選択
「ただいま……」
初めての口づけの名残を唇に残したまま、香はゆっくり玄関のドアを開けた。
脳裏にあるのは、少し恥ずかし気で意味深な菜々美の微笑み。
その裏にある作為の影を、香は見逃さなかった。
菜々美が香に口づけしたのは、好意でも愛でもない。
愛の断片だったとしてもそれはあまりにも薄い。
香が知っている愛と呼ぶものに比べれば、あまりにも。
「おかえり」
母の声と共に珍しくキッチンから小気味よい音がしていた。
「お母さん?」
廊下を抜けてキッチンに足を踏み入れると、まな板の上でリズム良く包丁を上下させている母親の背中があった。
「ゲームは?」
「今日の分はもう終わらせてあるから大丈夫よ」
母は能力の低下を抑える為に、ある制約を自分にかけている。
それがゲーム。
母はゲームが嫌いだ。
画面の中でまで誰かの人生を覗き見て辛い思いをしたくないと、子供の頃に聞いた事がある。
同じ理由で映画やドラマ、ニュースに至るまで、基本的に母は他人の情報を好まない。
出来る事なら、森の中で木々の声に耳を傾け、川に昔を尋ね、宇宙に想いを馳せていたい、と。
嫌いな事をあえて引き受ける事による契約。
それは数多存在する人生に起こる事象の中から、確実なものを選び見る為の縛り事。
「お母さんはどうやってゲーム、好きになったの?」
本当は嫌いなはずのゲームをしている時の母は、それでも時々、楽しそうに見える。
「好きではないわよ、今でもね」
足元にカバンを下ろし、振り向かずに応える母の背中に近づく。
「でも、どうせやらなきゃいけない事なら、少しでも楽しもうとする努力は必要でしょ?」
「どうしてそこまでして、嫌いなことをしなきゃならないの?」
そっと母の細い腰に両腕を回し、その背に頬を寄せる。
香よりまだ頭一つ分、背の高い母の背中の温もりを感じながら、瞳を閉じた。
耳に、穏やかな鼓動が響く。
「好きな事だけして生きていくには、この世界は歪すぎるの。それにね」
母の手が止まり、身体が少しだけ回転する。切り終えた野菜を鍋に入れる音がした。
「貴女のお父さんには、まだ私の力が必要だから」
再び母の身体は正面を向き、また何かを切り始める。
「お父さんの為?」
「いいえ」
「じゃあ、誰の為?」
「貴女の為」
「私……の?」
母の背から耳を離し、その綺麗な髪を見上げる。
サラサラとした黒髪が、リズムに合わせて、肩先で揺れている。
「貴女には彼の力が必要な時が必ず来るから」
「そんなの……」
分からないじゃない、という言葉を香は飲み込んだ。
母が父の未来を見てそう思ったのなら、その時は来る。
「でもね、貴女が気にする必要はないのよ。これは私が選んだ事だし、子供を支えるのは親の務めだもの」
「私がお母さんの子供じゃなかったら、お母さんは森で自由に暮らしてた?」
「そうね……」母の手が止まる。「自由ではないかもしれないけど」
「やっぱり、私のせいで我慢してるんだ」
小さな金属音がして、母が包丁を置いたのが分かった。
「香」
母の背にまた顔を強く埋める香の両手を母の手が優しく包み込んだ。
「自分の運命は自分で決められる。分岐点は貴女にも見えるはずよ」
分岐点。
さっきも遭遇したばかりの事象。
どうして、口づけするあの瞬間、自分を止められなかったのだろう。
どうして菜々美と親しくなってしまったのだろう。
別の道を選べる瞬間はあったのに。
「もし生まれてくる前からの約束だったとしても、その瞬間に拒む事は出来る。個人的な運命ならばちゃんと選べる余地を世界は残してくれている。勿論、絶対避けられない運命も存在しているけれど、貴女が抱えているものは、前者であって、後者ではないわ」
「……うん」
運命は変えられる。
分かっている。
分かっているのに……。
「お母さん……私……」
閉じたままの瞳に涙が滲んできた。
嫌いなのに、拒めない。
それはなんて理不尽で、支配的な衝動なのだろうといつも思う。
香を操り、勝手に道を決めてしまう。
なす術もなくただ流されて……。
この次に起こる事を香は予感している。
母以外の人の温もりを知る事になる。きっと。
そしてきっとまた抗えないまま。身を委ねてしまうだろう自分を。
「お母さん……私、嫌いなのに、キスした」
「そう」
「どうしてそうしたのか、わかない。いつもそう。嫌いなのに……。私、おかしいの?」
「自身の感情を怖がらないで」
「でも……」
涙が止まらない。
「嫌いで、好き。それならそれでいいじゃない。誰かの全てを愛する必要なんてないわ。関わると楽しい。関わりを断つのは悲しい。そう思うのなら、傍にいればいい。傍にいていいのよ」
「でも……」
母の背中に香の涙が染み込んでいく。
「自分で決めなさい。自らの意思で選択する事で覚悟が決まる。その後に起こる事にも向き合える。その為にしっかりと問いなさい。貴女がどうして今そう思うのかを」
「そうなる運命……だからじゃないの?」
「もし確定していた事象ならば、貴女がそこまで悩んだりはしない」
「どういう事?」
「貴女達の出会いは必然だった。でも、その先どうするかは、貴女達に選択の余地が残されている。だから分岐が見えるのよ。確定しているなら、分岐は見えない。ただ、それが始まるのが分かるだけ」
「これから起きる事、分かるよ、私にも。少しだけ」
「ええ」
「でも、どうしていいのかわからない。ねぇお母さん、私、拒めばいい?受け入れればいい?どうすれば……」
香の声が震える。
母を抱きしめていたはずの手が、いつの間にか母の服を握りしめていた。
「怖いのね」
そう言って、母の手が優しく香の手を撫でる。
「お母さん……」
流れる涙を母の背中に押し付けて、香は母に助けを乞うように縋りつく。
「どうして怖いのか、考えてみなさい」
「考える……?」
「そう、自分に問いなさい。好きか嫌いか、ではなく、どうなりたいのか、今どうしたいのか」
「わからないよ、そんなの」
「ええ、だから、考えるの」
ぽんぽんと二度、母の手が香の手を軽く打つ。
「顔を洗ってらっしゃい。夕飯作っちゃうから」
「……うん」
母から身体を離す。
涙を拭う香を振り返り、母が優しく微笑む。
「今日は何食べたい?」
「え?」
コンロの上に乗った鍋を見つめる。
切られた野菜がそこに入っているはずだ。
今更、選択の余地なんて……。
「今、ニンジンと玉ねぎとジャガイモを入れたとこなの。肉じゃが、カレー、シチュー、ポトフ。どれ?」
「えっと……」
突然の質問に頭が回らない。
「これ全部冷凍しちゃって、全然別の物も作れるわよ。どうする?」
僅かに首を傾げて問いかける母の柔らかな瞳。唐突にその問いの意味を香は悟った。
途中まで進んだ事象。それでもまだ確定していない限り、選択の余地はある。
全てを覆すことだって、まだ。
冷静さを取り戻した思考が、心に問いかける。
何が欲しいのかを。
否定する声を押しのけてまで欲するものの姿。
大嫌いなのに大好きな笑顔が、浮かんで、消えた。
「そうだな……」一瞬、俯いてから、香は顔を上げ微笑んだ。
「今日はカレーが食べたいな」
小さな諦めに似た思いと共に、迷いの残滓が一筋、頬を流れ落ちた。
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