第10話
病院について早々、
設けられたベンチに腰を下ろす正樹に、女性が話しかける。女性の傍らに幼い少女が立っているところから、母親と認識できた。
「あなたは、お嬢さんのご家族ですか?」
「いえ、恋人です」
首をもたげた正樹の言葉を受けて、母親は憐みの眼差しに変わった。
俯いたまま正樹は質問を投げかける。
「あなたはどうしてここに?」
「お嬢さんに、通り魔犯から助けてもらったんです」
「…………」
そこで正樹は医者から聞いたことを思い出した。医者は通り魔犯に腹部を刺されたと言っていた。おそらく、規制線が引かれていたあの場所で事件は起こったのだろう、と。
正樹は黒目を手術室の扉に向けて、大きなため息を漏らす。
少女は驚きのあまり肩を跳ねさせると、母親の後ろに隠れた。
正樹が猫背だった体を起こし、母親の方を見る。
「よろしければ、事件がどんな感じだったか、教えてもらえますか?」
「え、ええ、もちろん」
正樹はベンチの端に移動し、母親と少女を座らせた。
母親が膝の上に両手を乗せて、事件の記憶を口にする。
「駅の周りは店が立ち並ぶ場所です。それに時間帯は人の集まるタイミングでした。犯人はそこを狙ったと思います。一人の男性が襲われ悲鳴を上げたのが始まりです。
犯人の周りから一斉に人が離れ、数人が人混みに飲まれて転倒していました。私達もその一人です。海を割ったように逃げる人々を、犯人は左右どちらに向かうか窺っていました。運の悪いことに犯人は、私達の方に体を向けました。
生憎、刃物を握る犯人に怖気ついてしまい、私は腰を抜かしながらも娘だけはと思っていた時です。お嬢さんがドロップキックを放ち、犯人を吹き飛ばしました。おかげで私達は怪我一つせず無事でいられました。けれど、人混みへ逃げようとした犯人の進路を妨害した彼女は……刺されてしまいました。
お嬢さんが犯人を留めたおかげで、警察が来るまで犠牲者が出ることはなかった。勇敢な人です」
話を聞き終えた正樹の瞳から、涙がぽろぽろと溢れる。泣顔を親子に見せまいと、そっぽを向く。
舞らしい。
優しくて頭が冴える彼女なら、犠牲が少なくなる手段を瞬時に取ったのだろう。
「お姉ちゃん大丈夫だよね?」
静かな廊下に少女の高い声が響く。
正樹は涙を拭って親子に向き直り、微笑みを力強く作って言う。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんは、僕が認めた勇者だからね、復活するよ」
「ほんと?]
「ああ、もちろん」
安心を帯びた少女の顔から、正樹は母親に目配せた。
意図をくみ取った母親はベンチから腰を上げると、娘の手を引く。
「行きましょ」
「うん」
正樹に深いお辞儀をして、母親と少女は立ち去っていた。
親子の後ろ姿を見つつ、正樹は内心で考えてしまう。
医者の話だと命に関わる負傷らしい。舞が死んでしまう可能性があるわけだ。
勇者のように、本当に教会から復活してくれたらどれだけ良いか。
正樹はこの時間、両手を合わせてただ願うことしか叶わない。
いつまでも続くと思っていた日常は、あっけなく壊れてしまった。
もしかしたら、来年の春は一人で桜を見るかと考えて震えが止まらない。あと六十回、春を一緒に迎えようと笑った舞の顔が、頭の中で反芻して脳みそで反射し続ける。
あの銀のスプーンで、一緒の物を食べた一カ月がコマ送りさていく。
振り返った際に揺れるポニーテールも、お風呂上りの艶やかな肉体も。
大学で出会った日から、今日までの思い出を。
こんな終わり方で締めくくりたくない。
正樹は強く、強く、両手を合わせて願った。
緊急治療室の外。
色々な医療器械に繋がれた舞の姿が窓越しに映る。
険しい顔でそれを一瞥した正樹は、横に立つ医者に視線を戻した。
「ひとまず山は超えました。一命は取り止めましたので、このまま安静にしていれば、一カ月で肉体は全治すると思います」
「肉体は?」
医者の言葉に引っ掛かりを覚えて、正樹は隠すことなく目を細める。
「……ええ。刃物に抉られた腹部は問題ありません。しかし、転倒時でしょう、頭部を強く打ったようで……意識が戻るか、今のところ何とも言えません」
「意識が戻らないって……」
「
「そ、そんな……」
後ずさりから力なく壁にもたれ掛かった、正樹。
医者はマスクを直し、話を続ける。
「可能性です、確実なわけではありません。医者と言えども死神じゃないありません。断言は今のところ不可能です」
そう言った医者だが、眼鏡の奥にある眼光を下に向けて、
「心の準備はしていてください」
「…………」
正樹は応じなかった。
医者は軽く息を吐き、踵を返して去るのだった。
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