月、燃ゆ

 柔らかい光の群れが、夜の川を流れていた。

 水面みなもに灯りを揺らしながら、流れのままに、風のままに、ゆらゆらと。

 この光が魂だと言うのなら、果たして彼はどこにいるのだろうか。

 この光が心だと言うのなら、果たして私の心はどこにあるというのだろうか。


 水面みなもで月が揺れている。

 ゆらり、ゆらり。

 それは或いは、海に沈む私の心の欠片なのかもしれない。


 重く、大きな音が聞こえると、鋼色はがねいろした昏い水面みなもに、一際鮮やかな光が踊った。


 ああ、そうだ。

 彼は色鮮やかに燃え盛り、ただ印象だけを残して消えたのだ。

 まるで、夏の夜の花火のように。


 その花びらは、まだ、私の中でくすぶっている。


 ――彼が突然いなくなってから、もう一年が経っていた。

 最初のうちは、たいそう寂しく思ったものだけど、やはり私という生き物は薄情で、一ヶ月が過ぎる頃には、彼は頭の片隅にしか存在しなくなっていた。


 現在の私は、何年振りかも分からない、夏祭りの中にいる。

 海浜公園の周辺は、昼間から屋台が立ち並び、町の各所で行事が行われていた。娯楽が少ない町だからこそ、どこに人が隠れていたのかと思うほど、多くの人で賑わっている。

 それはまだ幸せだったころの家族の記憶と重なり、その光景に飛び込めば、私も幸せになれるのではないかという淡い期待があった。

 けれど、私はやはりその光景をどこか傍観していて、記憶をなぞることに終始していた。

 水面に映った柔らかい光が、ゆらり、ゆらりと川を下り、花火の音が空虚に私を揺らす。その音を厭わしいと思いながら、深く息を吸えば、火薬と樟脳のニオイばかりが目立った。


 そう言えばリンゴ飴を試していなかったと、はたと思い出した。小さい私は綿菓子をおねだりしたものだったが、母は、まだ壊れていなかった母は、どういう理由かリンゴ飴を買い与えた。腹が膨れれば、それ以上おねだりすることもないと考えたのかも知れないが、今となっては確認しようもない。

 そんな風にリンゴ飴のことを考えながら、日常と非日常を隔てる海浜公園前の県道に差し掛かると、そこは変わらず多くの屋台が立ち並び、昼間以上に多くの人で賑わっていた。


 その光景に、私の瞳は不思議と湿り気を帯び始める。うっすらと滲む視界は、けれど、あの麦わら帽子を端に捉えた。

 焦げ茶色の麦わら帽子。

 私の心臓は飛び跳ね、目も体も、当たり前のことのように、それを追い始めた。

 慣れぬ浴衣の上前を、腿の上の辺りでしっかと掴み、小走りのように足を動かす。


「ごめんなさい、ごめんなさい、通してください、ごめんなさい」


 人が次々と私の前に立ち塞がり、ぶつかりそうになりながらも前へと進む。

 自分よりも大きな人が度々視界を塞いだが、麦わら帽子は変わらず見え、しかし、一向に近づかない。

 気持ちばかりが焦る。

 足の感触が判然としない。

 そのとき、大きく前につんのめった。

 ふと目にした私の足元はスニーカーで、下駄にしなくて良かったなどと、緊張感もなく思う。

 次の瞬間には、浴衣がはだけるのも構わず、右足を大きく前に出してなんとか耐えていた。

 汚れたかもしれない裾をぽんぽんと叩いて、何事もなかったかのように振舞えば、再び私の目は前を向く。


 いない。

 麦わら帽子が消えた。

 私の視界が再び霞み始める。

 それでも私は奥へと進む。


 いた。

 麦わら帽子は屋台の切れ間から右に入り、私の視界から再び消えた。


「通してください、ごめんなさい、ごめんなさい」


 もう、何回、口にしただろう。

 花火の音もリンゴ飴の匂いも、どうでも良かった。

 ただ、親を見つけた幼子のように、麦わら帽子を追いかけていた。


 何度もぶつかりそうになりながら人混みを抜け、屋台の切れ間を右に曲がる。きっとこの先で彼が待っているのだろうと期待して。


 だけど、彼はいなかった。

 視界に映るまばらな人影のどこを見ても、彼の面影はない。

 私はいったい何を勘違いしていたのだろう。

 何を見ていたのだろう。


 彼はもういないのだ。私の前から消えたのだ。あのとき罵詈雑言で、もうすっかりと、跡形もなく終わってしまったのだ。始まってすらいないというのに。

 宛てもなくトボトボと歩けば、私の目の前には切り立った崖と奇岩があった。

 ここにくれば彼がいるとでも思ったのだろうか。

 今更ながらに、私の下心が嫌になる。


 もう嫌いだ。

 もう疲れた。

 もう帰ろう。


 家に帰って眠れば、明日にはきっと彼のことなどケロリと忘れているのだ。私はそういう薄情な女なのだ。


 振り返り、時間が止まった。


 目の前にいたのは焦げ茶色の麦わら帽子に半袖の白いシャツ、カーキ色の半ズボン、年季の入った雪駄を履いた男。

 去年と全く同じ姿で山崎やまさききょうが立っていた。

 私の瞳と唇が揺れる。

 熱が全身を駆け巡る。


「ただいま」


 変わらぬ笑顔で彼が言う。


「お帰りなさい」


 笑顔を作ることも忘れた私が言う。

 彼の瞳に私が映る。


「月が、綺麗ですね」


 私の瞳に彼が映る。


「ええ、本当に」


 大きな破裂音とともに、無数の光が夜空に舞い、二人を照らした。


 だから、私は月を見る。

 世界はこんなにも色鮮やかで、美しく燃えているのだと。



【月、燃ゆ 完】

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月、燃ゆ 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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