月曜日。

 昨日、一昨日の出来事が嘘のように、いつも通りの一週間が始まった。

 私に割り当てられている仕事はシステマチックで、面白くもつまらなくもないものだ。無心に、ただひたすらに、目の前の書類を処理してゆく。

 今の仕事は人と接する必要がほとんどない、実に私向きのものであり、職場で困ることと言えば、休憩時間などに同僚と世間話をすることくらいなものである。


 私は、もの心がついた頃から、すでに人と話すことが苦手だった。

 それは大人になっても克服できるものではなく、鏡の前で練習した愛想笑いを浮かべて、毎日を乗り切ってきた。

 大人になって気が付いたことは、私は会話が苦手なのではなく、人よりも多くのエネルギーを消費するという事実である。自分から積極的に発言することはほぼない。愛想のよい顔を作りながら、相手の言うことに合わせて、うん、うんと頷き、人が笑えば一緒に笑い、人が愚痴を零していれば、それもうん、うんと頷く。

 だから、今、私の目の前にいる同僚の下らない世間話も、そういう風にやり過ごせると思っていたのだ。


「それでね、彼ったらひどいのよ。私が隣にいるのに他の女のことを見て。だから、私、バッグであいつの顔を思い切りぶん殴って、店から出てやったわ。そしたら彼が追いかけてきてね、私のことをきつく抱きしめながら謝るから、さすがに可哀想になって許してあげたの」


 けれど、いつもなら当たり障りのない反応を取り繕えるような、そんな会話に私の心は泡立ち、衝動的に出てきた言葉をぐっと飲み込んだ。

 私の心はいったいどうなってしまったのだろうか。分からない、分からない。


 そんな気分のまま一週間を終え、家の近くにあるイギリス公園などという大仰な名前の公園で、いつものベンチに腰掛けながら、いつものように月を見る。

 それは変わらず静かに輝いていて、うまく愛想笑いを浮かべられていただろうかという、私のささくれ立った心の隙間に沁み込んでくるようだった。

 そう言えば、彼は、山崎きょうというあの絵描きは、果たして何を叫んでいたのだろうか。聞き出す機会はいくらでもあったというのに、その疑問は波にさらわれてしまったままだ。


 そうでないのなら。

 そうでないのなら、私の心はまだ海の下で凍えているのかも知れない。

 あの暗く冷たい海の底で。

 あれからもう何年経ったのだろう。


 ――私は小さい頃から口数も少なく、おままごとやお人形遊びにも、あるいは男の子がするような遊びにも、ましてや同年代の子供にも、さして興味を持たなかった。

 子供の時分はここから少し西に行った小さな漁師町で、両親とともに暮らしていて、唯一、父が連れていってくれる小さな漁船の上だけが、私の砂場だったと言える。

 私の父は近海で漁をする漁師だった。

 六メートルにも満たない小さな船でトットットットットと、小気味よいリズムで埠頭の外に出て、そこから十分ほどの場所で釣り糸を垂れ、網を投げ、慎ましく魚を獲る。

 空と、海と、魚と、優しい笑顔の父と、いつもとは違う角度から見る漁村とが、すべてキラキラとしていて、綺麗だった。

 けれど、それはある日突然、終わりを迎えた。

 何が原因だったのかは分からないが、私は突如として黄昏こうこんに染まる冬の海に投げ出され、流れのままに陸から離れていった。幸いにしてライフジャケットを着せられていたが、私を助けようと泳ぐ父はそうではなかった。

 そこからの記憶はほとんどない。

 ただ、船に仰向けに寝そべり、闇に浮かぶ冷たい月をじっと眺めていたことだけは覚えていた。


 そして父は見つからなかった。

 しばらくすると、母は事あるごとにお前のせいだと、私を言葉で、拳で、足で力なく殴るようになり、やがて私の心が閉じる頃には、本当に壊れてしまった。


 私たち家族は、あの暗い海に沈んだままで、終わりを迎えるその日まで、ずっとそのままなのだろう。

 だから、私は月を見る。

 自分が生きていると信じたいために。


 なぜ、こんなことを思い出したのだろうか。

 そう思ったとき、ふわりと磯の匂いが漂い、話し声がした。

 きょうさんだ。私は直感し、期待を胸に声のした方を見る。

 いた。

 だけど、隣の人は誰なのか。ドクン、と心臓が鳴った気がする。私の知らぬ人間と親し気に話す彼の後ろ姿に、私の心はざわめき始める。

 しばらくして大きな花柄のワンピースが見えれば、私の心のざわめきは、よりいっそう大きくなった。周りに聞こえてしまうのではないかと思うほどのその雑音に、私はただ一言、「嫌いだ」と呟いて、夜の公園を後にした。

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