第8話

 引っ越ししてから一か月半。入社式から一カ月が経とうとしていた。


 二人の生活は順調なものだった。家事は交代制で文句のしようがなく、自室があるので一人の時間も確保できる。おまけに夜の営みもそれなりに。


 大学時代から付き合っている二人は、かれこれ三年半となる。お互いの性格や好き嫌いは把握済みだ。


 結婚前提の交際というだけあり、関係は良好以外に言い表せなかった。


 今日の夕食も終えて、使用した食器を正樹まさきは洗う。


 まいの方はお風呂に入っている。鼻歌が微かに正樹の耳にも届いた。


 蛇口から出た水がシンクに置かれた皿に当たる。水飛沫が辺りに飛散するけど、流し台は水浸しなので問題ない。


 それよりも、蛇口の滝が真っ直ぐ流れるならば、正樹の手が接触していないことを表す。


 彼が持つのは舞のスプーンだ。


「名前、消えかかっているな」


 スプーンの柄には油性ペンで名前が書かれている。三本で百円のスプーンは、銀一色のためそれぞれを見分けることは困難である。

 その打開策として、自分の物に名前を記入する。小学生で学ぶ方法を採用したわけだ。基本的に小学、中学で教示されることは将来的に覚えておいて損はない。なんせ義務教育の範疇なのだから。弓調馬服だ。


「油性ペンってどこに直したっけ。まず先に洗ってしまうか」


 呑気な調子でスプーンを蛇口に近づけたところ、スプーンのつぼに水が絶妙な角度で反射し、正樹の服を濡らした。


「あっ……さすが舞のスプーン、元気だな。ふはは、スプーン曲げの実験台にしてやろうか」


 スプーンに向かって悪い笑みを浮かべていると、


「会社のストレスでおかしくなったの? おっぱい揉む?」


 お風呂場から急に声をかけられて、正樹は肩を跳ねさせる。スプーンに喋りかけていたのを聞かれてしまい、羞恥を誤魔化すように唇を尖らせながら舞を見た。


「ストレスなんて平常で微々たるものだ。それより『おっぱい揉む』ってなん――服着ろよ⁉」


 正樹が驚愕に目を剥いた。


 お風呂場に続く洗面所の前で、上半身裸の舞がバスタオルで髪を拭いていた。長い黒髪が乳房を隠しているのが幸いである。


 ちなみに、下半身はショーツだけだ。


 タオルで髪をバサバサ拭きながら、猫のごとく目を細めた舞が言う。

「お風呂上りはいつもこうでしょ、今頃だよ。そんなことを指摘するって、やましいことでもあるのかね」


「はぁ……さっきの会話聴いてたんだろ?」


「マジシャンになるって話?」


「ああそうだよ、バッチリだな」


 苦笑を漏らす正樹は、手に持つスプーンを横に振る。


「このスプーンに名前書いたじゃん、それが消えかかっていたんだ。油性ペンってどこに直したっけ?」


「あー……」


 髪から零れ落ちた水滴が行きつく先である顎に、舞は人差し指を付けて思いを巡らす。一カ月前の映像を探した。


 顎に押し当てられた指は額に移動し、まだまだ時間がかかるようだ。


「えーと…………」


「もしかして忘れた?」


「いやいやいや、もうちょっとなんだよ。ここ、頭のつむじまで来てるんだけど」


「行き過ぎてんじゃん」


 正樹の冷静なツッコミのおかげか、舞が音をあてて両手を合わせた。


「あれだ! 高級アイスだよ、アイス」


「うんん?」


「ほら一緒に食べたでしょ。そのスプーンで始めた食べ物のこと。一カ月前に食べた物をよく思い出せたな私」


「それは本当に凄いよ。じゃなくて⁉ 油性ペンの居場所!」


 舞は指パッチンをして謎に決めポーズを決めてから、言葉を紡ぐ。


「そっちか! はい、忘れました。でもさ、油性ペンならすぐ見つかるよ。無くしても百円ショップで買えばいいしね。百円ショップは凄いんだよ、大抵の物は何でも揃っちゃう」


「薄利多売の戦略だしな。まあ、安いってことは脆くもあるし、大切に扱おって気持ちが薄くなる。子供の時に言われただろ、『物は大切に使いなさい』って。子供は親に食器、玩具や文房具を買ってもらうから、値段の高低で物を図らない。それが大人になれば、大量生産、大量廃棄のオンパレードだ。どっちが良い悪いとは、さすがに僕程度の人間が推し量れるものじゃないけどね」


 正樹の意図が理解できず、舞は「何が言いたいの?」と疑問を口にする。


 それに正樹は手に持ったスプーンを目の高さまで上げる。


「なかなか長持ちだろ。これからも使うため、油性ペンが必要だねってことだよ」


「なるほど。さっきまでスプーン曲げの実験台にしてやろう、なんて言ってた人とは思えないやー」


「あれは冗談だから⁉」


 慌てた様子の正樹を見て、舞はニマニマとタオルで口元を押さえて笑う。


 気恥ずかしさを隠すように目線を外すと、正樹の目は自分のスプーンを映した。そのスプーンを空いている手で持ち、二つのスプーンを横に並べた。


「僕の方は名前消えてないし、明日でも大丈夫かな」


 すると、舞が素足を鳴らして正樹の両肩を掴む。


 急な接触でスプーンを落としそうになるのをこらえた正樹は、こちらを見上げる舞と瞳を合わせる。


「もし油性ペン見つからなかったら、明日一緒に買いに行こう。ほら明日って初任給が貰えるでしょ? 美味しい物食べに行くついでにさ」


「そうだな。何か食べたいって要望は?」


「お寿司!」


「寿司好きだね。そうしよう。あと――服着ようか」

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