銀スプーンの名前は消させない

菓子ゆうか

第1話

 初めて開閉した窓からの景色は、普段と変わらないはずなのに美しく感じてしまった。


 先ほど苦労して付けたカーテンを、冬と春が混ざり合った風が揺らす。半袖ならば寒く、長袖ならば心地よい空気。


 家具を運び終えた部屋は新たな主を迎えるように、フローリングを輝かせた。


「いいところだ」

 窓縁に手を乗せる正樹まさきは、二度頷いて言った。


「ふふふ、そうでしょ? なんせ、私が選んだからね」

 後ろから正樹の肩に手を乗せたまいがニマニマ笑う。正樹の横に並んで、緑が付き始める木々を見下ろす彼女。


 細めた目線だけを舞に送り、正樹が茶化すような調子で呟く。

「二人でだろ。僕の手柄を取るきかい?」


「そうだね。二人、二人で選んだ物件」

 口を閉じたまま口角を上げた舞は、表情だけを正樹に向けた。


 視線を感じた正樹も舞の方を見る。

 顔を合わせた二人の頬が薄く赤く染まった。それだけで二人の関係がただの友達ではないことを示すものだった。


 今年から社会人になる正樹と舞は同居することにした。大学から付き合い始めた二人は結婚の約束し、将来夫婦になるための予行練習として、同じ屋根の下に募ったわけである。


 そういうわけで引っ越しを済ませたこの部屋は、正樹と舞の愛の巣と姿を変えた。


 前の住民が一人寂しく住んでいたかもしれないし、家族連れだった可能性もある。幸いなことに事故物件というわけではないので、人死があったことはないだろう。

 しかし、日本列島で人が死んでいない場所があると思えないわけだが。精神的に遠い昔の話は皆無に等しい。前の、その前の住民が生者のまま退去しているならいいのだ。


 2DKの家賃九万二千円。お風呂トイレ別。


 カップルならば余りある物件で間違いない。一人一部屋あるからプライベート空間もしっかりと完備できている。


 最寄り駅から離れていること以外は、特段問題にする事柄はなかった。さすが色々な不動産を周り、一カ月の吟味の末に選び抜かれた部屋なだけあるというものだ。


「まさ君、ちょっと寒くない?」

「まあ、三月って言っても冬みたいなものだし。換気もそろそろいいかな」


 正樹は、挟まらないようカーテンをまとめて、窓をしっかりと施錠する。

 それから舞のつま先から頭の天辺まで目線を上下に動かす。


「舞……寒いと思うなら、半袖にショートパンツはおかしいから」


「うむ、ダンボールから物を出していると、暑くなっちゃてね。今のいままで薄着で平気だったのさ。しっかしね、汗に冷風は、さすがの私でも身を震わさずにはいられない」

 腕組みをしながら、むふふっと破顔する舞。


 彼女の服装は正樹が指摘した通り、無地の黒Tシャツとグレーのショートパンツだ。家では靴下を履かない主義の舞はもちろんのこと裸足で床を踏む。


 まだ整頓を終えていないダンボールを漁ってパーカーを取り出し、正樹は舞に手を伸ばす。

「引っ越し早々風邪を引いてもダメだろ。これ着な」


「ああ、王よ。私にその聖なるパーカーを授けてくださいませ」


 正樹からパーカーを受け取らない舞は、片足でしゃがみ込み、両手をバンザイさせた。


 つまり、着させてほしいとお願いしているようだ。


 苦笑を浮かべた正樹だが、舞のノリはこれまでの付き合いで慣れているようで、彼も同じ調子で応じる。


「勇者よ。このパーカーを身に纏い、世界を救うのだ」


 舞の両手にパーカーが通され、見る見るうちにパーカーが彼女の体にフィットする。胸は平均的な大きさなので双丘が浮かび上がることはない。もとよりパーカーは正樹のものだから、舞にとってぶかぶかな装備のため、体のラインを強調する服でないことは明白だろう。


 勢いよく立ち上がる、舞。パーカーに付属するフードを被り、胸元にクンクンと鼻を近づけた。


「まさくんの匂いがする」


「……ま、僕のものだから」


 なんとも居たたまれない気持ちで正樹は視線を逸らした。


「なかなか良い香りの洗剤だね」


「これから一緒になるよ」


 今日から一緒に暮らすことになるのだ。同じ洗濯機に、同じ洗剤を使ってドラムは回転する。二人の衣服はグルグルと混ざり合い、汚れが落とされて潔白に。

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