――月が綺麗ですね。


 自宅にほど近い公園で、そんなセリフを思い出した。

 ベンチに座って見上げる空は裏色うらいろで、銀色の月ばかりがやけに目立つ。

 本当は、そんなことを言ってはいないそうなのだけど、言った証拠も、言わなかった証拠もなく、真相は今日の夜空のような不完全な闇の中にあるのだろう。

 それはまるで私の存在のようでもある。


 地元の高校を出た後、地元の短大を卒業し、やはり地元の大きな工場に勧められるがままに入社して、もう三年の歳月が経った。

 仕事上だけの付き合いとはいえ、上司とも、同僚とも、愛想笑いを浮かべて、どうにかうまく関係を築いている。しかし、誰それは性格が悪いくせに彼氏や夫が格好良いだの、あのアイドルは不細工だの、存在が怪しい未来の結婚相手だのと言う話の輪には、どうにも興味が持てず、飛び込む気にはなれなかった。


 私という存在は、パッケージ化された社会の中で異質に揺らめき、暗がりに塗れて浮いているのだ。

 軽薄な愛想笑いのように。

 色の無いあの月のように。

 私は何になりたかったのだろう。

 子供の頃には何を夢見ていたのだろう。


 不意に誰かの叫び声が耳に飛び込んできた。

 自然、私の首と視線は、絶叫でも悲鳴でも怒りでもないその声の主へと動く。七月も半ばとなれば、夏休み前の開放感から気分が高揚した中高生などが、わけも分からず叫んだのだろうと、そう思っていた。

 しかし、視線の先にいたのは、ツバの広い帽子を被り、仁王立ちをしている男性だった。顔はよく見えない。よく見えないが、薄暗い公園にあって、その瞳だけはやけに輝いていた。

 やがて私の視線に気が付いたのか、その瞳がギョロリと動いてこちらを見る。

 数瞬の間。

 我に返った私は、飲みかけの炭酸に慌てて蓋をして、夜の公園から逃げ去った。


 翌日、土曜日の空は、何事もなかったように晴れていた。

 いつもの時間に目が覚めたが、今日は出勤日ではない。体がそうできてしまっているのだ。

 窓を開け、体をのばして深呼吸をすれば、磯の香りとともに涼しい空気が肺を満たす。入社一年目の夏に本社研修で行った東京と比べれば、ここの朝は実に爽やかだ。

 こんな日は、朝食後、すぐに散歩に出かけることが、私の数少ない楽しみだった。

 服を着替え、日焼け止めクリームをたっぷりと塗りこみ、お気に入りのスニーカーで武装すれば、あとは玄関を開けるだけである。


 今日はどこへ行こうか。

 海浜公園はどうだろうか。


 そう考える頃には、私の体は勝手に動き出していて、自宅から徒歩で二十分ほどの海浜公園に行くことが決まっていた。

 視線の先に広がる海を目掛けて北へ進めば、徐々に乾いたアスファルトの匂いは遠ざかり、しおと草木、そして湿った砂利の匂いが強くなる。


 タンタンタンと地面を小気味よく鳴らし、住宅街の狭い路地を抜けると、視界は一瞬にして松とその合間から見える海に覆い尽くされた。

 県道を横切る横断歩道を渡り、一歩、二歩と海浜公園に足を踏み入れる。

 青い空と群青の海の境目を眺めながら、手入れされた柔らかい芝生と、固く擦れる砂利の感触を足の裏で楽しむ。そうして、ぐんぐんと海に歩み寄れば、やがて、私の心は趣きの異なる二つの青のグラデーションに染められていた。

 小さな石ころたちの間を波が行き来し、私が海に溶けてゆく。


 もっとも、海浜公園の浜辺からの眺めには、違う色も混ざるのだが、それは決して景観を損ねるものではなく、むしろこの海浜公園の名物の一つにもなっていた。

 浜辺から海に向かって左、方角で言えば西には、陸からせり出した灰色の断崖絶壁が自己主張をしていて、その端には黒々とした岩が露出している。それらが、波の浸食によって様々な形に削り取られ、奇観きかんを呈しているのだ。土曜日の昼間であれば、そこには少なからず観光客の姿も見えるのだが、朝の八時前では同好の士がいるくらいなものだった。


 だが、今日はいつもの光景ではない。

 芝生と砂利の境目付近に、何やら見慣れない姿があった。

 焦げ茶色の麦わら帽子に半袖の白いシャツ、カーキ色の半ズボン。靴はと言えば、年季の入っていそうな色のくすんだ雪駄であった。その人は、絵でも描いているのだろう。イーゼルを前に熱心に手を動かしている。

 いつもなら、休みの日に絵を描いている人なんだな、という事実を受け止めるだけで終わるものなのだが、けれど、そのときの私はそれで終わることを良しとしなかった。プロアマ問わず周囲にいなかった絵描きという人種と、ほとんど見たことがなかった絵を描くという行為に、興味があったのかも知れない。

 ともかく私はその景色に自ら近寄った。

 背筋を伸ばし、自然体を装って斜め後ろから歩み寄る。


 そして私は、空と海の青さに目を奪われ、見事、絵に吸い込まれた。


 見慣れた風景の中で、しかし、空と海はそれぞれに光り輝き、左半分を埋め尽くす奇岩は全ての光を拒絶するかのように黒く、荒々しい。それは間違いなくこの海浜公園の景色で、けれど、見慣れた景色ではなかった。

