土曜日の朝は薄曇りの空で、足もどことなく重い。それでも私の足は、自然と海浜公園に向かっていた。

 私はいったいどうしてしまったのだろうかという気持ちと、私がどうなろうと構わないという気持ちを抱えたまま、切り立った崖と黒い奇岩に近づいてゆく。あの崖の向こうに、今なお、私たち家族がさまよい続ける海があることなど、都合よく忘れて。


 きょうさんは相変わらずイーゼルと向き合っていて、私はすっかり見慣れた景色に足を踏み入れた。


「お、お、おはようございます」

「やあ、おはよう! 元気がなさそうだね。大丈夫かい?」

「ええ、まあ」


 頭ではいつも通りにしようと思っていても、口は思い通りには動かず、ぎこちない挨拶になってしまった。それに加えて、今日の蒸し暑さといったら、実に不快で、いつもは気持ちよく聞こえる音も、なぜか不愉快に感じてしまう。


「今日は最初から描いているんですか?」


 イーゼルに置かれたキャンバスにはまだ崖が描かれておらず、ほぼ真っ白だった。以前の彼の説明によれば、絵を描く前には下地を塗ることが多いそうで、だから今日は最初から描いているのだと分かったのだ。


「今まで何枚か描いた絵は、今は部屋で干しているところだね」


 油絵というものは、下地を塗った後や作成途中など、乾かす工程がなければ、思い通りに色を乗せていくことができなくなるものらしい。

 そこは人間と同じなんだよ。

 初めてその話をしてくれたときに、そのようなことも言っていたが、それはどういう意味だったのだろうか。愛想笑いを浮かべて、そうなんですかと返事をしてみたものの、その答えは私にも見つけられるものなのだろうか。

 彼は続かない会話など気にせず、今までのように二種類のナイフと筆を使い分け、シャッシャッシャッ、タンタンタンと時に迷うような仕草をしながら、キャンバスに景色を乗せてゆく。その音は今日の私には不快だったが、手が動き、作品が作られていく様子は、やはり飽きるものではなかった。


「あー、めぐみさん。ちょっとトイレに行ってくるから、見てもらっててもいいかな?」


 それは今までもあったお願いだった。私は短く、もちろん、と返事をして、彼の背中を目で追った。後ろ姿を目で追ってしまった。

 その途端、私の中をノイズが駆け巡った。

 嫌い、憎い、悲しい、悔しい、裏切られた、イライラする、分からない、妬み、嫉み、胸が痛い、むしゃくしゃする……。その感情を表わす言葉を私は持たなかった。

 ただ、目の前のイーゼルを思い切り叩き倒し、地団駄を踏むようにキャンバスを踏み付けた。心が痛むのも構わず、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も。

