もう一人の私達

菜々美を嫌う気持ちがなくなった訳ではない。

でも、好きだという想いを否定する意味もまた、ない。

「菜々……美……」

汗ばんでいく重なった肌の熱さに浮かされながら、香も想いのまま菜々美の肌に強く口づける。

ぬるんだ感触を舌でなぞると、確かな菜々美の熱さを感じた。

知っている。

菜々美はまだ香を愛している訳じゃない。

この行為は、愛の証明ではない。

きっと菜々美も分かっていないはず。なぜ自分たちが惹かれ合うのか。なぜ今肌を重ね、こんなにも、貪るように求めあうのか。

これは単純に稚拙な真似事。どこかで見て聞いた行為を繰り返し、絡み合う。

「香って結構可愛いね」

香を見下ろしながら僅かに歪む菜々美の唇を見た瞬間、香の脳裏に別の誰かが重なった。

良く知っているはずのその人は、鏡の向こうにいた。

いつも香を支えてくれた、皮肉っっぽく口を歪めて笑う人。

それは香が香でなかった時に記憶。

「菜々美……貴女……」

突然脳内に押し寄せる映像に、香の意識が眩む。

「もっと気持ち良くしてあげる」

「……っ!」

体内に他人の一部が侵入してくる違和感と僅かな痛みに、香の身体が震えた。

けれど、意識は遥か彼方の景色に引きずられ、香りはゆっくりと思い出す。

香が香ではなかった時の事。

菜々美との繋がりを。


+++


それは、一人の少女の物語。

日本で戦争が始まる少し前。

彼女は特権階級の家で生まれ、何不自由ない暮らしを送っていた。

優しい両親、頼りになる使用人たち。

日々は笑顔で溢れ、永遠の春がいつまでも続くと誰もが信じていた。

けれど、戦火が日本中に広がり、やがて終戦を迎える頃には全てが変容していた。

謳歌していた特権は財産と共に奪われ、両親は戦火に倒れ、使用人たちは散り散りになり、まだ大人になりきれていない少女だけが取り残された。

何もない中で生きていく。誰もが必死であがく時代の中で少女に優しく出来る者などいなかった。

昔、父と仲良くしていた男に騙され、少女は売り飛ばされた。

占領軍近くにある売春宿。

金を払ったと覆いかぶさってくる巨体。少女に抗う術はなかった。

食事は出来た。服も与えられた。お金ももらえた。寝る場所もあった。

それでも、少女の心はそんな日々に耐えられなかった。

そしてある日、少女は鏡の中に味方を見つけた。

「何しけた顔してんのさ。こんなにもいい天気なのに」

そう言って、一人の少女が鏡の向こうで笑った。少し口元を歪めながら。

「そうそう、私たちと出かけましょう。花の香りでも嗅げばきっと元気になれるよ」

もう一人の少女は無邪気に笑う。

代わる代わる、二人の少女が励まし、元気づけてくれる。

「大丈夫、今回は私に任せていいよ」

「この人は私に任せて」

やがて、辛い時間を過ごす時は彼女達が変わってくれるようになった。

それからずっと、少女は二人と一緒。

三人で出かけ、三人で笑い合い、不満を打ち明け、将来の夢を語った。

少女は一人じゃなくなった。

少女は辛くなくなった。

嫌な時間が始まる時、少女は眠る。

起きた時、身体が痛む事もあったけど、そんな時は鏡の中で彼女たちが笑う。

「ごめんね、乱暴な奴でさ」

「ううん、大丈夫だった?」

「平気平気。あんな奴、ちょちょいで金づるだよ」

「ナナは本当にお金が好きね」

「あったりまえだよ!金があれば自由にいきられるんだから!」

ナナと呼ばれるその少女はお金に貪欲で、かつて両親と暮らした家を買い戻してあげると約束してくれた。

「ナナは現実的すぎるのよ。もっと優雅に愛で満ちた暮らしをしなきゃ」

「愛なんかでお腹は膨れないよ?ユウはもっと現実を見た方がいい」

「もう、二人との喧嘩しないで」

ユウは夢見がちで、積極的なナナに対して少し人見知り。柔らかな雰囲気で、少女をいつも優しく包んでくれた。

