約束
家に帰るといつも通り母がテレビの前でコントローラーを握りしめていた。
「ただいま」
「おかえり」
「お母さん、私分かった」
その言葉に、画面に大きくpauseの表示が現れ、母が振り返った。
無言で見つめてくる母の目を暫く見つめていると、何かを悟った母が小さく頷き「そう」と呟いて、コントローラーを机に置いた。
「思ったより早くて、ちょっとびっくりしてる」
母の言葉に、香は視線を下げた。
菜々美との行為を見透かされた気がしたから。
「先、シャワー浴びてきていい?」
「何が分かったのか、後でちゃんと教えてくれる?」
「うん」
母の視線から逃げるように、足早に浴室に向かう。
行為の残香に気づかれそうで、急いで身体を洗った。髪を洗う時、一瞬だけ菜々美の寝室の香りがした。
嫌な経験じゃない。
またしようねと菜々美に言われても、嫌じゃなかった。
むしろもっと、肌を重ねていたかった。
ナナが守ってくれた年月分。感謝してもしたりないくらいのありがとうが心を占領する。
もっともっと、ナナを抱きしめていたい。
伝えきれない想いが肌を通して伝わるように。
壊れそうな十和を守った優しい貴女。全てを身代わりに背負った貴女達。
頭上から降りかかる暖かなシャワーが、香の涙を流していく。
「香、大丈夫?」
扉の向こうから心配そうな母の声がして「大丈夫」そう応えて、香はシャワーを止めた。
部屋着に着替え、髪を乾かしている間に、何度か深呼吸する。
動揺はしていない。ただ理解した、という感覚。
それでも、落ち着いて母に説明できるか少し心配だった。
リビングに戻るとテレビは消され、母が白いソファに浅く腰かけた状態で待っていた。
いつものように片手を上に向けて差し出し、目だけで香を呼ぶ。
母の隣りに座り、香は自分が見た過去の、前世の景色について話した。
十和という少女がどう生きて、どう死んだか。
何を背負い、何を背負いきれなかったのか。
そして、彼女を支えた二人の少女が何を願ったのかを。
「十和さんは、刺殺されたのね?」
「うん。ユウのお客さんで本気でユウに執着した人がいて、ユウは別の人が好きだったみたいなんだけど、そもそも私はその人の事知らなくて」
「ユウさんじゃない時に会ってしまったのね」
「たまたま外出してた時に。ユウはずっと本当の愛が欲しいって言ってたから、その人は勘違いしてしまったみたいで。このまま二人で逃げようって」
「でも、十和さんはその人を知らない」
「そう。誰ですかってなって、相手の人もショックだったみたいで、その場はそのまま別れたんだけど、その後、お店に来た時ユウを……」
「そう……」
「死んだ後にね、ナナがもっといっぱいやりたい事あったのにって怒って、ユウももっと本当の愛を感じたかったって泣いて。それで二人とも、一人の人間として生きたいって願ったの。十和の身代わりで辛い思いだけしてきた二人だもん。幸せになりたいって願って当然だよね」
再び流れ始めた香の涙を優しい指先が拭う。
「私ね、二人に聞いたの。また来世でも出会ってくれる?って。そしたら、二人とも頷いてくれたんだよ。辛い思いを背負わせたのに。押し付けたのに。ナナが絶対来世でも私は十和が大好きだよって。ユウもまた会おうねって」
「それが貴女達の約束だったのね」
「菜々美は……ナナだよ」
顔を覆って泣く香をそっと抱きしめてくれる母の温もりが、身体ごと心を包んでくれる。
「私、ナナを幸せにしてあげたい。幸せにしてもらった分を返したい」
母の胸に顔を埋めて泣く香を、母は黙って抱きしめ続けてくれた。
「もっと、幸せになりたい」
辛い前世よりもずっとずっと幸せに。
「ユウの事も探したい。きっと、この時代に生きてるはずだから」
出来れば、三人で幸せになりたい。
今度こそ。
『私』を幸せに。
「なら、その為に出来る事を、しなくてはならない事を考えないといけないわね」
「しなくてはならない事?」
母の言葉に顔をあげると、優しい瞳が静かに香を見つめていた。
「菜々美さんは確かにナナさんかもしれない。でも、貴女がそのまま十和さんではないように、菜々美さんもナナさんそのものではないわ。十和さんを知った貴女が、知らなかった頃の香ではないのと同じね」
「よく……分からない」
「この世に不変なものはない。菜々美さんはナナさんを内包しているけれど、十和さんだけを大切に守ってくれていた彼女ではないって事、忘れないで」
「私が彼女を好きなのは、ダメな事?」
「貴女が好きなのはナナさんであって、菜々美さんじゃない。だからこそ好きと嫌いという感情が貴女の中でずっと揺れていた。ちゃんと今の、菜々美さんを見てあげなさい。その上で、何が出来るのか、どう愛していくのかを考えて。貴女の愛情に彼女が応えない可能性もある。運命の相手だからって全てが上手くいくわけではないのよ」
「うん……。でも、菜々美に隠れてしまっても、ナナはいるから」
「菜々美さんよりナナさんを、信じるのね」
「ダメ?」
「駄目ではないわ。どんな道を選ぼうと、貴女が自分で決めた事なら私は反対しない」
そっと額に口づけして、母が微笑む。
「私はいつでも貴女の味方だから」
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