 体が、胸が、目の奥が熱い。

 ふと顔を見上げれば、手が届く場所にきょうさんがいた。怒りとも悲しみとも取れない顔で、拳を固く握りしめたきょうさんが。


「こ、これは違うの、違うのよ」


 私の顔からみるみる体温が失われていることが分かる。彼から見た私の顔はさぞかし白んで見えることだろう。


「違うの、本当に。だから、ごめんなさい」


 違う。いったい何が違うというのだろう。


「本当よ? こんなことをするつもりじゃなかったの。分かるでしょ?」


 目が熱い。顔が熱い。早くこの熱を出してくれと、心が悲鳴を上げる。

 焦り、絶望、哀しみ、罪悪感がぐちゃぐちゃになった私の頬を、涙が伝い、幼子のように声をあげて泣き出した。

 このときの私をきょうさんはいったいどんな思いで見ていたのだろうか。少なくともその表情は困っているようにしか見えなかった。


「何があったのか、僕に話してくれないか?」


 困った顔のまま彼は私に優しくするのだ。けれど、その言葉のいったいどこに激昂する要素があったというのか。

 私の心は再び暗く煮えたぎった。


「あんたが悪いのよ!」


 違う。


「どうして私のことが分からないのよ!」


 違う。唇が細かく震え、目は熱を持つ。


「こんなところで絵を描いて、他の観光客の迷惑になるって思わないわけ!?」


 違う。こんなことを言うのが私であるはずがない。


「あんた、才能がないのよ! だいたいあの女、誰よ!?」


 違う。私であるはずのない言葉が私から出てきている。この私はいったい誰なのだろう。

 私はこんな私が大嫌いだ。


 私はまた声をあげて泣き始めた。私ではない私があまりにも私の心をぐちゃぐちゃにするから、情けなくて、悔しくて、心を置くところを見失ってしまったのだ。


 気付けば私は自宅の天井を見上げていた。あれから私はいったいどうしたのだろうか。

 狼狽えながらもどうにか笑顔を作ろうとしている彼の顔と、足跡だらけのキャンバスだけが微睡まどろむ私のまぶたの裏に残っていた。

 どこかで風が鳴いている。

 それは昼間の私に似ていた。


 日曜日の朝、頭が重たい私は、結局いつもの時間に起きた。

 すぐに昨日の出来事とともに、謝ろう、と頭に浮かぶ。

 しかし、何をどう謝るというのだろう。昨日の私は私ではなく、私ではない私が勝手にやったことなのだ。


 実に、馬鹿馬鹿しい。

 そのようなことがあってたまるものか。

 昨日の私ではない私は、つまるところ、やはり私なのであって、究極的には私なのである。どう悪あがきをしたところで、昨日の私が今日の私であることには、何の疑いの余地もない。

 つまり、謝ろう。

 大切なものを目の前で壊され、あまつさえ才能がないなどと愚弄した昨日の私を、今日の彼は許してくれないかもしれない。それでも、謝ろう。


 この度は、昨日の私が大変なご無礼をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。つきましては今日の私が責任をもって昨日の私を教育いたしますので、この度のことはどうか、どうか、寛大なお心でご容赦下さいますよう、何卒お願いいたします。


 私は今日の私に呆れてものが言えなくなった。

 これではまるで、昨日の私が私ではないかのような言い草ではないか。

 昨日の私も今日の私も確かに今の私であって、そうだからこそ、そのような謝罪が受け入れられるはずがない。

 やはり私など存在するべきではなかったのだ。あのときに沈んでしまえばよかったのだ。

 そうすれば。

 そうすれば、父だって。


 ブクブクと泡の音が聞こえ、見上げる月は揺らめいていた。


 私は一人で問答を繰り返し、海浜公園に歩き始める頃には、もうすっかり日が傾いていた。


 果たしてきょうさんは今日もあの場所にいるのだろうか。私があんなことを言ったばかりに、もうなにもかもが嫌になってはいないだろうか。

 自分の足が地面を踏みしめているかどうかも曖昧なまま、私は路地を抜け、県道を横切り、芝生の上を歩いた。彼はいるだろうか、彼がいない方が良いのではないか。そんな卑怯な葛藤を抱えたまま。


 けれど、彼はそこにはいなかった。

 私の胸には、夕焼けのように、寂しさと安堵が混ざり合い、大きく息を吸う。

 元気がいい海風が私の髪を撫でつける。


 帰ろう。そう思って振り返ると、すぐ近くにきょうさんがいた。イーゼルを背負い、キャンバスを抱えた姿で、私のことをじっと見ている。


きょうさん! あ、あの」


 心臓の鼓動が速くなり、油断をすれば気を失ってしまいそうだ。

 だが、私は謝らなければならなかった。


「昨日は、本当にごめんなさい! だから、あの、その」


 あれだけ悩んだというのに、結局、私はシンプルな言葉しか言えなかった。

 しどろもどろになっている私に、彼はただ「うん」と優しく笑った。

 しかし、それで全てが許されるのだとしたら、私は私を許せない。すかさずポケットからお金が入った白い封筒を取り出して渡す。


「あのこれ、壊してしまったキャンバスのお金です。ごめんなさい!」


 彼はまた「うん」と笑顔のままそれを受け取ると、何か思い出したように「あ」と声を漏らし、空を指さした。


「月が綺麗ですね」


 なんの前触れもなく発せられたその言葉に、私は無性におかしくなって、つい声を出して笑ってしまった。

 すると彼は、きょとんとして何もわかっていないようにこちらを見るものだから、私はますます面白くなってしまうのだ。

 そうなると、その笑いは彼に伝染し、私と彼はお互い顔を見合わせて吹き出すのだった。

 彼が夜のイギリス公園で叫んでいたのは、このセリフではなかったか。そう思うと、俄かに私も叫びたい気分になってしまう。


「月が! 綺麗ですね!」


 そうしてまた二人で顔を見交わして笑うのだ。

 ああ、なんて楽しいのだろう。



 ――その次の土曜日、海浜公園に彼の姿はなかった。その翌日も、その次の土曜日も、翌月も、翌々月も。

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