第6話
身に着けているスカートやサンダルのことなど気にもせず、彼女は手すりに足を乗せると、そのまま手すりの外側に、屋上の縁に立ってしまったのだ。
5階ビルの屋上から見下ろす光景は、そこに立っていない俺でさえも、想像するだけで手足の力が抜けそうになる。
とても平常心とは思えない行為。つまり、今の彼女は冷静ではない。
不安定な足場で、不安定な情緒の彼女がどんな行動を起こすのか……予測は簡単だった。
自殺
不穏な二文字が、俺の脳裏に浮かび上がる。
そして、それは現実のものになろうとしていた。
呻くような声で泣いている彼女は一瞬だけ真下の地面を見やる。息が荒くなり、肩が激しく揺れている。
そして、最後に大きく息を吸い、彼女の体がほんの少しだけ前に傾いたとき――
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は飛び出すように屋上に出て、上擦った声で言葉を放った。服のセンスなど言ってる場合ではない。
突然の背後からの声に、飛び降りようとした彼女はビクッと体を揺らし、踏みとどまった。
どうやら間に合ったみたいだ。ひとまずよかった。
だが、出てきてしまったからにはしょうがない。崩落寸前――否、一度崩落しかけた橋に足を踏み出したような心地だが、走破するしかない。その先の
彼女は振り返ると、顔を一瞬で驚愕の色で染めると、
「あなた……誰?」
困惑と不信感を混ぜた声で問うてきた。まあそうだよね。
「俺は汐丈夕大っていうんだけど……君の名前は?」
「……ミサキ」
一瞬言うか迷う素振りを見せたが、彼女はぶっきらぼうに名乗った。目は赤らんでいるものの、彼女の涙は引いていた。
そっかあ。俺におっぱいを揉まれる君の名前は、ミサキちゃんって言うんだ。いい名前だねえ。美味しそうだなあ。
思わず涎が出そうになってしまうが、俺は平常心を装って話を進める。おっぱいを揉むための道筋を、構築しなければならない。
「それで、なんで俺がここにいるかなんだけど、ちょっと街で君を見かけて、何て言うか……普通じゃない感じだったから、心配になってつい追いかけてしまったんだ」
あなたの胸を揉むのが僕だったのでストーキングしてしまいました――なんてことを言うわけにもいかず、その場しのぎの嘘が口から流れ出る。思ったよりも流暢で、自分でも驚いてしまう。
「それで……飛び降りるのか?」
「……あなたには関係ないでしょ」
彼女は冷たく言い放つ。即答だ。投げたボールが俺の顔面めがけて帰ってきたような気分だ。
まあ、そうなんだけども。関係ないけども。
だけど、ここで「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかないのだ。
「まあ、たしかに関係ないけど……放っておけないだろ」
「意味わかんない。私とあんたは赤の他人でしょ」
だめだ。取り付く島もない。何を言っても大きな壁で阻まれてしまう。どうすりゃいいんだ。
困り果てていた俺だったが、はっと思い出した。
『自分の意見を主張するな、とにかく褒めろ。同調しろ。自我を捨てろ。自分はあなたの味方だとアピールしろ。それこそが脱童貞への近道也』――この前読んだ雑誌の、俺が赤線を引いた部分ではないか。の女が突飛な行動に出たせいですっかり忘れていた。
俺の頭に刻まれていた、女性が喜ぶ台詞を思い出す。
『俺は君の味方だよ』『優しいんだね』『うんうん、俺もそう思うよ』『それは向こうが悪いよね』――よし、全て暗記できている。冷静だ。
今こそ勤勉な俺の集大成を見せるときだ。
「たしかに俺は赤の他人だけ……だけど、俺は君の味方だよ」「は? 何言ってんの。キモいんだけど」「優しいんだね」「馬鹿にしてんの? あたしなんか、どうせ必要ないからって……」「うんうん、俺もそう思うよ」「え?」「あ、いや、ちが……!」
しまった! そういう流れじゃなかった!
女性と話すのなんて久しぶり過ぎて、考えなしに雑誌の言葉をなぞってしまっていた。
小粋なトークで場を和ませるどころか、これでは彼女に不信感を与えただけだ。
とにかく弁明を。もしくは彼女の気を逸らす言葉を。
俺は登山家。彼女のあの密やかな山脈を踏破するためのクライマー。何としてでも登りきらねばならない。
「その、つまり、なんだ……」
人生は素晴らしい。命は尊い。止まない雨はない。今がどん底なら、あとは上がるだけだ。
道徳心に溢れた言葉が、いくつも頭に思い浮かぶ。
が、そのどれもが白々しく、俺自身が拒絶し、喉の途中でつっかえて出てこない。
本心を。雑誌の言葉や綺麗すぎる台詞じゃない。俺の本心をぶつけないとダメだ。
俺の、本当の心は――
「――胸を、揉ませてくれないか?」
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