 その景色は、見ているそばから次々と色が加えられ、より鮮やかに変化していく。


「きれい……」


 ペインティングナイフと筆を器用に持ち替えながら、シャッシャッシャッ、タンタンタンと小気味よい音を立てて、景色に深みが増してゆく。

 その美しい光景に、私は何年も使っていなかった言葉を思わず零していた。


 次の瞬間、絵を描いていた人物が手を止め、帽子が飛んでしまうような勢いで、こちらを振り返った。


「分かるよね!? この景色、とてもいいよね!?」

「え? え? え、ええ、ええ、まあ、はい、綺麗、だと、思います」


 絵を描いていた人物は男性だった。

 環境の急激な変化についていけず、私は狼狽してしまう。


「僕は昨日この町に着いたんだけどね、ホテルで聞いたこの景色に一目惚れして、ここでこうして、僕の綺麗を思い切りぶつけているんだ! ところで君、地元の人?」

「はい、一応」

「素晴らしい! この景色を毎日見られるなんて、なんて素晴らしいんだ! 僕は君が羨ましくてしょうがないよ!」

「はぁ……、ありがとうございます」

「ここの奇岩群はね、実にいいんだよ。君はモネを知っているかい?」

「モネって、あのモネですか?」

「そう、あのモネだ。僕はこう見えて、モネのような絵を描きたいんだ。モネのような絵なんて、最近の美術界じゃあ、まったくもって評価などされないのだけれど、それでも描きたいんだ。なぜなら、僕が大好きだから!」

「はぁ、そうですか」

「ほら! ここの景色、モネの絵をどこか彷彿とさせるだろう?」

「はぁ、いえ、その、私、そこまで詳しくないので」

「そうか! ならば僕が教えてあげようじゃないか!」


 それからも彼の独演会は終わることを知らず、キャンバスに色を乗せながらも、モネの真似をしてオンプレネール戸外制作に拘っていること、モネの絵画を自分がどれだけ愛しているか、しかし、ジヴェルニーの時代のものはあまり好きではないことなどを、滔々と語り続けるのだった。


 ふと、ざわざわとした音が耳を触れば、太陽は頂点を過ぎ、辺りには観光客の姿が目立つようになっている。麦わら帽子の彼も遅ればせながら気付いたらしく、私が聞いてもいないのに「明日もここで描いてるから!」などと、大きな声を残して去っていった。

 やや猫背の背中を見ながら、果たして彼の目には、私はどのように見えていたのだろうかと考える。彼の心の滾りからすれば、私の瞳には熾火すら感じられず、消炭のようなものではないか。


 けれど、彼の声とリズムと、或いは空間は、実に心地よいものだった。

 明日、彼と会っても良いのだろうか。


 そのとき、昨晩のことをふと思い出した。

 ああ、そうか。

 彼は確かに叫んでいた。

 あのとき、何を叫んでいたのか聞かなければなならない。


 ほら、理由ができた。


 翌日、日曜日の朝の空も快晴で、白い雲が泳いでいる。

 少しだけソワソワしている心を誤魔化しもせず、ほんの少しだけ昨日よりも早い時間に家を出た。

 折り畳み式の椅子を持って、アスファルトの上をタンタンタンと軽やかに歩く。

 昨日と同じ道。昨日と同じ景色。

 しかし、それは鮮やかに私の横を通り過ぎてゆく。

 いつもよりも柔らかい緑の芝生の上を歩けば、果たして彼は、昨日と同じ場所で同じようにイーゼルに向き合っていた。


「おはようございます」

「うん! おはよう!」


 挨拶を交わし、椅子を開いて斜め後ろの特等席に陣取った。

 他愛もない話をした後は、彼はただ黙々と昨日の続きを描いていく。

 ゆっくりと時間を刻む波の音が私を包む。

 色を乗せる小気味よい音が私に触れる。

 キャンバスの中に一つの世界が出来上がっていくそのさまを、私は飽きることもなく、ただただ美しいと思いながら眺めていた。

 彼の麦わら帽子と、私の襟首までの黒髪が海風に何度も揺れると、やがて二人の影は長くのび、景色は黄昏こうこんに染まる。


「お兄さん、いつまでここにいるんですか?」


 帰り支度をしている彼にそう尋ねると、少し首を傾げて「三週間くらいかな」と曖昧な返事をした。


「夏祭りくらいまでですね。もし、その日に町にいたら、ご一緒しますか? 私、案内しますよ」

「ありがとう、覚えておくよ。そう言えば、君、名前は?」


 そうだ。お互いに名前も知らないままで、何時間も一緒にいたのだ。どうして今まで聞かなかったのだろうか。


「私は山崎やまざきめぐみです」

「それは奇遇だね。僕も山崎やまさきなんだよ。こっちは濁らないけどね。下の名前はきょうだ」

「あら、奇遇ですね。来週もこちらに?」

「うん、多分ね」

「多分?」


 私がそう聞くと、彼はニッと白い歯を見せ、笑って誤魔化した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る