第9話
目立って変わった日ではなかった。
一つだけ挙げると入社初めての給料日が貰えるだけだ。新社会人には嬉しくも、自分の手で稼いだお金を受け取れる心が舞い踊る日でもあったりする。
時刻は十九時ちょっと前。
予定よりも遅くなり、早足でエレベーターに乗る。一階に着くまでの間、今から向かう意思のメッセージを
そのままスマホを眺めていたが、既読が付かない。
エレベーターの扉が開き一階のエントランスホールが見えたため、正樹はスマホをポケットに入れて歩き出す。
会社を後にして改札を潜ると、タイミング良く電車が到着したので難なく乗車。
最寄り駅まで五つの駅を通り過ごす。時間にして二十分程度だ。
電車に揺られながらスマホを確認して、正樹は訝しげに眉をひそめた。
まだ既読されていない。
普段の舞ならすぐ確認するんだが、と正樹は不思議に思った。もしかすれば、舞の方も仕事が長引いているかもしれない。他にもスマホの充電が切れている可能性もある。
理由を羅列してみれば色々な事柄が頭を過る。それなのに正樹の心臓は嫌に早く脈打ち、冷や汗が背中を濡らす。
たった五駅が長く感じ、何度も時計を確認する正樹。
どれだけ急いだところ電車は速く進まない。
気を揉んでいると車内の揺れにふらつく。他の人にぶつからないよう正樹は手すりに掴まった。
じんわり分泌された手汗のせいで滑る。
照明に当てられ銀色に輝く手すりが目に入り、昨日の夜を思い出した。舞のスプーンから名前が消えかかっていたことを。
――そうだ、結局見つからなかった油性ペンを、一緒に買いに行くんだ。それから回転寿司に行って、舞がパフェ頼んでいいかなって聞いてくるんだろうな。もしかして遅れたこと怒ってるかも。はは……舞はそれぐらいで怒らないよな……。
車窓から覗く夕焼けをぼんやりと眺める正樹。
四月の終わりのため、十七時でもまだ明るい空。
あと数日でゴールデンウイークが始まる季節だ。連休が開始するのでここ最近の仕事量が増えていた。今日もそうだった。
最寄り駅を知らせるアナウンスを耳にし、正樹は足早に電車を降りた。スマホを確認するわけもなく、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
舞の顔さえ見てしまえば、心の妙な違和感は剝がれ落ちるはずだと。
改札を通過した正樹は周りを見渡す。
ここ一カ月で見慣れてしまった光景が広がる。
「舞、舞はどこだ」
歩き以て辺りを探索する。
しかし、可愛い舞の笑顔はどこにもなかった。
正樹はぎこちない動作でスマホを取り出し、舞からメッセージが届いていないか確認しようとした、その時。
少し離れた場所で人だかりができているのが横目に入った。
黄色が目立つ規制線を囲む形で人が集まり、線内に民間人が侵入しないように警察が見張っている。
誰がどう見ても事件か事故が発生した跡地と理解できてしまう。
目を丸く見開いた正樹は事件現場からスマホに目線を戻して、震える指先でアプリを立ち上げようとした。
舞の安否の確認を妨害するタイミングで、電話が掛かってきた。
だが、画面に表示された相手が『舞』と書かれていたため、正樹は緊張をほぐれてしまう息を吐いた。
応答ボタンを押し、呼吸を整えていつもの調子で声を出そうとした。
『舞さんのお知り合いの方ですか?』
「は、ひぃ…………?」
上擦った声よりも、正樹は電話口の相手が気になってしょうがなかった。舞のスマホから電話が掛かってきているのは間違いないはずなのに、初めての声が聞こえてくる。
『緊急のため私から電話させていただきます。舞さんは――通り魔犯に腹部を刺され、緊急搬送されました。舞さんのご両親は県を跨ぐため時間がかかるそうで、あなたに電話するよう言われました。今から言う病院にすぐさま来てもらえますか? 命に関わる怪我です、しっかり聞いてますか?』
「は、はい。問題ありません」
――刺された、舞が。
眩暈を覚える情報に膝から崩れそうになる。
それでも医者を名乗った彼が言った病院に向かわなければならない。
ふらつく足取りを引きずって、正樹はタクシーに乗った。
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