因果


この頃から、香は十和だった頃の事を自分の延長線上に思い出せるようになっていた。

本来ならば前世を思い出した時点で、もっと早くに人格の統合が行われ、記憶の併合がなされるものらしい。が、香のそれが遅れたのは「まだ貴女が本当に過去ぜんせを受け入れられる準備が出来ていないから」との事だった。

十和の記憶。幼少の頃を思い出す様に思い出せる様になったそれらは、確かに遠く、愛おしくも苦々しい思い出に違いない。

幼い頃に過ごした屋敷の美しい庭。

優しい召使たちに両親。

そして

少し黒ずんだ狭い部屋の天井。

紅い布団と曇った三面鏡。

その向こうに見つけた二人の笑顔。

思い出す度に懐かしさと痛みが込み上げて、泣きたくなる。

もう終わった事だと何度も言い聞かせ、香である今の自分を見つめる。

それでも、鏡に映るのは十和だった香。

十和の人生は香の人生の一部であり、十和の罪は香の罪なのだ。

逃れえない、それは魂に刻まれた刻印。

「それでさ、トイレから帰って来てからなんて言ったと思う?」

学校の中庭の隅にあるベンチから菜々美の声がする。

「え?何?もっと~って激しく求められたんじゃないの?」

「ううん、しなくてもよくなった、だって」

「なにそれ!お子様じゃん」

「でしょ~」

菜々美の、人を嘲る笑い声。

その声に香は覚えがあった。

『でさ、一生懸命腰振って、愛してる~だって。そんなで女が感じるかっ下手くそっ!て感じ』

『それでも感じてるフリしてあげた?じゃないと相手は傷ついちゃうよ?』

『さすが聖母の名高いユウ様。あんたならそうしてあげるんだろうけどさ』

『それでお客さんを蹴り飛ばして、私たち今日は食事を抜かれたって事だね……』

『ごめん!十和!本当にごめん!でも、ゴミみたいなあいつらが悪いんだから!この間の奴なんかね~』

それはまだ、ナナが客を手玉に取る事を覚える前の出来事。

この件がきっかけで、ナナは客を上手く利用し、甘えるふりをして物品を強請るようになっていった。

ナナはずっと変わってない。

仕事が終わって十和が目を醒ますと、その日の客の悪口を面白可笑しく聞かせてくれる。

笑いものにして、馬鹿にして。

高い服を身にまとい、他人を見下しながら利用する。

十和の為に。

ユウとナナは、常に十和を守る為に行動してくれていた。

それを強要したのは、無意識にそうさせたのは、押し付けたのは、十和。

十和の罪は香の罪。

あの頃は気づかなかった。

ナナの行動がどれだけ罪深いものだったか。

十和はユウの客に刺殺された。

けれど、たまたま一番早かったのが彼だっただけで、いずれナナの客にもっと残酷に殺されていたかもしれない。

それだけの事をしていたのだと今なら分かる。

愛を語る偽りの罪深さ。

十和たちはまだ商売としてそれを行っていた。

客も半分嘘だと分かった上で、偽りのひと時を楽しんでいる。

でもそれを普通の、純粋に自分に気持ちを寄せてくれる相手に行ったなら。

どれだけの恨みを背負う事になるかなんて、火を見るよりも明らか。

「それ、誰の話し?」

「あ、え?香!?珍しいね、昼休みに。どうしたの?」

悪口で盛り上がる会話に無理やり割り込んで、菜々美の隣りの女子を一瞥する。

「わ、私、午後は移動教室だから先に教室戻る。またね」

菜々美に軽く手を振って、去っていく。

確か、小学生の頃からいる菜々美の取り巻きの一人。

菜々美が孤立した時には、一番にいなくなったはず。

「よくまたあの子と仲良くする気になったわね」

「話しかけてくれるから、無下にするのも悪いじゃん」

先ほどとは打って変わって、菜々美の勢いが下がる。

香の前での弱いフリ。

親の教育のおかげで身に着けた無意識の演技力。

残念ながら、香は知っている。

彼女が菜々美に劇場や映画のチケットを無料で渡している事を。

そして今、菜々美の恋人の一人である事。

何もかもバレてないと思ってる貴女の方が、お子様なのよ、と香は常々思う。

人を馬鹿にする人間は、同時に聞き手に馬鹿にされている。

馬鹿にされない為には、同レベルの相手を見つけるしかない。

自分と同じ高さの人間を。

それでも。

因果は必ず巡ってくる。

