第11話
2DKの家賃九万二千円。お風呂トイレ別。
正樹と舞が同居先に決めた場所であり、一カ月半に引っ越しした住処である。
事件から五日が経過したが、舞の容体が良くなることはなかった。引き続き目を覚まさないままだ。
舞がこのまま昏睡状態になってしまうなら、今の賃貸は無駄に広く、無駄にお金が掛かってしまう。
しかし、正樹の脳内に契約解除の四文字は一切浮かばなかった。
二人で一生懸命に楽しく決めた場所なのだ。彼女が眠っている間、一人で勝手に決断するはずもない。
加えて、この部屋を放棄してしまえば、舞はもう、目覚めないみたいじゃないか。
残業すれば家賃は問題なく払うことはできる。
家の窓から家族の喧騒が風に乗って響く。
世の中はゴールデンウイークに突入した。本当なら正樹も、舞とちょっとしたプチ旅行や映画館に出向いていたかもしれない。いや、どこかに出かけていた。
舞のことだからバッティングセンターか、ボウリング場か、はたまたバンジージャンプをしに行きたいと言い出すかも。
脳に過った光景に正樹は頬を緩めた。
が、外の景色から後ろに振り返れば、静かな部屋が広がっている。
舞がいた時はいつも騒がしかった。正樹が自室にいても何かと声をかけられた。
「夜ご飯はどうしよっか?」「ホラーゲームしてるなら言ってよ」「最近思ったけど、もう春だよね。コタツグッバイ~」「ヨーグルトに合うフルーツは、ブルーベリーだと思うわけさ」「お寿司のネタはやはりエビとだよ。ブイブイ。あっ、これはカニポーズだ」
正樹の瞳には、舞の立ち居振る舞いが残像として再現される。
『私もまさ君のこと、愛してる』
こそばゆい吐息も、声色も忘れるはずがなかった。
瞬きを一つして正樹は窓を閉める。彼は今から病院に向かう予定だ。
事件以降、毎日通うようになった病院の経路は、頭の中に叩き込まれている。戸締りを確認し、正樹は歩き始めた。
🥄🥄
緊急治療室から一般病棟に移された舞。
昏睡状態のため、そして通り魔犯の足止めをした功績もあり、彼女は一人部屋に寝かされていた。
医療費の方は加害者側が払うことになっている。
春のそよ風に舞の前髪が揺れた。カーテンも。
顔に掛かった髪を整える正樹の手が、舞の唇に触れる。童話のような接吻で呪いを解くことができれば、幸せなことはない。
現実は残酷を隠そうとしないけれど、だから人を治療する医者という職業があるのだ。
植物状態でも耳は聴こえると言われている。
正樹は届くかもわからない言葉を、舞の傍らで話し続けた。
なんでもない雑談。
普段通りの変哲もない内容だけど、それは家にいる時同様の言葉だ。
二時間ほど独り言を述べた正樹がパイプ椅子から立ち上がり、舞の耳元に顔を近づける。
世界が明日滅びようとも絶対に変わらない気持ちを口にする。
「舞、愛してる」
そっと正樹の顔が舞から離れていく。彼の言葉を追って舞は目覚めることはない。
分かっていた、けど。
油断してしまうと溢れる涙をこらえて、正樹は踵を返し扉に手をかける。
もう一度、舞が寝るベッドに振り返り、心の中で呟く。
――目覚めるまで、何度だってここに来て、愛してるって伝える。僕の心は永遠に変わらない。
🥄🥄
送る月日に関守なし。
川の流れが止まらないように、時間も歩みを止めない。
春は早々終わり、日差し強い夏が到来。
夏は名残を置き、秋が色づきを見せびらかす。
秋は大地に落ち、冬が落ち葉を雪に混ぜ合わせる。
来る日も来る日も、正樹は病院に通い続けた。
時が経つにつれて舞の頬は瘦せ細り、顔色は青白さを増していく。
別れの際に愛を囁き、スプーンを洗う度に消えてしまう『まい』の名前を油性ペンで書いた。
何度も、何度も、何度も、何度も。
春も、夏も、秋も、冬も。
止めてしまえば舞が遠くに行ってしまうと、正樹は思ってしまう。今の自分に出来ることがそれだけだから、よりどころのように感じてしまうのだ。
それは
仕事から戻ってもポツンとした部屋。
テーブルに座って一人で行う食事と。
心霊番組を見ても傍らに温もりはやってこず。
お風呂場から鼻歌の代わりに水面に雫が落ちる音が残響し。
並べたプリンと銀のスプーンは動かない。
一人湯船に浸かる正樹は、水蒸気になって天井にへばりつく水滴を見上げる。水滴同士が融合し、大きな雫となって落下した。雨垂れ石を穿つとあるよう風呂場のタイルを貫通するのだろうか。
一日の疲労で空っぽになった正樹の脳は、覚えたての諺を披露する小学生みたいな妄想に老けてしまう。
…………小学生。
ふと、正樹は横に顔を向けた。あるのはバスチェアだ。
『昔さ、小学生の時だったかな。深夜0時ちょうどに剃刀を口にくわえて、洗面器を覗くと将来の結婚相手が見えるって話、――まさ君知ってる?』
過去と現在が混ざり、舞の幻聴が聞こえる。
「婚約相手が見える……」
口がぽろっと言葉を漏れる。
正樹は舞と結婚の約束をしているが、まだ結婚していない。
もしも婚約相手が噂通り洗面器に映るのなら。
未来が知れる。
舞が映し出されたならば、昏睡状態から回復することになる。
彼女が眠り姫になってからもう少しで一年が経とうとしていた。
揺るぎない愛を持つ正樹も、身体的、精神的は疲弊を貯め込み続けている。
目の前で希望が揺らめくより、いっそのこと答えを知ってしまえば安心できる。
だが、曇った鏡の奥にいる自分と目が合い、正樹は恐怖で体を震わした。湯船の温度も感じさせない戦慄が脳をかき回す。
――もし、洗面器に舞の姿が浮かばなかったら……。
勇敢に立ち向かった勇者が、永遠に棺の中と知ってしまう。
己の愛が舞以外に向かないと確信できる正樹が噂の詳細を実行し、誰も映らなければ――失敗だろうと、成功だろうと、目を抉ってしまいたいほど受け入れられない
心の底から冷え切った思いだ。
やるわけがない。やれない。
噂がただ怪談の一つとして馬鹿にしようと、実害を生むならやるべきではない。
実害が出るまで入り込むのは、狂気だ。
正樹は頬を両手で叩き、意識をはっきりさせる。自分がまだ絶望や狂気に飲み込まれてないことを確認する。
お風呂から上がり、体をバスタオルで拭き、いつか舞に貸したパーカーを正樹は身に付けた。
勇者の役割は交代。
舞の閉ざされた世界を救うのは、正樹しか有り得ない。
現実はファンタジーじゃない、魔法もない、魔王がいない。
現実には科学があり、医学ある。
それでも舞を起こす起爆剤にならなかった。
ならば両者を含んだ概念、フィクションを使えば良い。
パーカーのフードを深くかぶった正樹が、怪しげな笑みを浮かべるのだった。
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