02 本能寺の記憶

 織田源五郎長益おだげんごろうながます──のちの如庵有楽じょあんうらくは、兄である信長の嫡子、信忠に仕えることになった。


「叔父上、よろしく頼む」


 信忠は実に快活な青年で、兄・信長の良いところをみんな引き継いでいる。

 そんな雰囲気を持つ青年だった。

 信長はこの青年を後継者と定め、実際、家督を生前に譲っている。

 また、今川義元を討った勇士・毛利新介のような猛者もさを麾下につけるなど、家臣でも選りすぐりの人材を配置していた。

 彼ら──信忠軍団の幹部たちは総じて若く、必然的に年長者であり「御一家」である長益が軍団の調整役というか緩衝材となっていた。

 気苦労の絶えない立ち位置であるが、


「いつもすまぬ、叔父上」


 と信忠に言われると、仕方ない、やるかと腰を上げている。

 そんな日々がつづいていた。

 ……気がつくと、長益は三十六歳になっていた。



 その日──天正十年六月一日。

 織田長益は妙覚寺なる寺院にて、主・織田信忠の帰りを待っていた。

 信忠は本能寺に宿している父・信長を訪ね、夜遅くまで帰って来なかった。

 痺れを切らした長益が、みずから本能寺に迎えに行くかと思った時に、ようやくにして信忠が帰還した。


「今、帰ったぞ。叔父上」


 一緒に来れば良かったのにと言いながら、信忠は長益のてた茶をすすった。


「あいや、それがしは陪臣またものにて」


 陪臣とは、直接の家来ではなく、頂点に立つ者の臣下の、その下の臣下である、という意味である。

 つまり長益は信長の家来ではなく信忠の家来なので、信長と直接会うのははばかられる、と遠慮したのだ。


「そのような遠慮をせずとも」


 信忠は、ただ家族として来れば良かったのに、と残念がった。

 しかし長益としては、信行の死以来──殴り合いをして以来、ろくに面と向かって兄弟らしい会話をしたことがない信長に、家族面して会いに行くのもどうかと思った。


「それに……」


 長益はふと己の着ている直垂ひたたれの家紋――揚羽蝶あげはちょうを撫でた。


「月を飛ぶ蝶のような自分織田長益に、今さら会いたくもなかろうに……」


 ……だが長益は、この時信長に会わなかったことを、あとで大いに悔やむことになる。



 明けて、天正十年六月二日。

 この日、京にて変事が出来しゅったいした。


 本能寺の変である。


「もはや本能寺は焼け落ちましてございます。妙覚寺こちらにも惟任これとうの手の者が参りましょう」


 惟任とは、明智光秀のこと。

 織田家一の将である光秀は、何らかの理由で信長に叛し、本能寺を焼き討ちにした。

 信長を始末したとなれば、次に狙うは信忠である。

 信忠は即座に妙覚寺を出ることに決めた。


妙覚寺ここでは守りづらい。二条御新造に移ろう」


 二条御新造とは、妙覚寺に隣接した、かつての二条家のやしきを信長が貰い受け、最初は自身の京の滞在場所として使っていたが、やがて時の天皇・正親町天皇の皇太子、誠仁親王さねひとしんのうに献上した。

 信忠とその家臣たちの目論見は、この新造のやしきなら防御力も高く、明智相手に善戦できようというものである。


「叔父上、叔父上」


 信忠は妙覚寺から二条御新造への移動中、長益に馬を寄せてきた。


「もし私が討たれたら、信雄のぶかつもとへ行ってくださらんか」


 信雄というのは織田信雄で、信忠のすぐ下の弟である。

 長益は眉をひそめた。


「……滅多なことをおっしゃいますな、縁起でもない」


 信忠は不思議そうな顔をして、この天下で誰よりも一番に縁起でもないことを考える、それが天下人というものだと返した。

 長益としては、恐れ入ったと言うしかない。


「……信雄あれは人がすぎる。明智には太刀打ちできんだろう」


 それが、長益に信雄の許に行ってほしい理由だという。


「一方で信孝。これはせい倨傲きょごうだ。驕り高ぶっている。たとい叔父上が言ったとしても、聞くまい」


 信孝、つまり神戸かんべ信孝は信雄のすぐ下に位置する弟で、庶子であるが、その驕慢な性格でのし上がり、今では四国征伐の総大将として、泉州岸和田にいた。


「……明智を倒す者が現れたとして、だ。信雄と信孝では、勝てまい。そうなると信孝は死んでも歯向かおうとするが、信雄はまだ、心ある者の発言を聞く余地を持っている」


 だから長益に信雄の許へ行けと言う。

 そういう自分はどうするのだと問われると、


「この織田信忠、ここで逃げたら、信長の死に恐れをなしたと言われるだろうよ。いや、恐れはしないが、明智はそう言うだろう。いわんや、明智を倒した者においておや」


 そう言って信忠は笑った。

 それが長益の、信忠についての最後の記憶である。



 結論から言うと、長益は逃げた。

 二条御新造から脱し、安土へと逃れた。

 信忠は最後まで戦い、見事切腹して果てたと言う。

 そのことから、


〽織田の源五は人ではないよ

 お腹召せ召せ

 召させておいて

 われは安土へ逃げるは源五

 むつき二日に大水出て

 おた織田の原なる名を流す


と、京の人々からはやされるようになった。

 要は、信忠が切腹したのは近臣であり近親である源五(長益)の進言によるもので、一方でその長益は逃げたではないか、と皮肉っているのだ。

 当の長益は、二条御新造からどこからどうやって逃げたのかは記憶になく(無我夢中だったので)、信忠とどう別れたのかも定かではなく、「切腹を勧めておいて逃げた」と言われたら、そうかもしれないと思った。

 だが逃げた先の伊勢の織田信雄の反応はちがった。


京雀きょうすずめどもの、叔父上に対する非礼、ゆるせん」


 信雄は心底怒りに震えてそう言うのだが、長益は、そういう怒りを誘うのも策略だろうと答えた。


「策略とは」


 身を乗り出す信雄に、長益は説明した。つまり、は信雄なり長益なりを挑発し怒らせ、から手を出させたいのだ、と。


「こちら側」


 信雄は少し考えて、得心いったようにうなずいた。

 あれから。

 本能寺の変から十日、羽柴秀吉は伝説の中国大返しにより、任地である中国──備中高松城びっちゅうたかまつじょうから取って返し、あっという間に京畿に至った。


惟任これとうを討つ」


 世にいう、山崎の戦いにより、秀吉は光秀を破った。

 それからの秀吉の活躍は凄まじく、清洲会議、美濃大返し、賤ヶ岳の戦いと、誰にも止められない勢いで驀進ばくしんしていった。

 それを危ぶんだ信雄は、東海の徳川家康と手を組み、秀吉の天下盗りに待ったをかけた。

 しかし今では、家康と秀吉の戦いは拮抗し、しばしば合戦があったものの、だんだんと睨み合いのていを示していた。


「秀吉としては、持てる兵力で一気呵成に攻め寄せたい。されど家康は秀吉より兵が少ないゆえ、そうはしたくない。そこで」


 家康の同盟相手である信雄に目をつけたのであろう。

 そして信雄の相談役となっている長益を挑発している、という流れである。


「いずれにしろ、腹にえかねることではないか」


 信雄はあいかわらずいらいらしつづけている。

 そうして体を揺すらせる信雄の着ている直垂の家紋の、揚羽蝶も揺れた。


 ……そんな折りだった。

 羽柴秀吉が、長益に「織田信雄どのと和睦したい」と使いを寄越して来たのは。

 

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