人生を越えて、魂に刻まれて。

「いい加減やめときなさいね。菜々美」

「やめるって何を?」

中庭にある噴水近くのベンチから、こちらを気にしている女子が一人。

「あの子とは何カ月?」

「え?」

菜々美の視線が俯く少女を捉える。

「ああ、もう別れた。なんか初めてだったらしくて私にはまっちゃってさ、しつこかったから別れた」

僅かに目をあげた少女と目が合う。

香を見つめる瞳には、責めるような色が含まれていた。

「本当に初めて?って思う程、腰振るんだよ!マジウケる」

「そういう話しは、他人にしないのがルールなんじゃない?」

「え?どうして?面白い話しはするでしょ?」

「最初から大切にする気がないなら、どうして手を出すの?」

「え?大切にしたよ?面倒くさくなっただけ」

「私がベットでの菜々美の事、他人にベラベラ話してたら、そんな人間とまた肌を重ねたいと思う?」

菜々美の表情が一瞬強張る。

香が教えてくれるテストの範囲情報は、勉強を放棄して恋人との時間を楽しむ菜々美にとってかなり重要だ。

それに加えて、孤立して以来、菜々美は他人が離れていく事に敏感になっていた。

「さっきの話しだったら、香の事じゃなくて別の子の話しだからね!それとも香は私がそんな事する奴だって思ってるの?うわぁ、最悪、そういうの一番傷つく」

相手の言動を封じる為の責任転換と攻撃。

今の香なら、なんなく躱せるその口撃でも、まだナナに負い目と愛情を感じていたこの頃の香には、それを完全に制する事は出来なくて。

「傷つける気は……ないんだけど」

「はぁ?じゃあ、どういうつもりなの!?他に理由ある!?」

勢いに口を閉ざしてしまう。

もしこの時点で香がもっと強く菜々美を制止出来ていたなら、ナナと同じ事を繰り返す菜々美を説き伏せていたならば、もしかして、未来は少しだけ変わっていたかもしれない。

ナナの時とは違う、と。そう伝えられていたなら。

「しばらく会いたくない。テストの範囲はさっきの子に伝えて。私が赤点取ったら香のせいだからね!」

そんな言葉を残して去っていく菜々美の後ろ姿を、呆れ顔で見送りながらも少し寂しいと感じてしまう自分に唇を噛む。

その瞬間。

「ああ……そうか」

突然、香に理解が降りた。

ナナとユウは香が作り出した人格だ。

十和は過度のストレスで人格分離を起こしていた多重人格者。

「ナナは……私なんだ……」

十和の中でナナとユウは、十和ではなかった。

もう一人の自分とは、あくまで自分ではない個体。

だから、香も分かったつもりで、理解できていなかった。

ナナもユウも、十和であるという簡単な事実を。

現在こそ別の身体を持ち、別の人間として生まれ変わったけれど、ナナは十和であり、そして香だと言う事を。

「ああ……私は……」

思わず両手で顔を覆って俯いた。

胸がもやもやして、吐きそうになる。

ずっと疑問に思っていた。

私は誰を愛しているの?と。

菜々美への想いを感じる度に。菜々美への嫌悪を感じる度に。

ずっと釈然としなかった想い。

菜々美がナナの記憶を失っているせいだとずっと思っていた。

でも違う。

香はずっと、自分を愛していただけだ。

かつて報われなかった自分欠片。

かつての自分自身。

「私はずっと、私を……」

恋愛ではない。

その愛は

自己愛。

嫌い、でも好き。好きだけど嫌い。

それらは単に自己葛藤に過ぎなかった。

「私達はだから出会ったんだね」

かつてナナが背負った罪。

それは十和の罪。

香に刻まれた罪。

また過ちを繰り返そうとしている菜々美を止める為に、香はこの時代に産まれた。

かつて自分を止める為に。

でも……。

香の助言は菜々美に届かないまま、遠く近く距離を変えながら時は流れて。

そして。

彼女の両親を乗せたまま。


あの日、セスナは墜ちた。

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Destiny_is it love or curse [RedCyclamenPerfume外伝]  雨音亨 @maywxo

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