第4話
脱衣所でさっさと服を脱いだ
「ふぅー」
温度三十九度。
心地よい湯加減に声が零れてしまう。
すりガラス越しから脱衣所を見てみると、
足首、下肢、脇腹、胸部、肩先。
下から徐々に目線を上げた、正樹。
「あっ、入浴剤入れ忘れてるよ」
「わぁ⁉」
舞がいきなり扉をスライドさせたことで、正樹は素っ頓狂な声を上げる。
「どうしたの? そんな驚いて」
「……特に大したことは」
「そう? はい、これ」
「えっ?」
半開きの扉から顔を出す舞は、正面から窺ってしまうと色々と見えてしまう。そのため正樹はいじらしく視線を外していた。
だからだろう、舞が投げた入浴剤が正樹の額にぶつかって、湯船に沈んでいった。
ブクブク、ブクブク、泡が立つ。
「ふふふ、何してるのさ、まさ君」
「あまりにいい湯だったから、ぼーっとしてたんだ⁉」
「って⁉ 私が一番風呂の予定だったのに!」
「あっ」
舞の叫びが風呂場に響きわたる。
勢いよく扉を開けて舞も浴室に侵入し、正樹一人でこせこせの湯船に飛び込んだ。
水滴が辺りにまき散らされ、二人分の密度で浴槽の縁から滝のごとくお湯が滴り落ちた。
「狭いぞ」
正樹は、顔にかかった水滴を拭った手を目元で止めて言った。
「狭いね」
舞も同じく応じる。
入浴剤はすっかりと溶けてしまい、湯の表面は乳白色に染まってしまう。足を抱えて座る二人の体は雲に隠れたみたいだった。
数回も舞の全裸を眺めて惚れている正樹だが、風呂場のように明るい場所での確認は初めてだったりする。
水飛沫を被って煌めく黒髪、お湯に当てられて赤らむ頬、首筋から伝った一滴が幾重にも零れて鎖骨の窪みに溜まる。
照明の効果も相まって白味の強調された腕が伸ばされた。
正樹の横顔を舞の手のひらが包む。
「どうかしたの? 固いよ、表情」
「えーと」
柔和な顔を向けられた正樹は、ますます舞の艶やかさに当てられて頭が無駄に回転し続ける。チェーンの外れた自転車だ。
このまま暴走を許してしまうと、脳ミソはいとも簡単にオーバーヒートを起こしてしまう。そう思った正樹は早口に進める。
「二人で入ると狭いよな。こうしよう、交代で体を洗う。そうすれば一人がバスチェアに、もう一人が広々と湯船に浸かれる」
「ごもっともだね。それじゃあ私が先に洗うよ。初バスタブはまさ君に取られたけど、初シャワーは私がいただくね!」
「どうぞ」(ま、シャワーも使ったけど)
ザバッ――――。
「のわあっ⁉」
許可を得た舞は、躊躇などまったくない潔さで起き上がった。
そうなれば正面にいる正樹の瞳は必然的として、舞の裸体を映し出すことになる。正樹が驚きのあまり声を漏らし、湯船でひっくり返った。
水面から顔を上げた正樹はジト目を舞に向けた。
「舞は恥ずかしいとか思わない? 付き合ってるって言っても、ほら……まあさ」
「うーん」
バスチェアに座った舞はシャンプーを両手で混ざる。手の平で薄くなったシャンプーを髪の毛に染み込ませると、カシャカシャ、髪を掻き混ぜる。
「他人に見られたら恥ずかしいよ、精神が擦り減るさ。けど、まさ君なら逆に、見られて幸福かな」
「…………僕はね、今この状況、結構恥ずかしいから」
「男性なら眼福でしょ? そういえば、初めての時――」
「その話は止めよう⁉」
正樹が慌てて舞の声を打ち消す。
舞は頷くと同時に泡立った髪をシャワーで洗い始める。形がまばらな泡がわたあめのように溶けてしまう。この世で一番短命な生物はカゲロウだが、シャンプーの泡も引けを取っていない。
目を瞑りシャワーに首を垂らす舞を見て、正樹は閃いた。
先ほどから自分だけドギマギしているではないかと。ならば彼女にも違ったドッキリをしても文句はない、はずだ。
そうと決まれば早急に行動するべきである。舞の視界が闇に閉ざされている時間は長くない。
音を極力響かせないよう立ち上がった正樹は、右手を伸ばして舞の首筋に指を走らせた。
「ひやっ⁉」
