第15話

 複数人同時の〈パイ視〉――〈パイ蜻蜓やんま〉を極めることによって発達した周辺視野が、こんなところで役に立つとは、自分でも思いもしなかった。


 俺は周辺視野で彼女の平手打ちを完全に捕捉し、首の最小限の動きだけで見事に避けてみせたのだ。蝶でも飛んできたのかと思ったよ。残念だったね。俺が未熟で、まだ〈パイ蜻蜓〉を会得していないときに君と会っていたら、あるいは地面に転がっていたのは俺のほうだったかもしれない。が、時代に寵愛ちょうあいを受け、おっぱいも手にした俺に敵はいない。そういうことだ。


「あんた何してんのよ!」

「ほぶブぇ」


 次の瞬間、ユウカのグーパンが飛んできた。完全に意表をつかれてしまい、美人OLの拳が、俺の頬に深々とめり込んだ。


 情けない声を洩らし、俺はぐしゃりと地面に倒れ込む。倒れ込んだ先にも、ユウカは追い打ちをかけてくる。彼女が履いてるヒールが、無常に俺に突き刺さる。

 俺は一瞬でズタボロになった。唯一の救いは、女王様――ではなく、ユウカに踏まれたときにタイトスカートからチラチラと黒いパンツが見えることくらいだ。お釣りが来るじゃないか。


「ユ、ユウカ! その人死んじゃうよ!」


 ユウカのご褒美ならぬお仕置きは止まない雨の如く俺に降り注ぎ、ミサキが止めに入ってようやく収まった。

 くたびれた絨毯じゅうたんのように地面に横たわる俺に、ユウカは捨て台詞を吐き捨てる。


「本当なら警察に突き出すところだけど、ミサキの自殺を止めてくれた借りよ。通報はしないであげる」


 そしてミサキの腕をとると、「じゃあ、行きましょう」と人が変わったかのように柔らかい口調で屋上をあとにした。


「今日は豪華な物でも食べましょう」「でも、いつもユウカに払ってもらってばっかだし……」「どっちが奢るとかじゃないのよ。そんな小さいこと気にしなくていいの」「でも、やっぱ悪いよ……」「じゃあ、ご飯食べた後、色々頑張ってもらおうかしら……ね?」「う、うん……!」


 二人の姿が見えなくなった後も、そんな会話が聞こえてきた。だがそれも徐々に小さくなり、屋上にはボロ雑巾ように伏す俺一人だけ。

 嵐が過ぎ去り、陰から見守っていた風が俺を慰めるように吹いてくれるが、かえって寂寥せきりょう感が増すばかりだ。


 仰向けのまま空を見るが、ちょうど雲がかかって月も星も見えてこない。心が穢れた人間には夜空すら観覧お断りなのか。

 何が間違っていたのだろう。

 ふと、そんな疑問が頭をよぎった。


 確かに、おっぱいは揉めた。だがそれはパッドの胸を不可抗力的に揉んだという、シチュエーションもおっぱいも俺の望んだ形ではない結果で終わってしまった。長年夢想していた俺の願望だったのに、辿り着いた先に待っていたのがこれだ。

 俺は両手を自分の眼前に持ってくる。何もないこの手には、まだミサキのパッドに宿りし心のありよう――ヒューマニティの感触が、残炎となって俺の手の平に留まっている。

 確かに、あれは気持ちの良い感触だった。だが、パッドだ。それがどうしても、俺の後ろ髪を引いてしまう。だが、それをミサキのせいにするという気にもなれなかった。


 ミサキはいい奴だった。ユウカから俺を庇ってもくれたし、結局胸も揉ませてくれた。偽乳だったけど。

 ユウカも、俺をボコボコにしたのは褒められる行為ではないが、男に容赦のない女尊男卑を地で行くあの言動は、過去に男関係でひどい目に遭ったからかもしれない。それに、ミサキを大事に思うあまりに起こしてしまった衝動的行動だったということを鑑みれば、おいそれと責められない。


 ミサキにはミサキの、ユウカにはユウカの物語がある。俺の物語は、主人公が最後に敗北するパターンのやつ……ただそれだけだったのだ。


 だから、間違っていたのは、俺の他人への考え方。それだ。


 全ては誤解だったんだ。俺が『パパ活』や『家系ラーメン屋』の意味を誤解していたように、ぱっと見の思い込みでその人がどんな人なのかを勝手に決めつけてしまっていたんだ。

 体は男だが、心を女性であるミサキが、その典型だ。


 俺はミサキのぱっと見の外見にだけ目が行き、回り込んで側面を見たりしようとせず、ただその胸に膨らむふっくら双子山のみを求めてしまった。だから、俺の結末はこんなことになってしまったのだ。

 人間はサイコロのように、いや、サイコロどころではない。何十、もしかしたら何百という面でその人の人となりが構成されている。なのに、俺は一つの面しか見ようとしなかった。人間の多面性を理解していなかったのだ。それが俺の敗因だ。一体何に負けたのか、それすらも曖昧あいまい朧気おぼろげだが、負けたという実感が、俺の中に重々しく居座っていた。


 俺も変わらなければならない。俺の別の一面が、そう提案してきた。

 今日はとりあえず家系ラーメン屋に行こう。偏見で足を運ばなかったが、案外気の良い店員がいるかもしれない。この〈パイ視〉の活用方法についての見直しも必要だ。胸を揉む相手を言い当てる占い師や女性の浮気調査限定の探偵も、やってみれば案外面白いかもしれない。


 今まで偏見を持って決めつけていた物事たちと、正面から向き合おう。俺は曇り夜空の下、そんな決心をした。三日後には綺麗さっぱりなかったことにして全く違うことを言っているかもしれないが、今この瞬間、俺は固い決意を心に秘めた。


 散々のたまったが、俺に後悔はない。これが、俺の生き様なのだ。

 俺は明日も明後日も、これからどんな絶望が待ち受けていようと、おっぱいを追い求めるだろう。それこそが、俺の使命だとさえ思えてくる。だとすると、俺のこの能力、〈パイ視〉はその使命を果たすための相棒なのかもしれない。


 もしかしたら、〈パイ視〉によって浮かび上がる人物の顔が例外なく笑顔でいるのは、人は誰しも優しい一面があるというメッセージだったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。


 よろしく頼むぜ、相棒。


 俺は自分の能力、〈パイ視〉に、言葉をかけた。もちろん、返答はない。

 よろけながら立ち上がり、一息つく。体の節々にまだ痛みがあるが、風が癒すように俺を撫でてくれる。


 やけに鮮明に自分の影が見えるなと思ったら、いつの間にか頭上を覆っていた雲は霧散していて、壮大な晴夜が広がっていた。

 満月が、俺を照らしている。おっぱいのように、まんまるで綺麗だった。

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そのおっぱいは誰のもの? りらっくす @relax

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