第三章

01.スタイナー大佐は見た

 その翌日、ノクターンはネザーフィールド社の事務所の近くをうろついていた。


 生成りのシャツに、灰色のジレとトラウザーズ、それにハンチング帽を合わせた、地味ないでたちで。

 本人は目立たぬようにこの服装にしたつもりなのだろう。しかし地味な服装がノクターンの美貌を際立たせてしまい、逆に目立っている。


 今日からリーゼが働き始める職場のことが気になり、仕事を早めに片づけて視察に来たのだ。もちろん、リーゼには秘密で。

 

「ここがリーゼの職場か」


 そう言い、どことなく割り切れない表情で濃緑の看板を睨みつけた。


(会社自体は問題なさそうだ。調べてみたが、怪しい取引の噂も不正の痕跡もなかった)


 ネザーフィールド社の名は知っている。『経済速報新聞』によると、年若い実業家が経営しているらしい。特に最近は勢力を伸ばし、国内にいくつもの紡績工場をかかえている。


(しかし、社長の為人が気がかりだ)


 一方で、その社長は色恋沙汰が多いと巷の噂で聞いたことがある。そのような軟派な輩がリーゼに目をつけるのではないかと思うと、不安でならないのだ。


 リーゼは可愛い。おまけに近頃は、ちょっとした表情に大人の女性らしい美しさが滲み出るようになった。

 ミラー医務官もリーゼをそう絶賛していたのだから、単なる身内の贔屓目ではないだろう。だからこそ尚更、かの社長を警戒している。

 

(今日リーゼが帰って来たら、社長とは二人きりにならないよう忠告しておこう。あまりにも酷い有様であれば、ここを辞めさせて知り合いの会社を紹介しよう)


 無意識のうちに手が動き、右頬に触れる。昨夜、リーゼにキスされた頬だ。


(……急に甘えてくるなんて反則だろ)

 

 リーゼがうんと幼い頃は、欲しい物を強請る時や、甘えたい時にいつもキスしてくれていた。

 夜眠る前の挨拶としてお互いに交わしていた頃もあった。


 しかしある日突然、恥ずかしがったリーゼに逃げられてからしなくなったという、苦い思い出がある。

 落ち込むノクターンを見たブライアンから、「リーゼが大人になった証拠だから、悲しむな」と慰められたのだった。


 それなのに昨夜は、リーゼ自ら頬にキスをしてくれた。急に、寝る前の挨拶をもう一度してくれたのだ。

 感動のあまり、あれから全く眠れなかった。

 

「はぁ……。調子が狂う。リーゼに振り回されてばかりだな」

 

 今日だけで何度あの瞬間を思い出した事だろうか。その度に己を叱咤する。

 頬にキスをされたあの時、気づけば彼女を抱きしめていたのだから。

 

 リーゼの柔らかな唇に触れられた途端、体が勝手に動いていた。

 あの時の自分は確かに、彼女を腕の中に閉じ込めて身動きを封じ、取り込んでしまおうとしていたのだ。


(俺は……なんてことをしようとしたんだ)


 あの小さな顎を掬い、上を向かせて唇を塞ぎたいと思っていた自分がいた。

 リーゼは守るべき存在だというのに、そのようなことを考えるなんて、彼女を狙う獣となんら変わりないではないか。


 理性がそう諫めるのに、脳裏に焼きついたリーゼの照れくさそうな笑みを思い出すと、またあの唇に触れてもらいたいと願ってしまう。

 

「……くっ」


 ノクターンは胸元を鷲掴んで呻く。

 リーゼが可愛い。どうしようもなく可愛くて、愛おしくて、胸が苦しくなる。


 深まるばかりの想いに、心がかき乱されるばかりだ。


「しっかりしろ。冷静さを欠いては命取りになる」


 もしミラー医務官が隣にいると、「ここは戦場ではありません」と突っ込みを入れられていただろう。

 しかしノクターンにとってここは戦場だ。それも、敵陣の中である。そして、かの実業家がリーゼの害になるのかを見極めなければならない正念場だ。


 気を取り直して物陰に隠れ、窓の中の様子を窺っていると、バッスルスタイルのドレスを着た令嬢が通りから現れて扉の前に立った。

 ドレスの色は鮮やかな薄紅色で、フリルがふんだんにあしらわれている。かなり裕福な家の令嬢なのだろう。


 社員にしては働きにくそうな服装だから、顧客だろうか。

 そう推し量っていると、令嬢がネザーフィールド社の事務所の中に入っていった。正確に言うと、扉に体当たりして押し入ったのだ。

 

 ドンッと大きな音がする。


(どうして扉に突撃する?!)

