第12話

 えぇ、なにこの展開。この子、正気とは思えないんだけど。

 元気になった礼とでもいうのだろうか。女の情緒って怖い。

 ミサキは恥ずかしそうに身を縮こまらせ、上目遣いで俺の反応を窺っている。男のツボを完全に押さえた態度はわざとなのか天然なのか、とにかく、グッと来てしまった自分を責められない。だって可愛いんだもの。


 だが、俺はこの提案を断らなければならない。つまり、胸は揉まない。

 初パイ験は女性で済ませたいからだ。この手で初めて感じられるおっぱいの感触は、女性のものでないといけない。それが俺の信念なのだ。

 確かにミサキの容姿は美少女そのもので、で仕草も魅惑的で、女性以上に女性といっても過言ではない。だが、男だ。俺は信念を曲げることはできない。


 だから俺は断らねばならない。ミサキを傷つけず、やんわりと。

 どうしたらいいものかと頭を悩ませていると、何を勘違いしたのかミサキは、


「あ、これ入れといたほうがいいかな?」


 と、先ほど自分で放ったパッドを拾い上げ、砂埃を払って胸に納めた。彼女の胸は膨らんだ。

 いや、そういう問題じゃないんだ。なんではにかんでるの。この子ちょっと面白いな。


 だが、何にしても断り文句を考えないといけない。

 男の硬い乳には興味はない。俺はちゃんと体が女性的な人のおっぱいを揉みたいんだ――これは人としていけない。色々怒られる。


 そんな一時の感情で簡単に体を差し出してはいけないぞ。親御さんから授かった大切な体なんだからな――これはなんか、エロい店でそういった行為をせずに説教し出すおっさんみたいだ。これも駄目。

 頭をフル回転にして考えていたが、その思考をかき乱す甘い声がそよいできた。


「ほら、いいよ」


 ミサキは言いながら、俺に差し出すように胸を張った。月明りに照らされたそれがぷるんと跳ね、こう見ると、偽物とは到底思えない。本物なんじゃないか? すんごく柔らかそうだあ。

 ふいに小さな風が吹き、彼女を通った風が俺に届く。甘くて優しい匂いが俺の鼻腔びこうをくすぐり、熱くなった俺の頭を直接撫でてくる。何だかくらくらしてきた。


 ……もう、いいんじゃないか?


 俺の中の俺が語りかけてくる。顔は申し分ないんだ。性別なんて、些事さじなことなのではないのか。

 体の力は抜け、かすんでいく頭で、自分の思考を後押しするかのように彼女の胸を見る。


 すると、目を疑う光景が広がった。

 周囲の時は固まったかのように止まり、彼女の胸の上――右乳と左乳に、一つずつの人影が浮かび上がったのだ。

 俺だ。小さな俺がミサキのおっぱいの上に立っている。


「俺はお前の中の悪魔だ」右乳に立つ黒い服を着た俺が言う。

「僕は君の中の天使だよ」左乳に立つ白い服の俺が言う。


 悪い夢でも見ているんだろうか。そう思ったが、乳に立つ天使と悪魔は一向に消えない。


「揉んじまえよ」悪魔が囁いてくる。「彼女は勇気を出してお前に揉んでいいと言ったんだぞ。その気持ちを無下にする気かよ」


 たしかに、その通りだ。


「揉んじゃ駄目だよ」天使が語りかけてくる。「初パイ験は女性で済ませるのが君の信条じゃないのかい? 男か女か分からないようなやからに君の信条を曲げられていいの?」


 たしかに、その通りだ。

 両者ともに理にかなった物言いだ。

 彼女の勇気を汲むか、俺の信念を取るか。悪魔につくか、天使につくか。おっぱいを揉むか、揉まないか。決めなければならない。


「仮にここで揉んだとして、偽物のおっぱいを揉んだあとに女性の胸を揉んでも、君は満足できるの? 偽乳を揉んだ穢れた手に、本物のおっぱいを揉む資格はあるの?」


 天使が祈りのポーズと一緒に訴えかける。

 それに対し、悪魔は腕を組み、不機嫌そうに顔をしかめる。


「確かに人工物を使っているけど、それは綺麗になりたい、可愛いって言われたいという健気な想いの現れだろ。その想いさえあれば、パッドは無機物を凌駕するんだ。普通のおっぱいと同様に人の暖かみが宿り、奇跡が、夢が、希望がそこに詰められていくんだ」

「なんだよパッドに暖かみが宿るって。アニミズムも大概にしてくれ。悪魔だからってオカルトに頼りすぎなんじゃないのか? 普通のおっぱい同様にって言ってるけど、結局偽物じゃないか。それに、女には健気な想いなんてないよ。あるのは、甘やかされたい。チヤホヤされたい。注目を浴びたい。そんな感情だけだ。それは見栄――虚栄心ってやつだ」

「それの何が悪い。ただ言葉を悪く言い換えただけで尊い想いなのは変わらないだろ。自分をよく見られたいなんて、当たり前の感情だろうが。むしろそれがないほうが空虚な人生を送ることになるんだぞ」


 その後も、天使と悪魔はお互いの主張で応戦するが、平行線だ。両者ともに一歩も譲らない。折れない。


「お前、さっきから天使っぽくないな」


 悪魔が疑うような目を天使に向ける。

 天使は鼻を鳴らし、小馬鹿にするような目で悪魔を見る。


「僕は彼の信念によって生まれたんだから、彼の思いを尊重してるだけだよ。それに君こそ、綺麗事や理想論ばっか吐いて全然悪魔っぽくないじゃないか。気持ち悪いからさっさと消えてくれ」

「なんだと!」

「やるか!?」


 天使と悪魔はそのまま取っ組み合いの喧嘩になり、天に昇って消えていった。

 同時に、時が動き出した。目の前にいる少女の黒髪は風になびき、夜空で星が瞬いている。


 何だったんだ今のは。俺の苦悩が生んだ幻影、幻か?

 何はともあれ、結局結論は出なかった。天使と悪魔はただただ悩みの材料を増やし、かき乱して消えただけだった。

 俺は……俺はどうすればいいんだ!?


「どうしたの? やっぱり……嫌?」


 ミサキが眉を下げ、少し悲しそうに小首を傾げた。

 その見惚れてしまうほど愛くるしい仕草に、押さえつけられていた自分の中の何かが、弾けた。

 顔が良ければ、可愛ければ……そう、関係ないんだ。男か女かなんて、大した問題ではない。大事なのはハート。信条や信念なんか、ただの足枷。不純物だ。


 俺はたどたどしい手つきで、ゆっくりと彼女の胸に手を伸ばす。

 彼女は察し、一瞬だけ体を強張らせるが、目をぎゅっと瞑って一層胸を突き出し、受け入れる体勢をとった。

 俺は指先に全神経を集中させる。


 パッドなんてもはやどうでもいい。さっき自分で言ってたじゃないか。俺は胸を揉むんじゃない。人としての性質――ヒューマニティを揉むのだと。

 偽乳の、パッドの向こう側に存在る彼女のヒューマニティが、あと数ミリでこの手に収まる。近づける手を、俺は止めない。

 そして、とうとうそこに行き着き、手の平を勢いよく広げたとき――


「ミサキッ!」


 突如知らない女性の声が割り込んできて、反射的に俺は腕を引っ込めた。

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