舞の短い悲鳴に隠れて、正樹は湯船に浸かり直す。
「急にどうしたんだ?」
素知らぬふり。
うなじを擦りながら、舞は慌てた様子で正樹に顔を向ける。
「な、なんか首を誰かに触られたんだよ。まさ君、まさ君がしたんだよね⁉」
「してないけど。僕も目を瞑って湯を堪能してたから」
ジッと半眼の舞。
しかし、正樹の話を聞くなり舞の怯えた面持ちは、にんまりと化けた。
「はいダウト! まさ君は目を瞑っていたのに、私が目を閉じてるとなんで知っているのかな。まさ君言ったよね、『僕も目を瞑って』って」
「う……やるな、名探偵」
噓があっさりと露呈してしまい、正樹は苦笑を浮かべた。
舞は一見すればただの元気な娘に思われるが、本当にその通りだけど、頭の方もなかなか機知に長けている。
彼女が言うには「脳も筋肉なら、運動すれば鍛えられる」らしい。確かに体を動かすことで全身に血液を送り、脳のニューロンが活性化するとか、増殖する話は巷に溢れている。加えて、スポーツをすると記憶力がアップしたりするし、運動は脳を良くするのだ。
問題を解いて満足げな舞を見ながら、正樹は口角を吊り上げた。
「ドッキリは簡単に看破されたけど、可愛い悲鳴だったよ、舞」
「なっ……。むー、まさ君的には、ホラー映画みたいに耳をつんざく金切り声を上げた方が良かった?」
「風呂場でやったら大変なことになるぞ……。引っ越し早々に騒音は問題だ」
「だよね~」
居住まいを正し両手を膝に乗せた舞は、正面の曇った鏡を見つめて何かを思い出したようだった。
「昔さ、小学生の時だったかな。深夜0時ちょうどに
「まあー、聞いたことぐらいはある。で、急になぜ?」
ボディーソープを泡立てネットを使い、泡を生成する舞。
そんな彼女の背中に、正樹は疑問を帯びた目線を送る。鏡は曇っているため舞には正樹の目線に気付かないようだけど、浴場で響く声は聞き漏らすことはできない。
「もしさ、その噂を実行していたらまさ君が映っていたと思ってね。しっかし噂の続きには、くわえた剃刀を洗面器に落としてしまい、真っ赤に染まってしまう。そうして数年後に出会った男性がずっとマスクしているわけ」
「それで僕が『お前が剃刀を落とすからだ!』って言う羽目になるわけだ」
「ふふふ、そうなってないでしょ」
「つまり、舞は噂を実行しなかったと」
「私は小学生の時から、怖い話はめっぽう苦手だったよ」
全身を泡々にした舞は、蛇口を捻って湯気の立ち込めた滝に打たれる。白妙が肌色へと徐々に戻っていく。
すっかり泡を落とすと、長い髪を左右に振って立ち上がる。
「はい、交代」
「ああ」
二人の位置は反転。正樹がバスチェア、舞が浴槽に。
正樹がシャンプーを髪に馴染ませた時、舞が天井を見上げながら言った。
「オバケってトイレとか、お風呂とか、プールとか――水の近くで語られるよね。さっきの話やトイレの花子さんみたいに。なんでなの?」
「そうだな……。霊の正体で解釈は変わるけど、僕の考える所は。幽霊は電子だと思うんだ、脳の信号がその場に留まることで霊は生成されるわけ。幽霊電子説を前提にすると、水周りで心霊現象が起こる理由がわかる」
「理由?」
「うん。実はスプーン一杯の液体に、一テラバイトの情報を保存できるらしい。だからね、液体には人間の思念、脳信号が保管されるんじゃないかって。そう考えると亡くなった人が幽霊として出現する理由になると思う」
「そうなんだ……」
ちゃっぽん――。
舞が湯から両手を出し湯船の縁に乗せる。指先を伝った水滴がタイルに落ちた。
「そうならいいね」
「どうして?」
頭が泡だらけの正樹は、肩越しに舞を見つめた。
正樹の質問に、舞は柔和な微笑みを浮かべて。
「その場に残るのが思念なら、魂はきっと天国に行ったんだよ。私がね、怖い話苦手な理由の一つは、オバケを誰も助けることができないから」
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