02.嫌い、嫌い……やっぱり好き

 リーゼの願いも空しく、その夜もノクターンは夕食の時間までに帰ってこなかった。


「はぁ……。まだ帰ってこないなぁ」


 リーゼは溜息をつき、台所で調理器具を洗う。背後にある食卓にはたくさんのクッキーが並べられており、どれもリーゼの力作だ。


 部屋の中はクッキーを焼いた時に使用したかまどの熱でほんのりと温かい。そして焼きたてのクッキーの甘い香りが、ふわんと辺りを漂っている。

 

 椅子の上で丸くなっているワルツが頭を上げ、熱心にクッキーの匂いを嗅いでいる。ワルツ用に用意した木の実が入っていないクッキーをあげると、嬉しそうに噛りついた。


(晩ご飯、すっかり冷めちゃったよ)


 ちらり、とかまどの上に置いている鍋を一瞥した。鍋の中には今宵作ったジャガイモのポタージュが入っている。

 丹精込めて作った料理だ。できれば温かいうちに食べてもらいたかったが、そんな願いはただの我儘だとわかっている。


「これくらい夜更かしすれば会えると思ったんだけど……もっと遅いんだね」


 窓の外は真っ暗で、薄く切れた三日月が頼りなげに浮いている。

 もうすっかり夜更けだというのに、まだ帰ってきていない。今夜も随分と仕事に追われているようだ。


(こんな時間にもまだ帰ってきていないなんて、ちゃんと寝られているのかな?)


 仮にいますぐに帰ってくると見積もったとして、両親が起きるより先に身支度を済ませているのであれば、さほど眠れていないことになる。


 多忙なうえに睡眠不足が重なれば、いくら鍛え抜かれた軍人であれど過労で倒れてしまうのではないだろうか。

 

「あなたのご主人様は本当に多忙だね」

「にゃ?」

 

 声をかけると、ワルツは小首を傾げて鳴いた。まるで「そうかしら?」と言わんばかりの、そっけない返事だ。


「ノクターンを待っていたいけど、もう寝よう。ワルツは私の部屋においで」

「にゃー」

 

 両親はとっくに眠っている。だから音を立てないように足を忍ばせ、手に持っている角灯ランタンの明かりを頼りに私室に入った。


「いったい、何時に帰るのかな?」


 髪を結んでいたリボンを解き、櫛を入れる。ゆっくりと寝支度をしても、帰ってくる気配が一向にしない。耳をそばだてていても、聞こえてくるのは時計の針が時を刻む音だけ。


 当てが外れたリーゼは力なく寝台の上に寝転がった。ハンナお手製のパッチワークの布団に包まる。

 

 ワルツはリーゼが布団の中に入るのを見届けると、寝台の上に飛び乗り、枕元で丸くなった。

 ゴロゴロと喉を鳴らし、子守歌のように聞かせてくれる。


(明日こそノクターンに会えますように)

 

 目を閉じ、ワルツにそっと頬擦りする。温かくふわふわの毛並みに触れると心が和んだ。


「おやすみ、ワルツ」

「んな~」

 

 お互いに額を擦り合わせ、眠りについた。


 ――それからどれくらい経っただろうか。


 不意にワルツが立ち上がり、ベッドから飛び降りた。ワルツの体温が離れて目を覚ましたリーゼは、寝ぼけ眼で体を起こす。

 

「にゃっにゃっ」

「どうしたの、ワルツ?」

「にゃあ」

 

 何かあったのだろうか、扉をぱたぱたと叩いて訴えかけてくる。扉を開けてほしいようだ。


「外に出たいの?」

「にゃあ~お」

「お父さんとお母さんが眠っているから、静かにね」


 取っ手を捻り、扉をゆっくりと開ける。すると、シダーウッドの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。ノクターンの香りだ。


「え?」


 驚いて顔を上げると、扉の外にノクターンが佇んでいた。まだ軍服を着ているから、いましがた帰ったところなのだろう。

 

 二人の視線が絡み合い、お互いの姿を捕らえた。どちらも息を呑み、ただ見つめ合う。

 

「……」

「……」


 足元にいるワルツが「にゃあん」と鳴き、沈黙を破る。

 

「お、おかえり……」

「……ワルツを、迎えに来た」

「そう……」

「……早く寝ろよ」

 

 ノクターンはふいと視線を逸らす。そのままワルツを抱き上げると、ぱたんと扉を閉めてしまった。

 足音が台所へと向かう。いまから夕食をとるようだ。


(ワルツを迎えに来ただけ……)

 

 ようやく会えたのに、ほんの少ししか言葉を交わしていない。しかも話しかけると、目を逸らされてしまった。

 ずっと帰りを待ち望んでいたリーゼからすると、「元気だったか?」くらいの言葉はかけてほしかったというのに。

 

「久しぶりに顔を合わせたのに……それだけ?」

 

 閉まった扉に背預け、膝を抱えて座った。遅れて怒りが沸々と込み上げてくる。


「ノクターンなんて嫌い」

 

 寝台に飛び乗って枕に顔を押しつけ、足をバタつかせて怒りを発散させた。

 

 意地悪で、不愛想な人だ。ずっと心配していたのに、顔を合わせても猫を引き取りに来たと用件を告げるだけで、リーゼに話しかける余地を与えてくれなかった。

 

(もっと話すことがあるんじゃないの?!)


 仕事の話や、最近の家の中で起きた出来事を聞いてくれたら、また二人で会話をすることができたはずだというのに。

 それにもかかわらず、ただ淡々と必要なことだけ済ませて去っていったのだ。

 

「ノクターンのバカ。嫌い」


 どうして避けるのだろう。

 なぜ目を逸らすのだろう。


 嫌いなら嫌いだと言ってくれたらいい。そう思う一方で、その言葉をなによりも恐れている。

 

「……嘘。好き」


 なんと厄介な気持ちなのだろう。胸の中を絶え間なく嵐が通り過ぎていくようだ。

 好きだと思う気持ちが強くなるほど、寂しさやもどかしさが生まれて心の中をかき乱す。


「大好きなの」

 

 物心がついた頃からずっとそばにいてくれる大切な人。彼への気持ちは長い年月をかけて育ち、リーゼの心に深く根づいている。

 その想いが募るばかりで持て余している。


「昔はいつも一緒にいてくれたのに……」

 

 ――いまでも覚えている。


 かつてノクターンが、眠っていた自分の隣で見守ってくれていた日々のことを。

 少しでもいなくなったら、慌てて探しに来たときの必死な眼差しを。

 そして眠っている間も、リーゼが寝返りを打って離れると、すかさず手を伸ばして抱き寄せてくれたことを――。

 

「どうして、どんどん離れていくの?」


 胸の奥がツキンと痛む。密かに涙を零し、枕に突っ伏して泣いたのだった。

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