どこにもいない私達



ずっと見えていた。

初めて会った時から、菜々美に纏わりつく薄暗く黒い影。

年を追うごとに強くなっていく香の力は、菜々美に纏わりつく影の正体を早い段階で教えてくれていた。

出会った頃から菜々美に、そしてその両親に纏わりつくその影の正体。

それを一言で表すならば、人の感情、という物になるだろう。

嫉妬、妬み、そんな黒い想念が寄り集まって出来たもの。

菜々美が幼かった頃に纏わりついていたそれらは、成功者と世間で認知されている彼女の父親が原因になっているものが大半だった。

善行ばかりで地域を代表する企業に成り上がったわけではないのだろうと容易に想像はつく。

人の上に立てば、時に理不尽な決断に迫られる事もあるだろう。

無意識に誰かを傷つけてしまったり、間接的に恨みを買う事もある。

生きているだけで誰かにそしられる世に中で、多くの人間に存在を晒せば、普通に暮らしている人間よりもその度合いは跳ね上がる。

けれど

あの量の恨み。家族さえも巻き込むほどの。

菜々美の父親が原因で不幸になった人間がどれだけいるのだろう。

解雇した社員の一家心中や家族離散、圧力をかけられた下請け会社の困窮等、いちいち調べる気にもならないが、それなりの事件は起こっていてもおかしくない。

父親だけで十分な不運を引き寄せるだけの想念を抱えているところに、母親の方の人間関係が上乗せされて足し算が掛け算に跳ね上がる。

企業間や社内に戦場があるように、母親同士の関係性にもまた戦場はある。

マウント、見栄、プライド、保身。馬鹿にされないように、人徳者のふりをしながら、人望とはかけ離れた連帯感で異物を排除して形成されるコミュニティ。その手腕を振るう事で生まれる感情は、決して感謝ではない。

勿論、菜々美の家族だけでなく、香が通っていた高校の生徒の中に同じ影を纏う人間は大勢いた。

街中ですれ違う人たちの中にも。

彼ら、或いは彼女らに纏わりつく影は、本人たちに多少の悪影響を与える。

気分がすぐれない、なんとなく運が悪い、体調が芳しくない、人間関係の悪化等々。

その影響は人や影の重さによって様々に変化する。

ただでさえ恨みを買いやすい環境で、一定数の反感を買うような生き方をしている両親がいるにも関わらず、そこに菜々美の悪意なき悪行が重なればどうなるか。

相手が一人二人なら良かった。

でも、菜々美の場合は数が多すぎた。

初めて香と身体を重ねた事をかわきりに、菜々美は自身の要求を満たす為の手段として、身体の関係を利用するようになった。それはこれまでの友達ごっことは比べ物にならない程の執着を、想いを相手に抱かせ、そして裏切る結果になっていった。

