板状の道具と上等な服を着た青年が見える……

 その日はちょっと塾が長引いて帰ってもFPSする時間が無いから、仕方なく趣味の攻略サイト巡りしつつ帰宅していた。

 いつもは急いで帰るのだが、そうする意味もないので、あえてゆっくりと歩いていたからその変化に気付くことが出来なかった。スマホに集中していたのもあると思う。だから俺は、突然聞こえた獣の唸り声のようなものにビックリ仰天して、スマホを取り落してしまった。


 田舎とはいっても、一応、住宅街ではあったし、道路もひび割れがあるとはいえ、きちんとアスファルトが敷かれた道、だったはずなのに。

 そこは何故か暗い森のような場所で、一瞬のうちに大きな口を開けた獣の顔が見えたかと思うと、俺は後ろに叩きつけられていた。

 パニックになって尻もちをついたまま後ろにずりずりと下がり、声にならない声を上げた。それから、地面を這いずるようにして逃げ出した。


 なぜか、獣は追いかけてこなかった。無我夢中で、地面を這いずる内に、森を抜けた。そこには一面の草原が広がっていて、月明かりが眩しく見えた。

 俺は月を見上げて、ようやく何かおかしいことに気が付いた。

 その月は妙に大きかった。そして妙に黄色かった。例えるなら、それは絵本の月のような、どこか現実味に欠ける姿をしていた。


 ここは、どこなんだろう。少なくとも、俺の記憶にこんな場所は無かった。というより、地平の彼方まで草原、なんていうのは絵や写真でしか見たことが無い。


 それに___

 思い出したくはないけど、思い出さざるを得ない。


 俺は、確かに狼のような獣に襲われたはずだった。

 だって言うのに怪我はしていない。それどころか。


 地面を這いずって逃げたはずなのに、制服のズボンに土はついていないし、穴も汚れも無い。スマホだって放り出して襲われた場所に落っこちているはずなのに、ズボンのポケットに入っているみたいだ。

 恐る恐る取り出してみると、それは俺のスマホだった。電源もつく。どこも汚れていないし、壊れてもいなかった。


 そもそも、今は夜のはずだった。サバイバルには詳しくないから、本当にそうなのかは分からないけど、夜はそれなりに寒いはずだ。だっていうのに、寒くは無かった。寒くもなく暑くもない。

 それに、平原を見れば風で草が揺れているのが分かるのに、俺は風が吹いていることを感じ取ることが出来ない。無風だった。でも、目の前の草は風で揺れている。


 ……こういう時は訳が分からなくて頭痛の一つぐらいしてくるもんだと思うけど、それすらなかった。ただ、心臓がバクバクと五月蠅くて、何をすればいいのか分からなくて、俺はしばらくそこに立ち尽くしていた。


 どれぐらいの時間が経ったのか分からない。でも、少しずつ明るくなってきた、ということは夜が明けつつあるということなんだろう。

 そこでようやく、俺は少し歩いてみようと思えた。少なくとも、歩き続ければどこかに辿り着けるだろうと思って。

 そして、歩きながら。とりあえずスマホで何が出来るのかを確認してみることにした。


 スマホで出来るのはインターネットと入れていたゲームだけのようだった。通話は出来ない。110も119も通じなかった。まぁ、電柱も電波塔も見当たらないんだから仕方が無い。

 アプリも一部動く。ただ、他の人とやり取りするようなタイプのアプリは軒並み使えなくなっていた。ブラウザは使えるのに、インターネットに接続してください、と出る。よくある不具合でもあるから、なんとも言えない。


 今、太陽は中天にある。つまり昼ってことだ。だってのに腹は減らないし、延々と歩き続けてるはずなのに1ミリも疲れてない。喉も乾いていない。どうやら俺は人間を辞めてしまったらしかった。

 とりあえず今は、草原にあったそれなりに舗装された道を歩いている。舗装、と言ってもアスファルトじゃない。細かい砂利のようなものが撒かれて、草が生えないようにしてあるだけだった。とはいえ、道ではあるんだから、歩いていればどこかにつくだろう。

 人、に会ってどうするとかはないけど、まぁ、俺の身に何が起こってるのかぐらいは分かりたい。


 それから体感、10分もたたないうちに何かが見えてきた。無意識に速く歩いていたのか、気が付くと走っていた。どうやら、自分でも分からないぐらいに今の状況に決着をつけたいと思っていたのかもしれない。

 しばらく走ると、人の列とでかい壁に囲まれた何かが見えてきた。歩きに切り替えてしばらく歩くと、どうやらその壁の中に入るための列のようだった。俺は最後尾に並ぶ。すると、さっきまで最後尾だった人が俺の方を振り向き、少し驚いた顔をして前に向き直った。

