第一章

01.近くて遠い距離

 淡く滲む色彩が空に広がる、春の夕暮れ時。

 リーゼは台所にある食卓の上で、帳簿とにらめっこしている。


 かまどの上では鍋がコトコトと震えて音を鳴らしており、鶏肉の塊と一緒に煮込んだ野菜スープの甘い匂いを湯気にのせて放つ。


「今月は上手く節約できて良かった。来月はぶ厚い牛肉をたくさん買えそう!」


 ほくほくと喜びを噛み締めて帳簿を閉じた。

 いつからか、帳簿はリーゼの担当になった。彼女から進んで始めたことで、将来のために実践している。


 ストレーシス国軍の財務部で経理として働くことがリーゼの夢だ。

 給料が良く、そして理想的な職場環境だから。他者から理由を聞かれたときは、いつもそう答えている。

 

 実際に、軍が統治しているストレーシス国では、軍の経理は下っ端でも給料がいい。ひと月分の給与で、労働階級の三カ月分ほどの収入に匹敵するだろう。


 その夢を叶えるべく、いまは日夜、一年後に差し迫った国家試験の勉強に勤しんでいる。


「そろそろ今晩の主役料理メインディッシュを作ろうかな」


 鶏肉を取り出すと、足元に黒猫がやって来きた。おこぼれを求めてリーゼを見つめる瞳の色は、翠玉のような緑色。


「待っていてね、ワルツ。あなたのご主人様が帰ってきたらいっぱいくれると思うから」


 ワルツはつれない返事を理解したらしい。悲し気に「にゃう」とひと鳴きして椅子の上で丸くなった。

 彼女の「ご主人様」が帰ってくるまでふて寝すると決め込んだのだろう。

 

 リーゼは鶏肉に切れ目を入れ、塩胡椒で下味をつけてから野菜を詰める。慣れた手つきで足を縛って固定した。

 それからバターを表面に塗ると、ローズマリーを敷き詰めた天板にのせる。周りにジャガイモやトマトやニンジンをのせれば、あとは焼くだけだ。


「ねぇ、ワルツ。そろそろみんな帰ってくるかな? 料理が冷めないうちに帰ってくるといいのだけど……」


 黒くてふわふわな後姿に向かって話しかけると、ワルツは起き上がって出窓に飛び乗った。

 じっと外を見つめた後に、「にゃあ」と答えてくれる。もうすぐ帰ってくると予言したのだ。


「わかった。ワルツを信じて焼き始めるね」


 すると鶏肉を焼き始めると同時に、玄関から金属がガチャガチャとぶつかる音が聞こえてくる。

 窓辺にいたワルツがぴょんぴょんと跳ねるような足取りで玄関に駆けていった。


「――ただいま。ワルツ、元気だったか?」


 次いで、ずっと待ち望んでいた人物の声が聞こえてくる。

 リーゼは早鐘を打ち続ける心臓のあたりに手を添えて、大きく深呼吸した。そして手櫛で髪を整えると、ひっそりと出入口に向かう。


(どうしよう。まだ心の準備ができていない……)


 足音を忍ばせ、息を殺して。そうっと顔を覗かせると、目の前に濃紺色の軍服の生地が見える。


「あ、あれ?」

 

 慌てるリーゼの頭に、軍服の持ち主の額がコツンと寄せられた。

 

「久しぶりに返ってきたのに、おかえりの一言もないのか?」

 

 耳元に落ちてくる声はぶっきらぼうで――だけど聞いていると心地がいい低音の、大好きな声だ。

 慌てて見上げると、目と鼻の先に溜息をつきたくなるほど整った男の顔が迫っており、リーゼの反応を楽しんでいる。


「お、おかえり、ノクターン。軍のお仕事お疲れ様」

「ほう……ついに労いを覚えたか。いい子だ」

「素直に受け取ったらどうなの?」


 この不愛想な軍人は昔からこの調子だ。リーゼに意地悪ばかり言うし、掴みどころがない。

 しかし両親と同じくらいの長い時間を共に過ごしており、家族と同じくらい大切な存在だ。

 

 ノクターンはリーゼの幼馴染だ。とはいえ十歳以上も離れているため、一緒に遊ぶとしても絵本を読んでもらうくらいで。

 大きくなってからはいい家庭教師チューターになってくれた。


 彼とのこの関係は、いつから始まったのだろうか。少なくともリーゼに物心がついた頃からそうだった。

 リーゼと父親のブライアンと母親のハンナ、そしてノクターンは、いつも同じ食卓を囲んでいる。


「今日は軍の人たちとの飲み会で遅くなると思っていたのに……」

「まさか。五日間も顔を見合わせて仕事をしていたからもう十分だ。しばらくは見たくないね」


 ノクターンは気だるげに黒革の手袋や軍服の上着を脱ぐと、椅子の背もたれに引っかけた。上着の胸元についている勲章が、高い音を立てて裏返る。


「食べ物の匂いがつくよ」

「汗の臭いよりましだろ」

「そんなわけないでしょう」

 

 怠惰な意見に呆れて溜息をつき、上着をノクターンの私室に避難させた。


(久しぶりにノクターンが帰ってきて安心した。長い五日間だったな)


 この家には、リーゼたちヘインズ一家とノクターン、そしてノクターンの飼い猫であるワルツが住んでいる。

 軍に入り、ヘインズ一家よりひと足お先に首都であるアヴェルステッドへ移住したノクターンが、昇進して得た給料でこの一軒家を買ってくれたのだ。


 それ以来、ノクターンは家主となり、ヘインズ一家は家賃の代わりに家事全般を担っている。

 

「寂しかったか?」

「べ、別に……」


 咄嗟に否定したけれど、本当はとても寂しかった。ノクターンには秘密だが、彼の姿を一目見ようと、国軍本部の門の前を通りかかったことがある。


(結局ノクターンには会えなかったけれど、ノクターンを目当てに待ち伏せしている女性たちを見つけてしまったから、気まずくて帰ったんだよね)

 

 若くして大佐に昇進したノクターンは、アヴェルステッドではちょっとした人気者だ。美形で将来有望だから彼との恋に憧れる女性の話を耳にすることがある。

 その度に、ノクターンが遠い存在になったような気がして、焦燥に駆られるのだ。


「今度また軍本部に泊まり込みの仕事がある時は、差し入れを持って行くね」

「ダメだ。あそこはむさくるしい。うちのリーゼに悪い虫がついたら困る」

「子ども扱いしないでよ」


 ノクターンは頑なにリーゼを職場に近づけようとしない。だからリーゼは国軍の経理を目指している。

 

 国軍で――ノクターンと同じ職場で働きたいということが、本当の志望動機だ。

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