03 如庵の回想
「これは、好機だ」
と判じた。
当時、天正大地震という奇禍もあり、羽柴徳川両陣営とも厭戦の雰囲気が漂いつつあった。
長益は、兄である信長や、秀吉や家康のような名将ではないが、それでも今が好機だということはわかった。
「信雄は人が
兄・信忠からそのように評価された信雄には、これ以上、秀吉と家康の間で揉まれるような立場は耐えられないであろうし、いずれ潰れてしまうであろう。
そう、あの
織田の源五(長益)が泥をかぶれ、との。
*
あれから。
信雄は結局、秀吉との和睦に応じた。
秀吉から「伊賀と伊勢半国を譲る」と言われ、何よりも長益に「これ以上の戦いは無益」と説かれ、ついに根負けした。
これにより、のちに小牧長久手の戦いといわれる、日本全国を巻き込んだ大いくさは、終息することになる。
しかし結果として、信雄は家康を裏切って秀吉に
そして最後には秀吉の怒りを買い――改易、流罪となった。
「
以後、信雄は長益と会うたびに、そういういやみを言うようになる。
それでも、信雄はそのあとの関ヶ原、大坂の陣といった争乱期を生き抜き、最終的には五万石の大名として返り咲き、老後は能に茶にと優雅な生活を送ることになる。
*
一方で長益は。
「これより、
信雄の改易に責任を感じたのか、出家した。
実は長益はキリシタンで、
洗礼を受けながら出家とは、矛盾した行いに見えるが、この時代の人たちは案外、そういう矛盾を感じなかったかもしれない。
「まるで……月を飛ぶ蝶のようだ」
あの頃――尾張にいた少年だったあの頃、兄・信長が
そのあとすぐに解放されたあの蝶々は、ふうわりふわりと舞って行ったが、今ごろ、どうしているだろうか。
いや、あの蝶々が程なくして死んだのはわかる。わかっているのだ。
今、言いたいのは、その蝶々のような。
「この有楽……それ自身のことよ」
時は元和四年(一六一八年)。
有楽は京の
号して、
己の
今、
「蝶が……」
茶室から土間を見ると、土間の袖壁に、丸い窓がある。
あたかも――月のような。
その月のような窓の外、有楽の好んだ椿が咲き誇る庭を。
蝶々が、待っていた。
「月を飛ぶ……蝶……」
丸窓の外。
後世、
蝶々が舞い、降りた。
──
「信長
有楽は大井戸茶碗を取り落としそうになった。
今、まさにその織田信長に歳を取らせたような容貌の男が、その蝶々の止まった椿の陰から、のそりと姿をあらわしたからである。
*
「ご無沙汰しております、叔父上」
信長(の老後)に似ていた男は、信雄であった。
親子だから似ていて当たり前であるが、この登場には面食らった。
そういえば、信雄の改易以来、会っていないが、随分と老け込んだものだ。
たしか出家して、今は「常真」と号しているとか。
「
常真は照れくさそうに、その
「……父が言うのです。『あまり源五を嫌うな、おぬしが今生きていられるのは、誰のおかげぞ』、と」
「……兄上が、いや、信長さまが」
常真はくすっと笑って、もう
「もはや織田も豊臣もなく、徳川の世。そのようなこと、誰が気にかけましょう」
それより……と、茶室の中、常真はずいと迫った。
「叔父上が父を殴ったというのは、まことか?」
「……それでござるか」
有楽は頭を
若気の至りだったとは思う。
それでも、兄・信行の命を奪った兄・信長のことを
あの、「月を飛ぶ蝶々」を眺めて
「……まことでござる」
常真は驚きの表情を示したが、その
「……実は、夢枕の父が、
「兄上は死んでまで……」
やはり、本能寺のあの時、会いに行っておけば良かったか。
そう後悔する有楽の
「もしや」
あの時信長が敢えて殴られたのは、有楽の気持ちを尊重してくれたからではないか。
すぐさま殴り返されたから、あの時は気づかなかったが、すでに戦陣を駆けめぐっていた信長にとって、
そして、そのすぐさま殴り返したことも。
「そうしておけば、この有楽が当主に逆らったことの罰を受けたことになる」
よくよく考えれば、有楽が離してといった蝶々を、すぐに解放した兄だ。
信行を討ったことは無念だが、それでも有楽のことは、大事にしてくれていたのだ。
たとえ、距離を置かれても。
亡くなった今でも。
「兄上……」
突如、
人が
信忠の言ったとおりだ。
ことあるごとに、小牧長久手の恨み言を言ってくるのも、そういう、人の──己の生の感情を大事にするからだ。
「……いや失礼した」
有楽は涙を拭いて、茶を
点てながら、ふと思った。
そういえば信忠も、
「え、そのようなことが」
有楽がそれを告げると、常真は大井戸茶碗の中に涙を落とした。
そんな彼を
あの時。
信忠は
もうひとりの弟、神戸信孝はその気性の激しさから、信忠はやがては身を滅ぼすと予見していた。
そして実際、そのとおりになった。
一方で。
「
何のことはない。
誰しも、有楽のことを気にしてくれていたのだ。
この、月を飛ぶ蝶々のような男を。
「……ありがたいことだ」
ここでようやく常真が顔を上げた。
彼もまた、何か吹っ切れたような顔をしていた。
そしてぽつりぽつりと、隠居して京の北野に居を構えたことを告げた。
「それはいい」
有楽は、今度茶を点てに参りましょうと言った。
それを聞いて、常真は笑った。
その笑顔は、信長に似て、あるいは信行、はたまた信忠にも似た、快活な笑顔だった。
*
……有楽椿に蝶が舞う。
土間の袖の、丸窓から眺めると、それはまるで月を飛ぶ蝶のよう。
「信長
このような人々に囲まれて、実に幸せであったと、有楽は思う。
「……なら、精々、大事にしてくれた分、飛ぼうではないか……うつくしく」
織田有楽。
利休の弟子として、格別の扱いを受け、茶室・如庵などのかたちのある美を、あるいは茶道・有楽流などの、かたちのない美を残す。
それはまた、彼を囲んだ人々が、月を飛ぶ蝶のような彼を、大事にしてくれたおかげかもしれない。
【了】
月を飛ぶ蝶のように ~有楽~ 四谷軒 @gyro
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