「午後から来る奴はユウの客だね。頼んだよ」

「うん。私はナナみたいに身体を痛めて、貴女に痛い思いなんてさせないから安心して」

「ユウ、あんた、いつも自分ばっかりイイ子ぶって!」

「ナナが虐める!怖い!」

仲良くじゃれ合う二人を見つめて、少女は楽しそうに笑った。

そして、男が部屋の扉を開ける頃には、また眠りにつく。

少女は眠る。

幸せだった昔を思い出しながら。二人との次の会話を待ち望みながら。

揺らされる身体も放たれる欲望も彼女には関係ない。

向けられる感情の全てが、この世の全てが、彼女とは無関係。

蔑みも嫉妬も悪意も敵意も。

愛情も憐憫も同情も慰めも。

彼女は知らない。彼女には必要ない。

眠り続ける彼女の表面で流れていく全てを、二人の少女が処理していく。

時に妖艶に、小悪魔のように。

時に優しく、聖母のように。

時の流れの中で幾度か、少女が知らない間に命が芽生え、生まれることなく散っていった。

その痛みさえ知らぬまま、少女は鏡を見つめて笑う。

「まったく、ここの店はもうちょっと客層を改めて欲しいね」

「ナナが怒るのはいつもの事だし、それが売りだから」

「ちょっとユウ、私がいつそんなものを売りにしたって?」

「だって……ねぇ?」

同意を求めてくるユウの視線に少女はクスクスと笑う。

「ちょっと、笑ってないで、あんたもなんとか言ってやってよ、十和」

十和……。

その名前を呼ばれた瞬間、香の視点が目の前の少女とリンクした。

今まで客観的に見下ろしていただけの、鏡の前に座る少女。

彼女を映した鏡が目の前に広がった。

頬に触れる。

鏡の前にいるのは、ナナと呼ばれた少女。

「どうかしたの?」

首を傾げているナナに、香は、否、十和は首を振る。

「ううん、なんでもない」

そう応えながら、香の胸に溢れてくるのは、どうしようもない哀切だった。

気づいたから。

気づいてしまったから。

十和が、香だった事を。

そして、ナナもユウも十和が生み出した存在である事を。

生まれる前の記憶。

交わされた約束。

望んだ未来の形。

「あぁ……」

香は涙で溢れた瞳を閉じた。


+++


「どうしたの?そんなに嫌だった?」

心配そうな菜々美の声がする。

ゆっくりと目を開けると、上から覗き込んだ菜々美の顔がそこにあった。

「ナナ……ミ……」

そっと頬に触れる。

ナナとは違う顔。でも、彼女の存在を理解できる。

菜々美は、ナナだ。

苦しかった十和を支え続けてくれた、大切な、もう一人の自分。

「菜々美……」

ありがとう。

そっと菜々美の首に腕を回して抱きしめる。

「ごめんね」

「えっと、どうして謝られてるのか、よくわからないんだけど……」

「今度は私がしてあげる」

香に覆いかぶさる菜々美と身体の位置を入れ替える。

「え?私、されるのはあんまり好きじゃないかも……」

「うん、でも、今日だけ、ね?」

「まぁ、別に初めてだし、試すくらいなら……いいけど」

「うん」

細い菜々美の身体に唇を当て、僅かな隙間から少しだけ舌を出して、胸の谷間から脇腹へと移動していく。

吸い付くように口で覆った部分を舌で丹念に舐めると、菜々美のくぐもった声が聞こえた。

「ん!……何そこ、気持ち……いい……」

「うん」

知っている。

菜々美の事は。ナナの事は。

何処が気持ちいいのか、どこを触られるのが好きで、どこが嫌いか。

「っぁ!ちょ……香……っ」

潤んだここの少し上、舐められるの、好きだよね。

「そこっダ……メ!」

跳ねる身体を感じながら、夢中で舌を動かす。

かつて触れられなかった大切な人。

自分を守ってくれた大切な……。

「ナナ……」

強く吸い付くと同時に、彼女の身体が大きくのけ反った。

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