後で振り返れば、それでもこの頃は金銭の要求をしていなかっただけマシだったといえなくもないが、思春期の純粋な想いをを踏みにじられた少女たちの傷は深い。

「菜々美、何度も言うけど、そろそろ控えなさいね。誰か死んでからじゃ遅いのよ」

エスカレーター式に進学して、高校生になった後も何度か注意してみた事がある。

「何?焼きもちとか気持ち悪いからやめて。それって私の事、信じてないって事よね?」

「罪ってね、本人の自覚あるなしに関わらず、ちゃんと魂に刻まれてくものなの。いつか、今瀬で間に合わなければ来世まで背負って償わされる羽目になる」

「スピリチュアルに被れてるとかマジ痛いから」

相変わらず聞く耳を持たない菜々美に、香は真剣な顔のまま告げる。

「どうして人を殺してはいけないか分かる?」

「は?」

「罪が罰を上回ってしまうから」

しばらくの沈黙の後「付き合ってらんない。もう家来なくていいから」そう言って、香の服を投げて寄越したその日を最後に、香は菜々美の家庭教師をやめた。

学校ですれ違っても、声をかける事もなくなって、それを少し寂しく思う自分をどこか遠くに感じながら、香は海外の大学への編入を目指して勉学に励んだ。

強くなっていく力が見せる未来と母の占いの結果が、近い将来の父の引退を示していた。

いろいろな面で私たちは日本にいないほうがいい。

それが父と母が出した結論だった。

菜々美の為に傍で出来る事は、ほとんどない事を悟っていた香に異論はない。

目指すべき場所も、やるべき事ももう分かっていたから。

香と会う頻度が下がった菜々美は、大学進学の為の勉強を自力で行う事を余儀なくされていった。

けれど、今まで散々サボったツケが早々に払えるはずもない。

三流大学では納得しない母親と、利用して馬鹿にしていたはずの彼女達より低い大学にしか入学出来ないかもしれない焦りで、結局、菜々美は香へ連絡してきた。

「私、やっと分かったんだ。私にはやっぱり香じゃないとダメだって」

久しぶりに呼ばれた菜々美の部屋で、香の手に自分の手を重ねた菜々美の熱い視線を、香は冷静に見守っていた。

その姿は死ぬ直前、男たちを手玉に取っていたナナとよく似ていた。

「そう」

「怒ってるよね。ごめん。でも、私、香の事ずっと」

そう言って重なる唇。

吐息と絡まる舌の熱さは嘘じゃない。

でも、菜々美の何もかもが嘘。

欲しいのは、大学の試験範囲の情報。

一流、最低でも二流大学に入る為のパスポート。

何度も肌を重ねてきたベットに身を沈めながら、一体何人がここで菜々美に同じ事を言われたのだろう、なんて事を思っていた。

意識と身体を揺らされて、汗ばむ肌を菜々美に押し付けながら、両腕で抱きしめる。

喘ぎが漏れる口元を乾燥させながら、心の隅で冷静なままの香が笑う。

まるで、十和だった頃みたい、と。

幾人もの汗を吸い込んできたベット。繰り返される戯言。

芝居じみた台詞。

嘘だと知りながら、快楽に溺れる刹那の高揚と空虚。

今の菜々美が自らの欲望を満たす為に十和を買った男なら、その相手をしている今の香は、果たしてナナなのか、ユウなのか。

十和はあの時、そこいなかった。

隠れて、逃げて、目を閉じて、そこにいなかった。

だから、香は今、ここにいる。

あの時、すべてを二人に押し付け逃げ出して。

あの時の男たちと同じように、己の利益の為に、満足の為に香を組み敷く菜々美は、香に罰を与える為に、そういう役割を果たしているだけに過ぎないのかもしれない。

これは、不幸な人生を強要した十和に対しての、ナナの復讐……だろうか。

「ごめ……ん、ね」

「いいよ。またこうして逢ってくれるなら」

激しくなる菜々美の動きは、まるで勝利を確信した英雄のように、自信と満足に満ち溢れ、香を犯していく。

「う……ん」

なんの為の謝罪かもわからないまま、香を再び支配した喜びに歪む菜々美の顔が見えた。

これが罰ならば、抗う権利は香にはない。

ナナが求めるのなら、十和は、香は、それに応じよう。

「ナ……ナ……っ」

「まだやめないよ。今日は後10回イッた顔見せてもらうから」

不敵に笑うその顔を見つめながら、香は思う。

どうして菜々美は、助けてと素直に言わないのだろう。

「いっぱい、気持ち良くさせてあげる」

唇は本当の願いを口にしない。

こんな事しなくても、ただ一言、助けてと言ってくれれば、香は菜々美に協力できるのに。

菜々美が多くの人の想いを操れる自分を認識して、他人を利用して生きて行くと言ってくれたなら。こんな風に、身体を武器に生きていくと胸を張ってくれたなら。昔のナナのように、誇り高く笑って香にそう告げてくれたなら。

香は……。

「頭も身体も、私でいっぱいにしてあげる」

聞きたいのはそんな言葉じゃないのに、身体は久しぶりの快感に弄ばれ、小さな痙攣を繰り返し、香の唇もまた伝えたい言葉を形に出来ずに、甘い嬌声を漏らすだけ。

「大好きだよ。香」

耳元で囁く声が、ナナの言葉と重なる。

『私が十和を守ってあげる。大好きだよ。十和』

優しく強く、頼もしい微笑み。

かつて十和の全てを包んでくれていた柔らからな言葉が今、菜々美の嘘で塗りつぶされていく。

菜々美はナナなのに。もうナナはいない。十和を愛してくれていたナナは、どこにも。

「どうしたの?泣いちゃうくらい気持ちいい?」

挑むように、焦らす様に、たった数年で巧みになった菜々美の指が、香を翻弄する。

快感に飲まれて、消失しそうになる思考を香は必死にかき集める。

流されてはいけない。ナナがそこにいなくても、菜々美がナナの生まれ変わりである事に変わりはない。

かつて自身が生み出したものへの責任は、変わらず香にある。

「ねぇ、こっちも気持ちいいって知ってた?」

溢れるくらいにぬるんだ場所から引き抜かれた指が、別の入り口を指す。

「ちょ……菜々……」

戸惑う隙さえ与えずに、ぬるぬるとした指先は簡単に中へと侵入した。

「……っっ!」

「大丈夫、痛いのは最初だけだから」

目の前の景色が痛みに明滅する。

「すぐ気持ち良くしてあげる」

さっきまで指が弄んでいた場所の潤みを、菜々美の舌が浅く、深く、舐めとっていく。

「動かすよ」

ゆっくりと前後に動き始めた指に、鳥肌が立つ。

抵抗しようとする香を、気持ちのいい場所を知り尽くした菜々美の舌が制止する。

十和だった頃の記憶にさえ、存在しない感覚。

そう、菜々美がナナでないように、香もまた純粋な十和ではない。

十和だけだった頃の自分には戻れない。

香は十和の延長線上に存在している。が、香は十和であり十和ではない。

「力が抜けたね。そうやって後何回かイッたら、もっと気持ち良くなれるから。いっぱいイコウね、香」

菜々美の舌が、指が、香を壊していく。

身体は菜々美に抵抗する力を当に失っている。

純粋なナナも十和も、もうここにはいない。

ここには、他人を自身の魅力と身体で支配することに長けた菜々美と、彼女の存在に縛られた香という人間がいるだけ。

ただ快感に震え、仰け反り、シーツを握りしめるだけの。

「こっちも気に入ったみたいだね」

菜々美の舌が離れ、空いていた方の指先が潤みの中へと沈み込む。

「休んでる暇はないよ。ここからが本番なんだから」

その言葉を認識したのを最後に、香の思考と視界は白い闇へと飲み込まれ、消えた。

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Destiny_is it love or curse [RedCyclamenPerfume外伝]  雨音亨 @maywxo

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