 その人の服装は、なんというか、民族衣装っぽかった。派手なやつではなくて、その姿で生活するような、なんというか、日常的な感じというか。

 列の前の方を見てみると、その人と同じような服装の人が並んでいる。中には鎧のようなものを着ている人もいた。少なくとも、俺のような制服を着ている人も、スーツの人も、普通の格好をしている人がそもそもいない。

 急に不安になってきたものの、どうしようもなかったのでそのまま並んでいた。


 自分の番になった時、たぶん門番なのだろう、鎧を着た人に話しかけられた。


「む、変わった格好だな…この町に何をしに来た?」


 思わず、言葉が通じたことにホッとした。アメリカとかその辺っぽい顔つきだったので、ちょっと心配だったんだけど、思いのほかスラスラと日本語を話してくれた。


「あ、えっと、迷子なんですけど」

「ふむ。この町のものか?」

「いえ、その…森で迷ってしまって」

「なるほど、森で連れとはぐれたのか。どこから来た?」

「ええと、ミナミシマバラ、です」

「ミナミシマバラ…聞いたことが無いな。ちょっとこっちに来い」


 その門番の人はもう一人の門番にこの場を任せて奥に入って行く。

 俺もついて行かないわけにはいかないので、面倒なことになりませんように、と祈りながら後について行った。

 通されたのは狭い部屋だった。机と椅子が2つ置いてある。


「座れ」

「あ、はい」


 そう言われて椅子を引こうとして、椅子を掴めなかった。


「む」

「あ、あれ?」


 何度も椅子を掴もうとして、掴めない。仕方が無いので、そのまま座ろうとして、俺は尻もちをついた。


「何をやっているんだ。ほら」


 門番の人が手を差し出してくれて、俺はその手を掴んだ。はずだった。

 俺の手が、門番の人の差し出した手をすり抜けた。


「なにっ」

「えっ?」


 途端に門番の人の顔が険しくなり、俺を押しのけようとして失敗し、俺を迂回するようにドアの外に出ると、途端に騒がしくなった。

 何か不味いことが怒りそうなことは分かる。でも、どうすればいいのかは分からない。俺の手は椅子を掴めず、門番の人にも触れることは出来なかった。つまりそれは、俺は幽霊か何かになっちまったってことなんだろうか。

 いやまさか、と思う反面、もしそうだったらどうしようと思う。

 なんにせよ、このままここに居たら退治されてしまうかもしれない。


 そう思って外に出ようとした、その時だった。

 ドアが勢いよく開くと、ローブを来た人が中に入ってきた。顔はフードで良く見えない。俺が硬直していると、その人は何かをむにゃむにゃと唱えて、手に持っていた何かを俺の方へ突き出した。


「<<ターンアンデッド>>!」


 だけど、なにも起きなかった。足元に光る丸い模様付きの円、いわゆる魔法陣が出た以外は。

 続いてローブの人はむにゃむにゃと何かを呟き始めると同時に、俺の方に何かの粉を振りかけてきた。その粉は当然のように俺を素通りして、椅子と机に降りかかった。何も起きない。


「<<セイクリッドスピア>>!!」


 ローブの人の叫ぶような声と同時に、光り輝く槍のようなものが俺に向かって勢いよく飛んできて、俺の身体を貫通して行った。

 もちろん俺は何ともない。何となく槍が飛んでいった先が気になって後ろを振り向くと、その槍は俺を貫通した先の空中で溶けるように無くなったところだった。


「そ、そんな…」


 呟くような声がローブの中から聞こえた。おばさんの声のように聞こえた。その人の後ろから、さっきの門番の人の声が聞こえた。


「神官様、どうされました」

「この……者は本当にレイスなのですか?」

「……特徴からしてそうだと思ったのですが…、現に椅子を掴めず、椅子に座ろうとして尻もちをつき、差し出した私の手をすり抜けましたし」

「ではなぜ神聖術が効かないのでしょう…まさか高位の」


 二人は何か小さな声でぶつぶつと話し合っているみたいだ。


「あの…」


 俺がそう話しかけると、ピタリと話し声が止まった。


「俺、何もしないんで、その、町に入れてもらえたらなぁ、なんて」

「信用できない」

「何をするか分からない者を入れるわけには行きません」


 2対1じゃ何も言えない。というか、何もしないって言ってるのに。

 …まぁ、確かに俺も、何もしないと言ってる幽霊もどきを放置は出来ないと思う。

 そうなってくると。うーん。もう町に入るのは諦めるしかないかもしれない。


「わかり、ました。町に入るのは諦めます」


 俺がそう言うと、門番の人はホッとした顔を、神官様と呼ばれた人はローブで顔が見えないものの、緊張したままのように見えた。


「えーと。お二人を素通りしていいならそのまま通りますけど、出来ればどいてもらえませんかね?」


 二人は丁度ドアを背に立っている。そんでここは狭い部屋だ。そこをどいてもらわないと、通れる幅が無い。いや、今の俺なら幅なんかなくても通れるんだけど。

 そう言うと、門番の人が慌てて一人通れるだけの隙間を空けてくれた。

 二人とも、こっちをじっと見たままだったので居心地が悪かった俺は、速足でそこを通り抜け、閉まったままのドアを開けようとしてスカり、どうしようもないので、そのままドアを貫通して外に出た。


