第12話

「こんなもんだろう」


 作業を終えた正樹まさきは、額に浮かぶ汗を拭う。


 そんな様子を見ていた看護師の女性が目を瞬く。


「テレビですか?」


「そうです。ちゃんと許可は取りましたよ」


「私はとやかく言いませんけど……」


 看護師は横のベッドを一瞥し、口角を落とした。


 季節は晩冬、啓蟄けいちつ


 ベッドに横たわったまいの瞳は、一年近く開かれることはなかった。


 昏睡状態ではテレビを観られない。


 正樹の配慮は無駄と、看護師は胸中でこぼす。


 テレビから距離を取って、正樹はリモコンの電源ボタンを押す。病室の景色を反射していた液晶画面が、色を持ち、音を奏でる。


「問題なさそうだ」


 電源が入ることを確認し、リュックに両手を入れて漁り出す、正樹。


「?」


 バインダーを胸元で抱える看護師は、不思議そうに正樹の様子を窺う。


 お目当ての物を手繰り寄せると、正樹はテレビに向かった。


 彼の手に握られた物を見て、看護師は口を開く。


「……ブルーレイ?」


 ディスクをパッケージから取り出し、テレビの下敷きになっているブルーレイレコーダーに装入した。


 テレビに映されたのは、ホラー映画だった。


「これ結構怖い映画ですよね。映画のチョイス間違ってません?」


 テレビを指さして質問する看護師に、正樹は口元を緩めて応じる。


「あえて選んでます。舞はホラー苦手なんで、これで悪夢を見て目覚めるはずって。昏睡状態でも耳は聴こえるらしいので無意識に語り掛ければ、怖いですし。病院って怪談話のテンプレでしょ?」


「はぁ……き、鬼畜ですね」


「やれることは全てやりますよ。舞に怒られた時は……ちゃんと謝れますしね」


 舞に視線を落としながら話す正樹の顔は優しく微笑む。


 柔和な横顔を見た看護師は足先を翻した。


「そうしてあげて下さい。ちなみにですけど、植物状態になった原因の中でも、頭部外傷は一番回復の見込みがありますよ。加えて、年齢が若いほど、一層に」


 看護師は振り返ることなく、退室した。



🥄🥄



 今の賃貸に引っ越ししてから一年が経過した。


 舞が帰らなくても、正樹が部屋の掃除をやっているため、ホコリが溜まるような事態には至っていない。男やもめに蛆が湧き女やもめに花が咲くと言われるが、別段全ての男女に言える事ではないのだ。


 性別のくぐりは生物的なもので、性格は人それぞれ違う。


 だからこそ、舞という人間は世界に一人しか存在せず、代わりなどいるわけもないと正樹は常々思う。


 だいたい、自分と同じ形、個性、魂を持った人間が目の前に立たれたら。つまり、ドッペルゲンガーの自分が現れて、「あなたは交代です」と替わるように命令されれば、交代してしまうのだろう、誰だって。


 自分の存在が一つでなく、複数あるからだ。


 百円ショップに陳列する商品は同じ物が並んでいる。大量生産が主流だから当然である。そこに個性があるか――いや無し。ただ一つのオーダーメイド品に、有名な画家が描いた絵画に、地中から見つかったダイヤモンドに、大切な人に貰ったプレゼントに、その物の価値や個性が生まれる。


 だから、ドッペルゲンガーと交代するって話は、嘘だ。


 正樹は今日も今日とて、舞のスプーンを洗い、消えかかる名前の上から油性ペンで「まい」と刻む。


「ドッペルゲンガーと出会ったら、死ぬらしいけどな」


 静かなキッチンに正樹の独白が広がって雲散した。


 スプーンの名前を正樹はゆっくり指でなぞる。世界で一つだけの名前、自分が愛した人名。


 一年間も洗い続けたスプーンは、使用者がいないため、目立った衰えを感じさせない。それを見た正樹の心情と言えば、舞の存在が部屋から消えた感覚が襲う。


 スプーンだけじゃない、彼女の所有物は劣化を顔にしない。さすがに正樹も、舞の自室に入ろうとはしなかった。だけど、そこに設置された全ては、まだ主人の帰りを待っているはずだ。


 一番に彼女の帰路を希うのは自分だと、正樹は銀のスプーンを置く。


 その時、脱衣所に人の気配を感じた。目の端で捉えた影に驚き、正樹は脱衣所に視線を向けた。


 一瞬、ほんのコンマの時間だが、舞が立っていた気がした。正樹は驚くよりも、焦りがこみ上げる。亡くなる前に故人が挨拶にやって来る話は、オカルト界では名の知れた出来事の一つだ。


 正樹は鞄の中に必要な物を詰め込むと、家を飛び出した。扉の鍵をかけることもなく、走り出すのだった。

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