くちづけ
実際、どうしようもなく、菜々美と過ごす時間は楽しかった。
菜々美の自分勝手な言動も、救いようのない自己愛も、香にとってはどうでも良かった。
ただ、香の隣りで菜々美が笑う。それだけでいいとさえ思っている自分自身を、時に否定し、時に持て余しながら、香は菜々美との時間を重ねていった。
何度か、菜々美の家にも遊びに行った。
大きな洋風の邸宅を訪れると、いつも菜々美に負けないくらい綺麗な彼女の母親が迎えてくれた。
けれど、いつ来ても、菜々美の母親にもまた、菜々美同様に嫌な予感が纏わりついている。
「菜々美は何をやらせても上手で……。あ、そうだ!柳さん、何か楽器は?」
「いえ、残念ですが何も」
「そう……本当に残念ね」
「お母さん、でも香はすっごく頭いいのよ。学年上位」
「まぁ!凄い!」
品のいい顔を綻ばせて、菜々美の母親が嬉しそうに微笑む。
「菜々美、柳さんに勉強を教えて頂いたら?今より成績があがるかもしれないわよ」
「今のままでも別に……」
「柳さん、どうかしら?」
期待を込めて輝くその視線は、疑問形であるはずの言葉を否定し、肯定のみを要求していた。
小学生の頃から可愛く、尊大に他人に貢がせていた菜々美が重なる。
「私で良かったら……」
「まぁ!良かったわね、菜々美」
顔の前で両手を合わせて喜ぶ母親に菜々美は笑い返し、そのまま香へと苦笑した。
香がテスト範囲を良く当てるという事実は、自分たちだけが特別でありたいと願うクラス内のカースト上級者によって厳重に秘匿されている。
だから他のクラスの人間に香は、成績のいい優等生としか認識されていないだろう。
菜々美を構うようになってから、香の取り巻きは減っている。が、香を悪く言う人間はいなかった。
せっかく貰える情報をくだらないお喋りで無駄にしない程度には皆、知能が高いらしい。
そうして、菜々美との放課後の勉強会が始まった。
夕焼けに染まる教室で二人きり。一つの机を挟んで向かい合う。
遠くで部活に励む運動部の声が響いていた。
開いたままの窓から乾いた風が吹き、二人の間をすり抜けて行く。
「いい風ね」
そう言って香は窓の外を見る。
菜々美の事を認められず、否定を続ける意識はまだ自分の中にある。
それでも、衝動を止める手立てがない事を香は知っている。
菜々美と共に過ごす時間が、嫌でもそれを認識させた。
好意。どうしようもなく、好きだという感情。
どこがどうとか、そんな事はどうでも良くて、ただ引っ張られるように堕ちていく。
菜々美が好き。
こんな奴!と否定する声を押しのけて、香を支配していく感覚。
昔、別の誰かだった時の、想い。
香は覚えていない。菜々美が覚えているはずもない。
どうでもいい。なにもかもどうでもいい。
押し流され、満たしていく。懐かしい、それは、多分、愛だった何か。
香の、そして香ではない誰かの、でも香自身の、感情。
「香?」
進んではダメ。香の一部が抑止する。
無駄な抵抗だと分かっているのに。
菜々美とその母親にまとわりつく嫌な予感。
それはきっと、香すら傷つける。
そう分かっている。それなのに。
止まらない。
止まれない。
机に置かれた菜々美の手。
風になびく髪を押さえる為に僅かに浮かせた香の左手が行先を変える。
そっと。触れ合う指先。
重なる視線に絡めとられて、息が止まった。
好きなのに。
嫌いなのに。
嫌なのに。
もっと触れていたい。
菜々美と、もっと。
ゆっくりと菜々美の顔が近づくのを感じて目を閉じる。
好き?嫌い?
好き。でも嫌い。
感情の波。
波。
波。
微かに触れる唇に身体が震えた。
軽く、合わさり、離れ、そして今度は深く唇でつながった。
初めての感触。初めての感覚。
絡み合う舌の熱さに眩暈がして、息が苦しい。
触れ合ったままの互いの手を強く握り、指を交差させた。
それは香のファーストキスであり、待ち望んでいた、懐かしく愛しい人との口づけだった。
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