 

 唖然として見守っていると扉が開き、押し入った令嬢は生真面目そうな見目の男性に追い出された。


「エディに会いに来たの! エディを出しなさいよ! もう二週間も会ってくれないのよ?! 私の事が好きだと言ったのに!」


 令嬢が金切り声を上げて訴えているが、男性は淡々と宥めている。

 男性が根気強く宥めていると、令嬢はつんと澄ました顔で事務所から立ち去った。捨て台詞を残して。


(なるほど。あの令嬢は社長の恋人といったところか)

 

 令嬢が呼んでいた「エディ」が何者であるのか、事前に調べたから把握している。

 その人物こそがこの会社を経営する実業家――つまり、社長だ。

 

「色恋沙汰が多いという噂は本当のようだな。ろくでもない奴がリーゼの近くにいるなんて……絡まれていなければいいのだが……」


 ――いや、あの可愛いリーゼが絡まれないわけがない。リーゼの魅力に気づかない奴の目は節穴だろう。


 と、少々面倒くさい思考がノクターンの脳内に展開されていたその時、ネザーフィールド社の扉が開く。今度は扉につけられている鐘がカランと軽やかな音を立てた。

 

 扉から出てきたのはリーゼと、先ほど令嬢を宥めていた生真面目そうな男性と、見るからに軟派そうな金髪の男性だ。

 

「お二人とも、お先に失礼します」


 リーゼが二人に挨拶をする。どうやら見送ってもらっているらしい。

 すると、生真面目そうな男性がリーゼに労いの言葉をかける。

 

「お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね」


 リーゼに向ける眼差しには裏がなさそうだ。

 こいつは警戒しなくても良さそうだと判断した。


 そして、もう一人は――。

  

「リーゼちゃーん! 明日も待っているよー! それと、週末のお出掛けのこと、考えておいてねー!」


 気さくを通り越し、馴れ馴れしく、リーゼに話しかけている。

 

 金髪の男の言葉に、ノクターンの口元がひくりと動いた。


(週末のお出掛けとはなんだ?! 逢引するつもりならまず俺を通せ!)

 

 もちろん、話を持ちかけられたところで断るつもりでいる。可愛いリーゼを噂の女誑しと二人きりにさせるものか。

 

 しかしノクターンの心配は杞憂に終わったようで、リーゼが誘いを断っていた。

 おまけに隣にいる生真面目そうな男性が金髪の男の頭を小突き、

 

「エディ、しつこいぞ!」


 と、リーゼにしつこく迫るなと忠告している。


 エディと呼ばれたこの人物こそが噂の実業家だろう。


(なるほど。あの女誑しを指導する人間がいるようだな。筋もいい)


 生真面目そうな男性は、先ほど令嬢を対応していた時とは打って変わり、軍の指導官にもなれそうな気迫で金髪の男性を諫めている。

 

(あの者がいるのなら、しばらくはリーゼを預けて様子を見よう)


 何事も経験が必要だ。いまのリーゼは頑なに国軍で働くと言っているが、実際に会社で働いてみると、考えが変わるかもしれない。

 会社で働く道を選んでくれたら、心配事が減ってくれるのだ。


 それにもかかわらず、ノクターンは渋面を作ってリーゼたちのやり取りを眺めていた。

 

 リーゼが年若い男性と一緒にいる様子を見ていると、胸の奥底に得も言われぬドス黒い感情が渦巻いてしまうのだ。


「ああ、俺は――」


 心の中に浮かんだ言葉を言いかけ、口を噤む。これは言葉にしない方がいいだろうと判断した。

 ノクターンはハンチング帽を深くかぶり直すと、足音を立てずにその場を去った。

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