月を飛ぶ蝶のように ~有楽~

四谷軒

01 尾張の思い出

 月が出ていた。

 まだ日が暮れたばかり。

 西には夕日。

 東には満月。

 そんな、光景だった。

 そこへ。


 ふうわり。

 ふわり。


 蝶々ちょうちょうが、飛んでいた。

 舞っていた。

 それは、東の空に浮かぶ満月の方へと、ひいらり、ひらり。

 思わず、見惚みとれる。

 夕暮れ、あるいは月の出のくう揺蕩たゆたうその様は、見る者の目を奪う。

 その様はまるで、月を飛ぶ蝶。

 月がどういうところかは知らないが、きっとこんな感じだろう。

 そう思った、その時に。


「……それっ」


 何者かが両の手を広げ、閉じた。

 手と手で作られたその虫籠を。

 その者は「むん!」と差し出してきた。


つらまえたぞッ! 源五!」


 源五と呼ばれた少年――これまで月と蝶を見ていた少年は、呆れたように、蝶を捕まえた青年に言い返す。


「やめてくださいませ、兄上。せっかくの蝶の舞を」


「……む?」


 しくも揚羽蝶あげはちょうの紋所の小袖を着た兄は、その茶筅髷ちゃせんまげをした頭をひと振りし、「そうか」と言って、手を開いた。

 蝶はふたたび、月を背景に、舞い、浮かぶ。


「おみゃあが物欲しそうな顔をしとるだで、つらまえてやろうと……」


 兄といっても、十三歳もちがう。

 どちらかというと、まるで父親のようだった。

 源五――のちの織田源五郎長益おだげんごろうながます、号して如庵有楽じょあんうらくはそう述懐した。


「信長にいは性急にことを進まれる。も少し、ゆっくりとして下され」


「で、あるか……」


 源五の兄――織田信長は口をへの字にする。

 するとそのうしろで、くすくすと笑う声が聞こえた。

 その声の持ち主は、やはり揚羽蝶の紋所の小袖を着た、瀟洒しょうしゃな青年だ。


「これは一本取られましたな、兄上」


「信行」


 源五の、またひとりちがう兄、織田信行である。

 述懐する源五の記憶が定かではないので、いつかははっきりとしないが、この時、信行はまだ生きていた。

 そしてこううそぶくのだ。


「……せっかく蝶をつらまえたのなら、それがしにくださればよかったのに。百舌鳥もずのいいエサになる」


 信行は鷹狩りではなく百舌鳥狩りの名手である。

 そのため、百舌鳥に目がなかった。

 そして。


「抜かせ」


 信長がそう言うと、「それがし、チョウよりチョウが好きでござってな」とおどけるぐらいの機知があった。

 そうすると、源五はせっかくの「月を飛ぶ蝶」の光景を乱されたことを忘れ、信長、信行と共に、大いに笑うのであった。

 そしてそれは、源五の心に深く深く思い出として、原風景として焼き付けられたひとときであった。



 ……それからの源五の人生は、それこそ「月を飛ぶ蝶」のような軌跡を描いた。


 まずは兄のうち一人、織田信行を失う。

 これは、源五と信行の兄、織田信長との内訌ないこう相剋そうこくによるものであった。

 詳細は知らない。

 ただ、信長信行を斬った。

 それだけを――伝えられた。

 源五は即座に信長のいる清州へと向かった。


「なぜ、信行にいを」


 その答えはなく、信長はただ無表情に源五を見返すのみであった。

 源五は無性に腹が立ち、まだ少年であるということもあいまって、信長を殴った。

 当たると思っていなかった拳は、特にけなかった信長の顔面に命中する。

 殴った源五が驚いている間に、信長の拳が飛んだ。


「おみゃあ、元服せよ」


 信長はそれのみを言い置いて、さっさとその場から退出した。

 翌日になると、何事もなかったかのように信長に招かれ、元服した。

 揚羽蝶の紋所の直垂ひたたれに袖を通した源五は、信長に烏帽子をかぶらされた。


「これより、おみゃあは織田源五郎長益ぞ。励めよ」


 それが信行という存在を失った織田家において、その凶事を打ち消す慶事として扱われていることはわかっていた。

 ここで逆らっても良かったが、それはできなかった。

 あの、殴り殴られしたときの、信長の無表情を思い出すと、できなかった。



 ……信長は長益を粗略には扱わなかった。それは信長の傅役もりやく、平手政秀ののこした娘をめとらせたことからわかる。

 長じて、知多郡――かつて桶狭間という激戦のあった地――を領することを認められ、次いで信長の嫡子、織田信忠の補佐を命じられた。

 それは――もしかしたら信行が斬られていなければ、離反しなければ、任されていたかもしれない仕事だった。





【作者註】

 織田家の家紋は「織田木瓜おだもっこう」が有名ですが、「揚羽蝶あげはちょう」も家紋としているようです。そこで拙作は、敢えて「揚羽蝶」を家紋として押し出していた、という設定にしました。

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