07.スタイナー大佐は絶不調

 翌日、ストレーシス国軍本部の医務室に、一人の患者が現れた。


「あら、スタイナー大佐。先日の資料の件でしたら本日の昼に私の方から伺う予定ですが?」

「別件だ。具合が悪いから診てほしい」

「そうでしたか。勘違いして失礼しました」


 ミラー医務官は棚の中からノクターンの医療録を取り出し、机の上に置く。


「では症状を伺います。どこに不調がありますか?」

「脳と心臓……だろうか」

「具体的には?」

「妹のように大切にしている子のことが頭から離れないんだ。あの子のことを考えると動悸がおかしくなる」

「……重症ですね」


 言葉とは裏腹に、医療録を書く手を止めて万年筆を仕舞った。


「スタイナー大佐、ここは恋愛相談室ではありませんので他を当たってください」

「れ、恋愛……?」

「ええ。単刀直入に申し上げますと、あなたの不調の原因は恋の病というやつです」

「――っ!」


 よほど衝撃的だったのだろう。ノクターンは口を半開きにしたまま押し黙った。


(リーゼに、恋を……?)

 

 ややあって、はくはくと口を開けたり閉じたりする。その無防備な様は、冷血の形容詞を冠する男らしくない。


 ノクターンの意外な反応に興味を覚えたミラー医務官は、少しだけこの男の話に付き合ってやることにした。


「まずは情報を整理しましょう。昨日、その子となにかありましたか?」

「ああ……告白と求婚をされた」

「まあ! スタイナー大佐を相手に、なかなかやりますね」

「自分が誰かのものになってもいいのかと聞かれた」

「勇ましい妹さんですね。で、なんと答えたのですか?」

「なにも言えなかった……」

「意気地なし」

「え」

「……コホン。なんでもありません」

 

 戦場では敵からも味方からも恐れられる男が、たった一人の女の子の言葉に翻弄されている。それが滑稽でしかたがない。


「はぁ……。状況はおおよそ掴めました」

 

 仕事に支障をきたすほど悩んでいるくせに、己の恋心に無自覚なこの男の鈍感さに呆れたのだった。


「いま一度聞きますけど、スタイナー大佐にとって妹さんはどのような存在なのですか?」

「お、俺にとってリーゼは妹のような存在で……」

「でも、リーゼちゃんはスタイナー大佐を兄だと思っていないんですよ? それに、血縁関係がないから結婚できますよね?」

「十歳以上も年が離れているのに……」

「王政時代の貴族ではそのくらいの歳の差なんて珍しくありませんでした」

「時代が違うだろ。王政は崩壊したんだ。それに貴族はもう存在しない。ただの金持ちになって弱体化している」

「そこは話の要点ではありません。つまり、リーゼちゃんはもうすぐで『大人』という同じ立場になるのです。そのリーゼちゃんはスタイナー大佐との間にある隔たりを越えたいと思っている。そのリーゼちゃんを、どのように受け止めたいと思っていますか?」

「……俺がリーゼの恋人になるなど……」

「はぁ?」

「え」

「……コホン。なんでもありません」

 

 どうやら件の少女と自分を恋愛に結びつけたくないようだ。

 そうなれば、一つの可能性が見えてくる。

 

「もしかして、スタイナー大佐に恋人がいるから、リーゼちゃんの気持ちに応えられないとか?」

「いや、恋人はいないし必要ない。俺はリーゼとあの子の家族と一緒にいられればそれでいいんだ」

「しかし……仮にリーゼちゃんに恋人が――」

「断じて許さん。この世の男は誰一人としてリーゼに指一本触れてはならん」

「重っ!」


 なかなか面倒くさい性格の男だ、とミラー医務官は溜息をついた。


 ――もしかして、恋愛を知らないのだろうか?

 一つの疑問が頭をもたげる。


 ミラー医務官が記憶する限りでは、ノクターン・スタイナーの浮いた話を聞いたことがない。

 

 軍の内部では意外と恋愛絡みの話が飛び交っており、士官学校時代の恋人の話も漏れなく同期たちによって広げられてしまう。中には、どこの店の娼婦に入れ込んでいるといった話まであけすけに語られるものだ。


 それなのに、ノクターン・スタイナーに恋人がいるという話は一つもない。

 

「いいですか? リーゼちゃんの気持ちを受けとめないのに恋愛の自由を奪うなんてスタイナー大佐の傲慢でしかないですよ。そのうちリーゼちゃんから拒絶されてもおかしくないと思います」

「拒絶……」

「ええ。リーゼちゃんはスタイナー大佐のものではないのですから」

「俺は……リーゼを守りたいだけだ」

「本当にそれだけですか? スタイナー大佐は敢えてご自身の気持ちを無視しているように見えます。リーゼちゃんを大切な妹と思い込むことで蓋を閉めているのではないでしょうか?」

「――っ?!」


 指摘されて肩を揺らす男に、いまや冷血のスタイナー少佐の片鱗もない。ただ自分の気持ちを知ることを恐れ、臆病になっている普通の人間に見えた。


「俺が無視している気持ちとは何だ?」

「それはご自身でどうにかしてください。私は魔女ではないので自白剤なんて作れませんから」

「……そうだな」

「お節介を承知で言いますと、リーゼちゃんを異性として意識してみるのも手だと思いますよ」

「リーゼを異性として――……くっ」


 ノクターンは片手で口元を覆った。みるみるうちに顔を赤くし、空いている方の手で胸元を強く掴んでいる。それはまるで、強く脈打つ鼓動を抑えているかのようだ。

 

「……重症ですね」

「俺はおかしくなったのか?」

「おかしいかどうかと言われましたら、以前から変わりなかったと思いますよ? リーゼちゃんのこととなると顔つきが変わりますので」

「……」


 もうこれ以上話すことはない。ミラー医務官はテキパキと医療録を片付け、代わりに資料の束を机の上に置く。

 

 その分厚い資料の束は、ノクターンが先日提出した、とある作戦についての報告書だ。


「診察は以上です。ついでに昨日提出いただいた書類の件の話をしていいでしょうか? 午後は総帥との打ち合わせもありますのでご協力いただけると嬉しいのですが?」

「あ、ああ。わかった」


 かくして恋心を自覚させられたまま放置されたノクターンは、ひどく困惑したのだった。


(本当に以前から……リーゼに対してこのような感情を抱いていたのか?)


 器から零れ落ちた水が器の中に戻れないように、一度気づいてしまった気持ちを隠すことは、もうできなかった。


(こんな状態で……リーゼに会えない)


 

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