ニ
――月が綺麗ですね。
自宅にほど近い公園で、そんなセリフを思い出した。
ベンチに座って見上げる空は
本当は、そんなことを言ってはいないそうなのだけど、言った証拠も、言わなかった証拠もなく、真相は今日の夜空のような不完全な闇の中にあるのだろう。
それはまるで私の存在のようでもある。
地元の高校を出た後、地元の短大を卒業し、やはり地元の大きな工場に勧められるがままに入社して、もう三年の歳月が経った。
仕事上だけの付き合いとはいえ、上司とも、同僚とも、愛想笑いを浮かべて、どうにかうまく関係を築いている。しかし、誰それは性格が悪いくせに彼氏や夫が格好良いだの、あのアイドルは不細工だの、存在が怪しい未来の結婚相手だのと言う話の輪には、どうにも興味が持てず、飛び込む気にはなれなかった。
私という存在は、パッケージ化された社会の中で異質に揺らめき、暗がりに塗れて浮いているのだ。
軽薄な愛想笑いのように。
色の無いあの月のように。
私は何になりたかったのだろう。
子供の頃には何を夢見ていたのだろう。
不意に誰かの叫び声が耳に飛び込んできた。
自然、私の首と視線は、絶叫でも悲鳴でも怒りでもないその声の主へと動く。七月も半ばとなれば、夏休み前の開放感から気分が高揚した中高生などが、わけも分からず叫んだのだろうと、そう思っていた。
しかし、視線の先にいたのは、ツバの広い帽子を被り、仁王立ちをしている男性だった。顔はよく見えない。よく見えないが、薄暗い公園にあって、その瞳だけはやけに輝いていた。
やがて私の視線に気が付いたのか、その瞳がギョロリと動いてこちらを見る。
数瞬の間。
我に返った私は、飲みかけの炭酸に慌てて蓋をして、夜の公園から逃げ去った。
翌日、土曜日の空は、何事もなかったように晴れていた。
いつもの時間に目が覚めたが、今日は出勤日ではない。体がそうできてしまっているのだ。
窓を開け、体をのばして深呼吸をすれば、磯の香りとともに涼しい空気が肺を満たす。入社一年目の夏に本社研修で行った東京と比べれば、ここの朝は実に爽やかだ。
こんな日は、朝食後、すぐに散歩に出かけることが、私の数少ない楽しみだった。
服を着替え、日焼け止めクリームをたっぷりと塗りこみ、お気に入りのスニーカーで武装すれば、あとは玄関を開けるだけである。
今日はどこへ行こうか。
海浜公園はどうだろうか。
そう考える頃には、私の体は勝手に動き出していて、自宅から徒歩で二十分ほどの海浜公園に行くことが決まっていた。
視線の先に広がる海を目掛けて北へ進めば、徐々に乾いたアスファルトの匂いは遠ざかり、
タンタンタンと地面を小気味よく鳴らし、住宅街の狭い路地を抜けると、視界は一瞬にして松とその合間から見える海に覆い尽くされた。
県道を横切る横断歩道を渡り、一歩、二歩と海浜公園に足を踏み入れる。
青い空と群青の海の境目を眺めながら、手入れされた柔らかい芝生と、固く擦れる砂利の感触を足の裏で楽しむ。そうして、ぐんぐんと海に歩み寄れば、やがて、私の心は趣きの異なる二つの青のグラデーションに染められていた。
小さな石ころたちの間を波が行き来し、私が海に溶けてゆく。
もっとも、海浜公園の浜辺からの眺めには、違う色も混ざるのだが、それは決して景観を損ねるものではなく、むしろこの海浜公園の名物の一つにもなっていた。
浜辺から海に向かって左、方角で言えば西には、陸からせり出した灰色の断崖絶壁が自己主張をしていて、その端には黒々とした岩が露出している。それらが、波の浸食によって様々な形に削り取られ、
だが、今日はいつもの光景ではない。
芝生と砂利の境目付近に、何やら見慣れない姿があった。
焦げ茶色の麦わら帽子に半袖の白いシャツ、カーキ色の半ズボン。靴はと言えば、年季の入っていそうな色のくすんだ雪駄であった。その人は、絵でも描いているのだろう。イーゼルを前に熱心に手を動かしている。
いつもなら、休みの日に絵を描いている人なんだな、という事実を受け止めるだけで終わるものなのだが、けれど、そのときの私はそれで終わることを良しとしなかった。プロアマ問わず周囲にいなかった絵描きという人種と、ほとんど見たことがなかった絵を描くという行為に、興味があったのかも知れない。
ともかく私はその景色に自ら近寄った。
背筋を伸ばし、自然体を装って斜め後ろから歩み寄る。
そして私は、空と海の青さに目を奪われ、見事、絵に吸い込まれた。
