愛の形
「ナナさんも人に生まれたからには、叶えたい夢の一つや二つあるでしょう?」
夕飯を食べながら、母はそんな事を言った。
「貴女と違って、ナナさんはまだ人間一年生かもしれないわよ?それに、前世で上手く行っていた方法を無意識に行って、自分自身を守ろうとしているのかもしれないでしょう?」
「守る?」
「そう。もう一人にならないように。貴女に依存しなくていいように」
「依存って、そんな」
最近、食欲がなくなっている香の為に、母は好物ばかりを作ってくれる。
今日はエビ、シイタケ、サツマイモ、イカの天ぷらと色とりどりの岩塩が数種類、食卓を彩っていた。
「一緒にいるなら、別に依存してたって良くない?」
「それが嫌なんじゃない?」
「私と一緒にいたくないって事?」
「一人で色々な経験をしたいと思っているのかもしれないわね。貴女の力を借りずに。それがナナさんの意思なのか菜々美さんの願望なのかはわからないけど」
そんな事言われても……という言葉を香は飲み込んだ。
母がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
ナナが香と共にいる事を望んでいない可能性がある、なんて、考えもしなかった。
自分の過去を知った時、ナナとの繋がりを知った時、まさか自分が拒絶されるなんて。
「一人で何かを成し遂げたいという思いと、貴女に対する想いは別よ」
香の胸の中に広がりかけた悲しみを押しとどめるように母が言った。
「貴女が嫌で他の人と関係を持っているわけじゃないと思うわ」
「でもなんか……すごく蔑ろにされてる気がする」
「どう受け止めるか、どう感じるか。それは貴女が決める事よ」
「私が悪い?」
香の問いかけに、母は首を横に振る。
「どちらかが悪いんじゃない。貴女達は想いが釣り合ってないだけ」
「運命の相手なのに?」
「そうね……」
そこまで言って、母は一旦言葉を切った。
細い指先が顎に触れ、思案気に一度深く瞳を閉じる。
「愛、と一言でいっても、その形状は様々なのは、分かるわよね?」
再び開いた瞳が、香をまっすぐに捉える。
柔らかく、優しいはずの視線から、逃げるように香は「うん」と返事をしながら俯いた。
母は香を責めてはいない。
それなのに、自分の間違いを正せない、認められない、そんな罪悪感が香の中で渦巻いていた。
「悪意はだいたいどんな人でも似た感じになるけれど、不思議と優しさや愛情はその人それぞれの形を持っていて、どれが正解でも間違いでもない。相対した人がどう感じるか、周りの人にどんな影響を与えるか、それもまた、様々。相手がいる以上、受け取る側の問題も関係してくるわ」
「やっぱり、私が悪いの?」
母は静かに首を振る。
「どちらかが悪いのではないの。強いて言うなら、相性がわるいのね。貴女には貴女の理想の愛の形がある」
「理想?」
「そう。たとえば、誰かを一途に想う事こそ本当の愛だと思ってる。違う?」
持っていた箸を置いて、香は自分の思考を見つめてみる。
菜々美が嫌いだった。今も結局、好きで嫌いなのは変わらない。
ナナは好き。菜々美は嫌い。
どうしても二人を一人の人間として見る事が出来ない。
悪い事をしているのは菜々美。香に好意を寄せているのはナナ。
ナナもユウも十和を愛していた。他の誰にも目もくれず十和だけを愛してくれた。
ユウは他にも惹かれていた人がいたみたいだったけど、それでも十和は二人にとって特別だった。
それなのに、今のナナは香を大切にはしてくれない。
「貴女の価値観は前世の事もあるけれど、私達のせいでもあるわね」
「え?」
溜息に似た母の言葉に顔を上げる。
「だって貴女、お父さんの事、嫌いでしょ?」
突然出て来た父の話しに、香は僅かに動揺する。
ほとんど逢った事もなければ口を聞いた事もない。
香にとってはクラスメイトよりも希薄な存在。
なんなら父の秘書の黒沢さんの方がまだ面識がある。
自分でも気づいていた父への嫌悪の理由が、香と関わらなかった事よりも、母だけを愛していない事に起因しているのだと、この時初めて理解した。
「彼の奥さんがどうして私の存在を容認しているか、分かる?」
まっすぐな母の視線と僅かな微笑み。
「彼に私が必要だと分かっているからよ」
母の顔は穏やかで、そこにマイナスな感情は感じ取れない。
「どうして好きな人に自分だけを見てほしいって思わないの?奥さんもお母さんも」
「それって、相手の事を想っての感情?」
「好きだからこそ、そう思うんじゃないの?」
「好きだらこそ、そう思わないのよ」
首を傾げる香に母は笑みを深くする。
「誰か一人を一途に愛する人はとても素敵だと思う。でも、貴女のお父さんはそういうタイプの人じゃない。多くの人に関心を寄せ、ビジネスとしてでも愛情を利用できる人」
「お母さんへの気持ちはビジネスって事?」
気色ばむ香に母は笑って「さあ?どうかしら」と答えた。
「ビジネスでもあり、プライベートでもある。彼の中でその線引きがどこにあるのかは、私にもよくわからないわ」
香は知っている。
父が母を呼び出す時、必ずしも占い師としての母の力が必要なわけではない事を。
占い以外の理由でここを訪れる事もあるのだということを。
「お母さんはそれでいいの?それって愛されてるって言える?」
「私が彼との縁を切らないのは、愛されているからじゃないわ」
「私の、為?」
「それもあるけど、ただ、傍で見ていたいってのもあるかもしれないわね」
「利用されてるだけかもしれないのに?」
食い下がる香に母は微笑みを崩さない。
「気づいてる?貴女、愛されることにばかり気を取られて、肝心な部分を忘れてるって事に」
「え?」
困惑する香を置き去りに、母が席を立つ。
「食事の時にする話しじゃなかったわね。後でお腹すいたら天丼にしてあげるわね」
すっかり箸の止まった香の前にあった食器が片付けられていく。
「お母さん……」
言いかけた香の頭を傍に来た母が優しく撫でる。
「恋愛なんてその時その時で形が違うものよ。今の貴女の恋を楽しみなさい」
そう言って額に唇を寄せた。
「とりあえず、何があっても私には貴女が一番大切って事だけ、忘れないで」
「お母さん」
「誰かの正解は誰かの不正解。正しさに惑わされないで」
母の言葉は難解すぎて香がその意味を理解したのは、もっとずっと後の事だった。
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