「うわっ」

「えっ?」

「な、なんだぁ?」


 外には人がそれなりにいて、こっちを見ていた人たちの何人かがそんな声を上げた。注目されるのが嫌だったから、そのまま足早に門の外へと出ていく。門はそれなりに混んでいたけど、俺が向かっていることが分かると数人が間を空けてくれて、俺はその間を通って外に出た。

 振り返りはしなかった。振り返ると、きっとまた入りたくなってしまうから。それはきっと、俺にもあの人たちにも良くない結果になる。そんな気がしたから。


 俺は、門を出ると、走ってその場を後にした。そのまま走り続けた。



 街が見えなくなって、俺はようやく一息つくことができた。といっても全然疲れてはないけど。でも、なんだか無性に悲しかった。

 俺が人ではなくなってしまったからか、もう人には会えないと思ってしまったからか。俺はその場に座り込んで、少し泣いた。


 涙が落ち着いて、このあとどうしようかと考えて、何もする気が起きなくて、ずっとそこに座り込んでいた。

 ただぼーっと座っていたけど、結局退屈になって、スマホのゲームをし始める。そうすると不思議と落ち着いた。そんなことをしても何にもならないのに、ゲームをしている間は何も考えなくても済んだからかもしれない。


 しばらくゲームをして、ふと気が付くと夜になっていた。相変わらず、寒くも暑くもない。月は相変わらず、黄色くてでかい。ふと、なんとなく写真を撮ってみたくなって、スマホを手に取り写真アプリを起動して、月をスマホの画面に映した、その時だった。


『ん…?QRコード……?』


 スマホの上部にQRコードを読み取りました、という通知が出ている。

 まさかそんなはずはない。月を見上げてもそれっぽい模様は見えなかった。

 もう一度月をスマホ越しに見る。やっぱり、それは出てくる。

 ……まぁ、これで何が起こるということもないだろう。そう思ってそのリンクに触れてみた。


 そこにはこう書かれていた。


クライドシアスの月 名称:オースルーナ

並行盤上世界、クライドシアスの月。正式名称オースルーナ。

月、という分類だが、それそのものが光っている。正確には表面上の黄色魔晶がクライドシアスから発生するエアマナに反応し、発光している。

オースルーナは世界の端に到達すると一時的に消失し、リベラソルが逆の端に現れる。


 いや、さっぱりだ。でも、よく見てみると、並行盤上世界、クライドシアス、黄色魔晶などの単語はリンク化されている。試しに触れてみるとそのページが開いた。


並行盤上世界

創造神が作りたもうたとされる、板を並行に2枚並べた状態の世界のこと。

板1面につき1つの世界が栄えており、合計4つの世界が存在している。

1枚目の表をクライドシアス、裏をネレイドシアス、2枚目の表をアークザッド、裏をジェイスザッドとし、原則行き来出来ないようにしていたが、2枚目の世界は高度な文明の発達により、現地生物が行き来を可能としてしまったため、現在凍結状態にある。

表と裏で特に世界に大きな違いは無いが、表世界が昼時は裏世界が夜となっている。板の1枚目と2枚目の間には非常に大きな距離があるため、生物には行き来が出来なくなっている。空間上、繋がってはいる。


 また、大仰な文章が出てきてしまった。何かの設定を呼んでいるようで面白くはあるものの、全部を理解するには少し難しく、疲れてしまったので、一休みすることにした。

 やるのはもちろんゲームだ。


 そんな風に日々を過ごしていると、たまに人がやってくる。

 不思議そうにこっちを見て素通りする人もいれば、こっちに話しかけてくる人もいる。そんで、話しかけてきた人の内半分以上は、俺が人に触れられないと分かると慌てて荷物をまとめて逃げていく。

 逃げない人も、俺を剣で切りつけたり、むにゃむにゃと何か唱えて標的にしたりで、最終的には逃げていく。


 皆最終的に逃げ出すんなら、もう相手するだけ無駄だと、そう悟ったのはいつだっただろう。もう、それからは無視することにした。

 そうやって過ごして、かなりこの世界に詳しくなった頃、俺はようやく逃げ出さない人たちに会うのだけれど、その話は長くなるからまた今度にしよう。そのときまで、しばらくお休みだ。

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