたいな風が吹いてるけど、自分は誰にも迷惑かけてないし、何よりこんな奴らより綺麗に生きれてるから勝ち、みたいな感じでな」
俺の言葉に、ミサキは目を丸くし、何も言わないでいる。
俺はハッとした。
しまった。何を熱くなってるんだ俺は。
大学でアニメとかの話で盛り上がっていたのに、突然横から入ってきて政治とかについての偏った知識をドヤ顔で語り始める顔見知り程度の知り合いみたいじゃん。あいつらって決まってフットサルしてるよな。あとパーマもかけてる。あとそのうち変な団体に勧誘してくる。
今はそんなことはどうでもいいんだけど……ああやっちゃったよ。めっちゃ恥ずかしい。深く知ってるわけでもないのに何をイキったことを言ってるんだ俺は。俺こそ正義マンみたいじゃん。ああもうホホホ、今日は反省会だ。寝る前に唐突にフラッシュバックして奇声で
俺はあまりにも恥ずかしく、いたたまれない気持ちになり、
「まあ、そこまでは思わなくていいかもしれないけど」
と後頭部を掻きながら自信なさげに言葉を締めた。
静寂。
ギャグを言ったわけでもないのに滑ったような空気をひしひしと感じる。お互い何も喋らず、その辺の道路を走る車の音や電線の上で休んでいるカラスの鳴き声が、鮮明に聞こえてくる。
しんとした時間だけが過ぎ、もう帰ろっかなあ、と思いはじめたころ。
「ふっ」
下を向いたまま手すりを強く握り、細い肩が跳ねるのに連動してクスクスと笑っている。
「あんた、バカだね」
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