見慣れた風景の中で、しかし、空と海はそれぞれに光り輝き、左半分を埋め尽くす奇岩は全ての光を拒絶するかのように黒く、荒々しい。それは間違いなくこの海浜公園の景色で、けれど、見慣れた景色ではなかった。
その景色は、見ているそばから次々と色が加えられ、より鮮やかに変化していく。
「きれい……」
ペインティングナイフと筆を器用に持ち替えながら、シャッシャッシャッ、タンタンタンと小気味よい音を立てて、景色に深みが増してゆく。
その美しい光景に、私は何年も使っていなかった言葉を思わず零していた。
次の瞬間、絵を描いていた人物が手を止め、帽子が飛んでしまうような勢いで、こちらを振り返った。
「分かるよね!? この景色、とてもいいよね!?」
「え? え? え、ええ、ええ、まあ、はい、綺麗、だと、思います」
絵を描いていた人物は男性だった。
環境の急激な変化についていけず、私は狼狽してしまう。
「僕は昨日この町に着いたんだけどね、ホテルで聞いたこの景色に一目惚れして、ここでこうして、僕の綺麗を思い切りぶつけているんだ! ところで君、地元の人?」
「はい、一応」
「素晴らしい! この景色を毎日見られるなんて、なんて素晴らしいんだ! 僕は君が羨ましくてしょうがないよ!」
「はぁ……、ありがとうございます」
「ここの奇岩群はね、実にいいんだよ。君はモネを知っているかい?」
「モネって、あのモネですか?」
「そう、あのモネだ。僕はこう見えて、モネのような絵を描きたいんだ。モネのような絵なんて、最近の美術界じゃあ、まったくもって評価などされないのだけれど、それでも描きたいんだ。なぜなら、僕が大好きだから!」
「はぁ、そうですか」
「ほら! ここの景色、モネの絵をどこか彷彿とさせるだろう?」
「はぁ、いえ、その、私、そこまで詳しくないので」
「そうか! ならば僕が教えてあげようじゃないか!」
それからも彼の独演会は終わることを知らず、キャンバスに色を乗せながらも、モネの真似をして
ふと、ざわざわとした音が耳を触れば、太陽は頂点を過ぎ、辺りには観光客の姿が目立つようになっている。麦わら帽子の彼も遅ればせながら気付いたらしく、私が聞いてもいないのに「明日もここで描いてるから!」などと、大きな声を残して去っていった。
やや猫背の背中を見ながら、果たして彼の目には、私はどのように見えていたのだろうかと考える。彼の心の滾りからすれば、私の瞳には熾火すら感じられず、消炭のようなものではないか。
けれど、彼の声とリズムと、或いは空間は、実に心地よいものだった。
明日、彼と会っても良いのだろうか。
そのとき、昨晩のことをふと思い出した。
ああ、そうか。
彼は確かに叫んでいた。
あのとき、何を叫んでいたのか聞かなければなならない。
ほら、理由ができた。
翌日、日曜日の朝の空も快晴で、白い雲が泳いでいる。
少しだけソワソワしている心を誤魔化しもせず、ほんの少しだけ昨日よりも早い時間に家を出た。
折り畳み式の椅子を持って、アスファルトの上をタンタンタンと軽やかに歩く。
昨日と同じ道。昨日と同じ景色。
しかし、それは鮮やかに私の横を通り過ぎてゆく。
いつもよりも柔らかい緑の芝生の上を歩けば、果たして彼は、昨日と同じ場所で同じようにイーゼルに向き合っていた。
「おはようございます」
「うん! おはよう!」
挨拶を交わし、椅子を開いて斜め後ろの特等席に陣取った。
他愛もない話をした後は、彼はただ黙々と昨日の続きを描いていく。
ゆっくりと時間を刻む波の音が私を包む。
色を乗せる小気味よい音が私に触れる。
キャンバスの中に一つの世界が出来上がっていくその
彼の麦わら帽子と、私の襟首までの黒髪が海風に何度も揺れると、やがて二人の影は長くのび、景色は
「お兄さん、いつまでここにいるんですか?」
帰り支度をしている彼にそう尋ねると、少し首を傾げて「三週間くらいかな」と曖昧な返事をした。
「夏祭りくらいまでですね。もし、その日に町にいたら、ご一緒しますか? 私、案内しますよ」
「ありがとう、覚えておくよ。そう言えば、君、名前は?」
そうだ。お互いに名前も知らないままで、何時間も一緒にいたのだ。どうして今まで聞かなかったのだろうか。
「私は
「それは奇遇だね。僕も
「あら、奇遇ですね。来週もこちらに?」
「うん、多分ね」
「多分?」
私がそう聞くと、彼はニッと白い歯を見せ、笑って誤魔化した。
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