第6話
「よっし」
今日から立派な社会人となり、長い長い労働が開始する。
男は敷居を跨げば七人の敵ありなんて諺があるほどに、社会人とは鬼や蛇が闊歩する場所だろう。と、言い過ぎかもしれない。
ネクタイを整えると、正樹はリビングに向かう。
そこには先に
窓から差した朝日が舞の髪を照らす。後ろで纏めてポニーテールとなった髪型の毛先が天使の輪を描く。
舞も同じくスーツ姿だ。
食事を済ませた二人は、それぞれの自室で着替えて、今に至る。
「なかなか似合っているな。まるで仕事が出来るみたいだ」
「みたいじゃなくて、できるんだよ! これでも私は記憶力も、対応力も、それから体力もバッチリあるからね」
仮面ライダーみたいに、両手を右に伸ばす舞。
「それもそっか。テストも赤点なかったし、スポーツも男子顔負けだったし」
「逆に私は、まさ君が心配。まさ君ってのほほんととしてるから、上司に目をつけられてパワハラされるかもしれないよ」
「穏やかって言ってくれ。それとパワハラはまあー心配ないと思う。職場政治学とは言わないけど、物事は周りから埋めてしまえば大抵何とでもなる」
「なにそれ、怖っ……」
舞は一歩後ずさりし、白歯を見せて苦笑いを浮かべる。
「…………」
「…………」
沈黙した二人の影響を受けて、室内全体が静まり返った。
お互いの瞳に相手の顔が映る。
目を瞬かせて時を挟む。
「ふ、ふふふ」
先に笑い声で出したのは舞だった。
「なんだよ」
ジト目で応じる正樹に舞は答える。
「いやいや、緊張してるでしょ」
「もちろんしてるよ。初めての職場だよ? 学校の入学式だって毎回心臓が飛び出すぐらいだった。舞は…………してない?」
「実はこのスーツには、あらゆる状態異常を無効化する優れ物。緊張、ストレス、威圧もどういうこともないのさ。ってのは冗談だけど、緊張は微々たるものだよ」
笑顔の帯びた顔からは、彼女の言う通り緊張の気配はなかった。
「とても舞らしいね。大学でも舞が緊張してるところなんて、見たことないかもしれない。あ、サークルで心霊スポット行った時は緊張してたな」
「違うよ⁉ それは緊張じゃなくて恐怖だよ!」
頬を膨らます舞を見て、正樹は微笑した。
「そろそろ時間だし、行こうか」
「うん。今日はどんな仕事をするんだろうね」
「入社式だから、仕事はしないかもしれないぞ」
玄関で靴を履いた二人は、扉を開けて日光が降り注ぐ外に出た。
🥄🥄
正樹と舞が借りた物件から、最寄り駅までは徒歩十五分かかる。近いか、遠いかを聞かれると微妙なラインだろう。中間距離というにも、小学生の二十分休みをほとんど使ってしまう距離なのだ。とてもじゃないけど、形容しがたい道のりである。
歩道は細く、車道も車が横に二台でギリギリ。白線を越えればすぐそこで自動車が走っている。
学生が通学する時間でもないため、歩道はたまに高齢者が通りかかるだけだ。
「おー! まさ君あれ、桜だよ、桜」
「ほんとだな」
向かいの歩道に設置されたガードレールの奥に、桜の木が並んでいた。花びらが春風に戦がれるにつれて舞い散る。
正樹が足元に目線を下ろすと、ピンク色がちらほらと彩られる。春の始めだけに許された光景が広がっていた。
新しく会社に勤める人々の背中を押すみたいに花びらは漂う。
腕を組んで頷く舞は正樹に言う。
「あと春を見られるのは、六十回くらいかな」
「六十回くらい? あー、そういうこと。じゃあ八十二歳まで生きるわけだ」
「平均年齢はそれぐらいでしょ? もちろん、まさ君も頑張って生きてね」
「当たり前だろ。六十年後もこうして肩を並べてるよ」
「まさ君、私好き過ぎ」
頭に乗った花片を払い落すため、正樹が舞の髪を撫でた。
「そうだよ。舞のこと、愛してる」
「ふ、ふーん」
舞は頬を桃色に染めて面映ゆく俯く。
「…………」
「…………」
正樹の手が頭から離れた後、数秒の沈黙が走る。
その間、二人の
何とも言えない雰囲気に耐えかねたのは、舞だった。彼女は活発な気風で、元気や活気が溢れている。黙っていられなかったのだろう。
「まさ君、ちょっとしゃがんで」
「いいけど」
正樹は立ち止まって姿勢をかがめた。
そこに舞が近寄り、正樹の頭を撫で返す。髪に乗っていた桜の花びらが正樹の目下にパラパラ振る。
舞の身長的に、屹立した正樹の頭部に手は届かない。だから彼にかがむよう指示を出したようだ。
頭から手を離した舞は、正樹の耳元に口を近寄せて囁く。
「私もまさ君のこと、愛してる」
「なっ⁉」
急な告白に正樹は瞠目する。普段の元気溌剌な声ではなく、甘美な砂糖水のような艶めかしい声色だった。
硬直する正樹。
悪戯に笑った舞は正樹の肩を叩くなり、走り出す。
「駅まで競争だ!」
「…………はっ⁉ フライングはズルいだろ!」
飛び出した舞を追いかけるため、正樹も駆けだした。
二人だけの歩道は一定のリズムで踏まれるのだった。
🥄🥄
最寄り駅まで来ると人の数が一気に増える。
付近に住む人はみな、この駅を利用するので必然的に人口密度が高くなるのだ。朝の時間帯は社会人や学生がほとんどを占める。
「ゴール!」
見えないゴールテープを切った舞が振り返る。
正樹は息を切らしながら、やっとのことで舞に追いついた。
「はぁ……はぁ……速い、な」
「まさ君が遅いんだよ」
彼女は右手を腰に添えて、ポニーテールを揺らす。疲労感のない顔は嫌味を越えて清々しさが照らされていた。
呼吸を整えながら正樹は背筋を伸ばす。
まだシャッターが閉まった店が並ぶ町。現時刻だとコンビニぐらいしか営業されていないが、昼間になれば賑わう場所のようである。
正樹は駅の方を見る。
数人が改札口をくぐっていく光景を。
すると正樹の横腹を舞が突いた。
目線を下げた正樹から、舞は一歩離れて拳を前に出す。
「へい社会人。頑張れよ」
意図を読んだ正樹も拳を突き出し、舞の拳に合わせる。
「そっちもな、社会人」
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